中国の世界遺産 Heritage
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はじめに

 ここは、学生のレポートを掲載しています。内容は、教養セミナーⅠⅡⅢⅣに学ぶ学生と、中国文化事情に学ぶ学生が、春学期や秋学期でまとめたレポートです。
 大学に入ってまだ1年目の学生がほとんどで、本を読むことから資料収集し、インターネットを利用して収集することも多いです。教員は、レポートの書き方や引用の部分と、参考文献や参考サイトなど、特に著作権に関する意識を高めるために厳しく要求しているほか、多くの添削は特にしておりません。
 ここに学生のレポートを掲載する目的は、中国について、学生がどんなテーマに関心があるか、どういう風にレポートをまとめるか、いろいろ調べることによって考え方がどういう風に変わるかなどについて、これを読む方のために参考になればと思っています。そして、交流ができれば幸いです。
 もちろん、掲載されたレポートに関しての責任は教員にあります。ご指摘等がありましたら、是非とも次のメールアドレスを通してご一報ください。
molihua@gctv.ne.jp


中国の世界遺産
1.  中国の世界遺産―万里の長城、莫高窟について
2.  中国の観光について
3.  中国の世遺産について
4.  中国の造物について
5.  中国の文化遺
6.  泰山につ
7.  パンダと中国の


中国の世界遺産―万里の長城、莫高窟について

法学部1年 水野貴大

1、万里の長城について

中華人民共和国にある遺跡でユネスコの世界遺産(文化遺産)です。河北省山海関から、甘粛省まで至り、総延長は6000km以上に及びます。その大きさから「月から見える唯一の建造物」とも言われていましたが、2004128日に宇宙空間から肉眼で観測することはできないと中国科学院により否定されました。

2、万里の長城の歴史

一般に長城を作ったのは秦の始皇帝だと認識されていますが、「万里の長城」は明代に作られたものです。戦国時代から趙などは北の異民族に備えるために長城を建設していました。また北に備えるだけでは無く、戦国七雄の国境間にも長城が作られていました。始皇帝は中華を統一した後に中国の中にある長城は取り壊し、北に作られた長城を繋げて大長城としました。この時の長城は土製であり、馬や人が乗り越えられなければ良いということで、それほど高い城壁ではなかったといいます。また現在の物よりかなり北に位置し、その東端は朝鮮半島に及びます。前漢の武帝は匈奴を追って領土を拡張したので、長城は西の玉門関まで拡張され、その後の五胡十六国時代に異民族の力が強くなり、北魏は南よりの現在の線に新しく長城を築きました。しかし、後の北方民族・契丹の「遼」、女真の「金」、モンゴル人の「元」は、難なく長城を超えて侵入し、中国(華北)は3世紀もの間、北方民族の勢力下に置かれました。元を追い落として明が立てられると、元の再来に備えるために長城を強化し、ようやく現在の形になります。よく「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われますが、実際は草原の中に建っています。中国人の北方民族に対する恐れと憎しみが伺えますが、モンゴル系民族は明代にも長城を超えて侵入を繰り返し、明末には満州(女真)が再び長城を超えて明は滅び、「清」の成立に至ります。

このような歴史から、「金をかけても役に立たないもの」の代表格として、引き合いに出されることとなります。ただし万里の長城は防衛のための城としての意味よりも、国境線の主張の意味合いが強いとも考えられています。現在、中華人民共和国政府は重要な歴史的文化財として保護し、世界遺産にも登録されています。世界有数の観光名所としても名高いですが、地元住民が家の材料にする目的で長城のレンガを持ち去り、破壊が進んでいます。また、長城がダム工事により一部沈んだりもしています。長城周辺の甘粛省や陝西省は中華人民共和国でもっとも貧しい地域の一つで、当局は対策に頭を悩ませています。

20064月に行われた中華人民共和国の学術団体「中国長城学会」の調査によると、万里の長城が有効保存されている地域は全体の2割以下で、一部現存している地域も3割であり、残り5割以上は姿を消しているとの報告がされました。

3、莫高窟について

莫高窟は中華人民共和国甘粛省敦煌市の近郊にある仏教遺跡。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。この中から出た敦煌文献でも有名です。

敦煌石窟(とんこうせっくつ)・敦煌千仏洞(とんこうせんぶつどう)とも呼ばれます。

敦煌の周辺には莫高窟・西千仏洞・安西楡林窟・水峡口窟の石窟があり、敦煌石窟・敦煌千仏洞と言った場合、広義ではこの全てを含むことになりますが、歴史・規模・内容全てに渡って莫高窟が圧倒しているために敦煌石窟・敦煌千仏洞と言った場合でも莫高窟のことを指すのが普通です。

4、莫高窟の歴史

敦煌市の東南25kmに位置する鳴沙山(めいささん)の東の断崖に南北に1600mに渡って掘られた600あまりの洞窟があり、その中に2400余りの仏塑像が安置され、壁には一面に壁画が描かれ、総面積は4500平方メートルになります。作られ始めたのは五胡十六国時代に敦煌が前秦の支配下にあった時期の355年あるいは366年とされます。仏教僧・楽僔(らくそん、僔は人偏に尊)が彫り始めたのが最初であり、その次に法良、その後の元代に至るまで1000年に渡って彫り続けられました。現存する最古の窟は5世紀前半にここを支配した北涼の時代のもので、それ以前のものは後世に新たに掘った際に潰してしまったようです。窟のうち、北部は工人の住居となっており、ここには仏像や壁画はありません。壁画の様式としては五胡十六国・北魏時代には西方の影響が強く、仏伝・本生譚・千仏などが描かれ、北周・隋唐時代になると中国からの影響が強くなり、『釈迦説法図』などが描かれるようになります。期間的に最も長い唐がやはり一番多く225の窟が唐代のものと推定され、次に多いのが隋代の97です。北宋から西夏支配期に入ると、敦煌の価値が下落したことで数も少なくなり西夏代のものは20、次の元代の物は7と推定されています。この頃になると敦煌はまったくの寂れた都市となっており、以後は長い間、莫高窟は忘れられた存在となります。この莫高窟が再び注目を浴びるのが、1900年の敦煌文献の発見によってです。しかしその後も莫高窟自体にはあまり注目が集まらず、その価値が認められ、保護が行き届くようになるのは中華人民共和国が成立した以後のこととなります。

5、おわりに

中国文化事情のレポートで、テーマを「世界遺産」とした時に真っ先に出てきたのが「万里の長城」と「莫高窟」です。万里の長城はいわずと知れた世界に名だたる長城で、莫高窟は仏教で有名な遺跡です。また、この二つの遺産はとても歴史が長く、私のテーマである「世界遺産」のレポートにピッタリであると思い、調べて纏めました。このレポートで、中国の歴史の奥深さを知り、同時に中国の遺産に興味を持ちました。

参考文献

現代中国 著、愛知大学現代中国学部 出版社、あるむ

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中国の観光について

―世界遺産を中心に

経営学部国際経営学科1年 小川拓郎

       キーワード:  万里の長城、武陵源

一. はじめに

世界遺産とは?

 「顕著で普遍的な価値を持つ」物件が世界遺産に登録される。世界遺産は一般に3つに分類される。

  文化遺産:建築物や遺跡など人類が造り出した文化的な物件

  自然遺産:大自然の景観や貴重な生態系など自然の物件

  複合遺産:文化遺産・自然遺産双方の価値を持つ物件

世界遺産の登録基準・・・世界遺産に登録されるためには10ある登録基準の少なくともひとつを満たしていなければならず、審査ではこのどれに該当するかが検討される。

 文化遺産の登録基準

1、人間の創造的な才能を表現する傑作であるもの。

2、一定の期間、または世界のある文化圏において建築、技術、記念碑、街並み、景観デザインの発展において、人類の価値の重要な交流を示しているもの。

3、 現存する、またはすでに消滅した文化的伝統や文明に関する唯一の、あるいはまれな証拠を示しているもの。

4、人類の歴史の重要な段階を示す建築物、建築様式、技術集合体、または景観の顕著な例と言えるもの。

5、ある文化(ある複数の文化)や人類の環境的相互作用を特徴づける人類の伝統的集落や土地や海洋利用の顕著な例であるもの。特に、回復が困難で、存続が危うい状態にあるもの。

6、顕著で普遍的な価値を有する出来事や現在存続する伝統で、思想・信仰・芸術作品・あるいは文学作品と直接に、または実質的に関連があるもの。

 自然遺産の登録基準

1、生命の記録、進行中の地形発達の重要な地質学的過程、または重要な地形学的・自然地理学的特徴を含む、地球の歴史の主要な段階を示す顕著な例であるもの。

2、 陸上・淡水・沿岸・海洋生態系・動植物群集の進化や発展において、進行中の重要な生態学的・生物学的過程を示す顕著な例であるもの。

3、 類まれな自然の美や美的要素を有した自然現象、または地域を含むもの。

4、生物の多様性保全の観点から、重要な自然の生息・生育地があるもの。学術上・保全上の観点から、顕著な普遍的価値を有し、絶滅の恐れがある種を含むもの。

 世界遺産登録までのプロセス

1、世界遺産条約を締結する。

2、県や市町村といった自治体が文化庁や林野庁に世界遺産を登録したいむねを要望し、資料を提出する。

3、協議を経て暫定リストに物件を登録する。

4、暫定リストの中から条件がととのった物件を、政府がユネスコ世界遺産センターに推薦する。 ただし1国につき年2件までで、文化遺産は年1件に限る。

5、文化遺産はICOMOSが、自然遺産はIUCNが現地調査を行い、報告書を作成する。

6、報告書をもとに、毎年一度開催される世界遺産委員会が登録の可否を審議する。

二.万里の長城について

  万里の長城は紀元前7世紀の春秋時代から明代まで、約2000年以上に渡り造成を重ねてきた。現存するものの大部分は明代の建造で、総延長約6000キロの世界最大の城壁で、衛星写真でもはっきり見ることができる。

現在、観光地として公開されている長城の「八達嶺」は北京から比較的近く気軽に行けるので最も人気がある。

・八達嶺   北京市内から約75キロ、高速道路を使って1時間足らずの距離で手軽に見学ができる最もポピュラーな場所。太行山脈に続く軍都山脈にあたり、なだらかな尾根と小規模な峡谷が連綿と続く高原の入り口に位置している。

三.武陵源の自然景観について

  武陵源は湖南省の西北部の張家界市に位置する風景区で、数億年の年月を経て大自然に形作られた雄大な岩山の世界が広がっている。主にこのあたりに住んでいるのは、トゥチャ族、白族、ミャオ族などの少数民族で総人口の69%を占めている。面積は264平方キロメートルにわたり、風景区内には数億年の地殻変動によってできたスケールの大きな奇峰群が林立し、盆景の拡大版や仙境の縮小版などとも呼ばれている。武陵源の一番の見所は海抜8001300メートルにある張家界で、そこには奇峰奇石がそびえ、深い渓谷には渓流も流れている。特に3つの側面がすべて垂直にそそり立つ高さ300メートルの山峰「金鞭岩」や無数の断崖絶壁が持ち上がってできた台地「黄獅寨」が有名である。

四.まとめ

  まず世界遺産が3種類に分かれている事も知らなかったし、世界遺産に選ばれる為の条件も初めて知った。今回調べたものの中では万里の長城しか聞いたことがなかったが、武陵源や黄山は写真を見て興味を持った。やはり中国の自然は日本より大きく、とても偉大だと思った。いつか万里の長城に行ってみたいと思った。

参考文献

1、2006年4月1日 ハンドブック 現代中国代二版 あるむ

2、http://www.nicchu.com/beijing/kanko/k01.html   万里の長城

3、http://www.arachina.com/heritage/wulingyuan/index.htm 武陵源

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中国の世界遺産について

法律学部現代社会法学科 田中広視

キーワード:  万里の長城  始皇帝  周口店の北京原人遺跡 

1・はじめに

現代の中国について、中国は殷の時代から始まり、何千年も前から存在していた。その何千の歴史から世界的に有名なものがいくつも生まれてきた。昔の中国人が生きるため、生きていた証、大自然の中で生まれたもの、それらは今世界遺産に登録されて、大事に守られている。

2・万里の長城

 万里の長城:高さは78メートルで、幅は5メートルぐらいあり、総延長は6000kmに及ぶ。建造が始まったのは2500年前の周の時代で、匈奴の侵入を防ぐのが目的だった。その後、中国を統一した秦の始皇帝(紀元前3世紀)が数百万人を動員して、戦国時代に燕、趙など北方各国が築き上げたそれぞれの長城を繋がれるように建造を成し遂げた。その次の前漢時代にも、また修復と増築工事を行った。さらに、明代(600年前から)には蒙古の襲来を恐れ、大規模な修復工事を行った。それぞれの時代に修築された長城は、全長合わせて5万キロを超えるものであるが、いま見学できる長城はほとんど明代に築造されたもの。特に有名なのは八達嶺長城(北京)、慕田峪長城(北京)、司馬台長城(北京)、古北口長城(北京)、黄崖関長城(天津)、金山嶺長城(河北省)、山海関長城(河北)

万里の長城の歴史を下のように引用しておく。

一般に長城を作ったのは始皇帝だと認識されているが、「万里の長城」は明代に作られたものである。戦国時代からなどは北の異民族に備えるために長城を建設していた。また北に備えるだけではなく戦国七雄の国境間にも長城が作られていた。始皇帝は中華を統一した後に中国の中にある長城は取り壊し、北に作られた長城を繋げて大長城としたのである。この時の長城は土製であり、馬や人が乗り越えられなければ良いということで、それほど高い城壁ではなかったという。また現在の物よりかなり北に位置し、その東端は朝鮮半島に及んだ。前漢武帝匈奴を追って領土を拡張したので、長城は西の玉門関まで拡張された。その後の五胡十六国時代に異民族の力が強くなり、北魏は南よりの現在の線に新しく長城を築いた。しかし、後の北方民族・契丹の「」、女真の「」、モンゴル人の「」は、難なく長城を超えて侵入し、中国(華北)は3世紀もの間、北方民族の勢力下に置かれた。元を追い落として明が立てられると、元の再来に備えるために長城を強化し、ようやく現在の形になった。よく「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われるが、実際は草原の中に建っている。中国人の北方民族に対する恐れと憎しみが伺えるが、モンゴル系民族は明代にも長城を超えて侵入を繰り返し、明末には満州(女真)が再び長城を超えて明は滅び、「」の成立に至った。このような歴史から、「金をかけても役に立たないもの」の代表格として、引き合いに出されることとなる(世界三大馬鹿などに数えられた)。ただし万里の長城は防衛のための城としての意味よりも、国境線の主張の意味合いが強いとも考えられている。現在、中華人民共和国政府は重要な歴史的文化財として保護し、世界遺産にも登録されている。世界有数の観光名所としても名高いが、地元住民が家の材料にする目的で長城のレンガを持ち去り、破壊が進んでいる。また、長城がダム工事により一部沈んだりもしている。長城周辺の甘粛省や陝西省は中華人民共和国でもっとも貧しい地域の一つで、当局は対策に頭を悩ませている。20064に行われた中華人民共和国の学術団体「中国長城学会」の調査によると、万里の長城が有効保存されている地域は全体の2割以下で、一部現存している地域も3割であり、残り5割以上は姿を消しているとの報告がされた。

http://www.arachina.com/heritage/「中国遊」より)

3・周口店の北京原人遺跡

世界遺産登録日:1987年遺産種別:文化遺産遺産所在地:北京市

・房山県周口店にある人類史上貴重な遺跡。1929122日に龍骨山の洞窟内から、考古学者の裴文中により、この一帯で出土した六つの完全な頭骨、15の下顎骨、150の歯および大量の四肢の骨をもとにすすめられた研究や、地質層に対する科学的測定によって、北京原人は7023万年前にこの一帯で暮らしていたという結論が引き出された(当時は世界最古の人類の祖先―北京原人と呼ぶ)第二次世界大戦中の1941年、日本軍侵攻時にその頭蓋骨は行方不明になり、現在にいたるまで発見されておらず、行方はなぞのままである。その後、多くの人骨の一部や石器が発掘されている。全国重点文物保護単位。北京原人遺跡は、北京市房山区周口店村の竜骨山の上にある。1920年代に、考古学者はこの地での発掘を始め、約60万年前の原人頭蓋骨を発見し、それに北京原人と名付けた。その後、竜骨山の上で原人の使った石器および火を使った跡が次々と発見された。これらの考古資料に対する研究を通じて、北京原人が約69万年前の直立人であることが証明された。北京原人は狩猟を糧とし、洞穴の中で群れをなして生活、粗雑な石の道具をつくり、使うことができ、また火で暖をとり、物を焼いて食べることを覚えた。北京原人化石は全部で頭蓋骨6個、骨の砕片12片、下顎骨15個、歯157枚および割れた大腿骨、脛骨、上腕骨などが出土した。これらの骨は老若男女約40体のものである。このほか、石器材料10万点、及び火を使った灰燼遺跡と焼いた石や骨などが発見された。北京原人は特色のある旧石器文化を創造し、華北地区の旧石器文化の発展に大きな影響を及ぼした。石器は北京原人の主な生産道具であり、または大昔の文化を代表する主なものでもある。同地では、石錐という新しい類型の生産道具が発見された。また、洞穴の堆積物の中から北京原人が作り使った骨器が発見された。例えば、物を掘るのに使った鹿の角尖とか断ち切って槌として使った鹿の角の付根などがそれである。火の使用は、人類の文明発展史上最も古く北京原人の発見は、火を使う歴史を数十万年も繰り上げた。北京原人の住んだ洞穴の中にはとても厚い灰燼層が残っており、もっとも厚いところは6mにも達している。火によって、人類は物を生のままに食べることから焼いて食べるようになり、人類の体質と大脳の発展を促した。北京原人はその粗雑な生産道具、粗末な居住条件をもって、大昔の輝かしい「北京人」文化を創造した。1933年に、また竜骨山の頂上にある洞窟の中で18000年前の山頂洞人の化石が発見され、1973年に竜骨山の北東で10万年前に北京原人と山頂洞人の間ぐらいの人類(新洞人)の歯の化石も発見された。

北京原人について次に引用しておく。

北京原人(ぺきんげんじん、学名:Homo erectus pekinensis、ホモ・エレクトス・ペキネンシス)とは、中国北京の北東、房山県周口店竜骨山の森林で発見したホモ・エレクトスの一種である。その周口店の北京原人遺跡ユネスコ世界遺産として登録されている。スウェーデンの地質学者 ヨハン・アンダーソンが人類の物と思われる歯の化石を発見した。さらに、その後の調査で192912月2、中国の考古学者 裴文中が完全な頭蓋骨を発見した。結果的に合計十数人分の原人の骨が発掘された。しかし、日中戦争の激化により、化石は調査のためにアメリカへ輸送する途中に紛失した。紛失する前に協和医学院の客員解剖学教授であったドイツ出身の学者F.ワイデンライヒがすでに詳細な記録や研究を残しており、これが今日の北京原人の研究資料となっている。F.ワイデンライヒは北京原人を現生人類(アジア人)の祖先と考えたが、現在では否定されている。ちなみに戦争後、わずかに北京原人の骨が発掘されている。北京原人はアフリカ大陸に起源を持つ原人の一種であるが、現生人類の祖先ではなく、何らかの理由で絶滅したと考えられている。石器や炉の跡が同時に発見されていることから、石器や火を利用していたとも考えられている。また、動物の骨が近くに見つかったことから、それらを焼いて食べていたという説もある。さらに、原人の骨自体が粉々にされていたので、北京原人の間では食人の風習もあったという説もまた有力である。発見当初の旧学名はシナントロプス・ペキネンシスとされたが、現在は分類が修正され、ホモ・エレクトス・ペキネンシスとなっている。(http://www.arachina.com/heritage/「中国遊」より)

4・まとめ 

 中国について、特に世界遺産についていろいろ調べました。調べた感想‥まず万里の長城はもともと周の時代、匈奴の侵入を防ぐために数百万人を導入して造られたものであった。そのようにして造るなんてよほど自分たちの土地を守りたかったか、ただただ支配欲が強かったのか、わかりませんが、今も立派に残っている。すばらしい、ただそれしか思わなかった。あと周口店の北京原人遺跡についても調べました。北京原人というのは大昔約7023万年前に存在していた人類であるが、そんな大昔の人の化石などが出てくるなんて、とてもすごいことであると思った。しかも、火を使って生活していたことや、男、女、子供、大人などを見分けられて、わかるのもすごいと思った。

今回2つの世界遺産についてしらべたが、いろいろと世界遺産のこと、その歴史、人物についても知ることができてとてもよかったと思う。 

参考文献

1.http://www.chinaguide21.com/「中国旅行の達人」より

2.http://www.arachina.com/heritage/「中国遊」より

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                 中国の建造物について 

 法学部現代社会法学科1年 伊藤卓真

         キーワード:万里の長城 天安門広場 故宮 

1、はじめに

今回は中国の建造物について調べてみたいと思う。

2、万里の長城について

6320キロメートル、1万6000華里にも及ぶ壮大な古代中国の建造物は、「万里の長城」と称され広く知られるところ。一般に長城を作ったのは秦の始皇帝だと認識されているが、いわゆる「万里の長城」は明代に作られたものである。戦国時代から趙などは北の異民族に備えるために長城を建設していた。また北に備えるだけではなく戦国七雄の国境間にも長城が作られていた。始皇帝は中華を統一した後に中国の中にある長城は取り壊し、北に作られた長城を繋げて大長城としたのである。

前漢の武帝は匈奴を追って領土を拡張したので、長城は西の玉門関まで拡張された。その後の五胡十六国時代に異民族の力が強くなり、北魏は南よりの現在の線に新しく長城を築いた。

しかし、後の北方民族・契丹の「遼」、女真の「金」、モンゴル人の「元」は、難なく長城を超えて侵入し、中国(華北)は3世紀もの間、北方民族の勢力下に置かれた。元を追い落として明が立てられると、元の再来に備えるために長城を強化し、ようやく現在の形になった。

3、天安門広場について

南北880m、東西500mの世界最大の広場。敷石は花崗岩。北は北京一の大通り・長安路でその向こうに故宮の入り口だった天安門がある。広場の中は、北から人民英雄紀念碑、毛主席記念堂、正陽門(前門)があり、広場の西には人民大会堂(日本の国会議事堂にあたる)、東には中国国家博物館(旧・中国歴史博物館および中国革命博物館)がある。これは、太陽の昇る方角を未来、沈む方角を過去に比喩したものである。

明の成祖、永楽帝による北京遷都のときには、すでに天安門広場の原型は存在した。天安門を出て、南に下ると「大明門」(清朝では「大清門」、辛亥革命後に「中華門」と改名)にいたる「千歩廊」と呼ばれる大通りと今の長安通りにあった「長安左門」と「長安右門」の間を結んだ丁字型の空間である。1954年に「千歩廊」の左右の官庁と倉庫群を取り壊し、中華門と長安左右門を撤去して今の天安門広場ができた。そのときあわせて人民英雄記念碑が建てられた。1976年に毛沢東が死去すると、翌年にかけて広場の南に毛主席記念堂が建てられた。

4.故宮について

中国で現存する宮殿の中では最も規模が大きく、最も完全な形で原型が残されている建造物。

故宮博物院こきゅうはくぶついん)は中国の歴史的遺物を多数、所蔵・展示している博物館であり、台北、北京、藩陽3か所にそれぞれの施設がある。なお、台北の國立故宮博物院の所蔵品は北京の故宮博物院が元来所蔵していたものである。

故宮博物院は、1924年に北洋軍閥の一人である馮玉祥が溥儀を紫禁城宮殿から退去させ、19251010日に宮殿内で清朝が持っていた美術品などを一般公開したのが始まりである。

その後、満州に駐留していた日本軍が華北地方に軍を派遣してきた為、蒋介石の国民政府(1948年からは中華民国政府)は博物院の所蔵品を戦火や日本軍から守るべく重要文物を南方へ疎開させ、19332月から5月までの間に13,427箱と64包に及ぶ所蔵品が上海経由で南京市に運ばれた。国民政府は南京市内に所蔵倉庫を建てて故宮博物院南京分院を設立したが、1937年に日本軍が南京に向けて進軍してきた為に、所蔵品は再び運び出されて四川省の巴県、峨嵋山、楽山の三箇所に避難させられた。なお、瀋陽故宮は2004年にユネスコ世界遺産(文化遺産)に追加指定された。

5.まとめ

中国の建造物について、いままで興味はあったがその歴史まではしらなかった。今回のレポートで万里の長城、天安門広場、故宮博物院についての歴史を知ることができ勉強になった。万里の長城については、始めは北方民族に難なく超えられてしまうようなものだったことに驚いた。2400kmという距離については、あまりにも長すぎて実感がわかなかったが、とても長く偉大な建造物なのだと思った。天安門広場は世界最大の広場で、万里の長城、故宮博物院についてはユネスコ世界遺産に指定されていることを知り、改めて中国の建造物はすごいなと実感した。今回のレポートで、さらに中国の建造物に興味がわいたので、まだ自分のしらない建造物や今回調べた建造物についてこれからも勉強していきたいと思う。また実際に足を運んで見てみたいです。

参考文献

1、中国人と日本人

2、アジア/北京・みどころ http://www.tabifan.com/asia/beijing/spot.html

3、万里の長城-Wikipedia 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E9%87%8C%E3%81%AE%E9%95%B7%E5%9F%8E

4、天安門広場-Wikipedia 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AE%89%E9%96%80%E5%BA%83%E5%A0%B4

5、故宮博物院-Wikipedia 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%85%E5%AE%AE%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%99%A2

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中国の文化遺産

―万里の長城について

経営学部国際経営学科1年 山中輝恵

キーワード: 史記 秦 漢 明 軍事防衛 

1.はじめに

『史記』にその名の由来を持つ万里の長城は、渤海湾に臨む山海関を東の端とし、西の端にあたる甘粛省西部の嘉峪関まで約3000㎞にわたって連なる世界最大の規模を誇る建造物である。険しい山脈や大河や峡谷を越え、果てしなく続く長城は、異民族の侵入を防御するためにつくられた。その原形は、秦の始皇帝が全国を統一した紀元前221年にさかのぼる。以来、歴代王朝の元で修築や増築が繰り返され、壮大堅固な軍事防衛施設である長城全体が完成したのは明代後期の1600年ごろである。現存する長城のほとんどが明代に築かれたもので、当時の建築技術の高さを今に伝えている。  

2.『史記』に記された「万余里」

秦の始皇帝は紀元前221年、韓、魏、趙、燕、斉、楚の6国を滅亡させて、中国史上初の統一国家を樹立した。始皇帝はこの時、各国が独自に諸国間の防衛のために築いていた在来の長城とそれに付設された関防の撤壊を命じ、群雄割拠の局面の復活を封じたのである。さらに紀元前215年には、将軍の蒙恬に30万の軍隊を遣わして、内モンゴル南部のオルドス地方を占拠していた匈奴を北方へ放逐させた。同時に、匈奴に対する防御を強固にするために、燕、趙および秦が築いた北辺の長城を連結するとともに、拡張を加えた大規模な建設工程を断行し、ついに遠大な距離にわたる長城の統一を果たした。

 始皇帝の当時の長城は司馬遷の『史記』の記載によると、西は臨洮に始まり、東は遼東にいたる全長は「万余里(1万里余り)」であったという。今日の遺跡により推定できる範囲で、現地名によって補足すると次のようになる。まず、西の一段は秦の旧長城を援用した甘粛省岷県を基点とし、北へ向かって蘭州を通って東行、寧夏回族自治区の固原を経て東北へ走り、河曲(陝西・山西・内モンゴル3省境)の黄河のところまで。北の一段は趙、東の一段は燕の旧長城をそれぞれ連結した部分で、西は内モンゴル西部の高闕あたりから始まり、オルドス高原の北の陰山山脈に沿って東へ走り、河北省の北端を張家口から横断し、内モンゴルの赤峰を経て遼寧省の北部を通って東南に向かい、碣石山から鴨緑江を渡って朝鮮にいたるまでだという。     

3.漢代に増築された長城

秦の始皇帝が修築、拡張、統一した長城は、その後、歴代王朝の元でしばしば修築や新たな経路の増築が繰り返された。なかでも大々的な築造は、漢代に行われている。前漢の武帝は、元光2(133)以来、北方辺郡への侵略、殺戮を繰り返すようになった匈奴の攻撃に対して、将軍の衛青、霍去病を派遣して10年にわたる戦闘で圧勝を得たが、同時に北辺防御の必要を痛感して、大規模な長城の建設を敢行したのである。武帝は、始皇帝の長城を修築しただけでなく、まったく新たな地区の長城をも建設した。

 武帝は、新たに漢の領土となった黄河上流の河西回廊を西域へ通ずる拠点として重視し、秦の長城を西方へ向かって延長した。元狩2(121)に霍去病の軍が匈奴を撃破すると、甘粛省の武威、敦煌両郡が置かれた。結局10年の歳月を要して、西は玉門関、北は居延にまでいたる新たな路線の西域の長城が完成したのである。また、漢代の長城には、亭障や烽燧といった軍事防衛のための拠点施設が一定程度の距離を置いて設置された。外敵侵入を監視するための望楼のある城砦や狼煙台のたぐいで、驚くべきことに、これらが広大な地域にわたって有機的に配置され、周到な防御体制がとられていたのである。

4.明代に完成した長大な万里の長城

 漢代以降も北魏、北斉、北周、隋、遼、金などの各王朝によって長城の修築や増築が繰り返されたが、もっとも本格的に建設を展開したのは明代であり、長城の建築技術のうえでも最高の水準に達した。明の太祖朱元璋は、洪武元年(1368)に大将軍の徐達を派遣して居庸関(北京市昌平県)など、洪武14年には山海関(河北省秦皇島)などの地に長城を築いた。その後も長城の修築はつづいて行われ、正徳年間(15061522)には宣府鎮(河北省宣化県)から大同鎮(山西省大同)にいたる一帯に3000ヶ所以上の煙墩(烽火台)が築かれたという。

 こうして、およそ1600年前後までに、万里の長城の全行程はついに完成をみるにいたったのである。この結果、万里の長城は、東は鴨緑江から西は嘉峪関まで達し、このうち北京市の北方から山西省西北方までは内外二重の長城のほか、分岐行路も含む、のべ6350kmの距離を走行するところとなった。なお、このなかでは建築工法的には北京市から遼東までの部分は粗雑で、山海関から北京市を経て山西省にいたる地区がとくに堅固に築かれているという。

 明代の長城には、要衝の地点に築かれた関城の修復工事や辺防の兵卒の指揮派遣を統轄する単位として、以下のような9つの鎮が置かれた。すなわち、遼東鎮、薊鎮、宣府鎮、大同鎮、山西鎮、延綏鎮、寧夏鎮、固原鎮、甘粛鎮、の九鎮である。城堡や烽火台などの防衛拠点が一定程度の距離ごとに設置されるのは、いうまでもなく漢代以来の伝統を踏襲したものにほかならない。

 明代の長城については、山海関、居庸関、雁門関、嘉峪関あるいは八達嶺、慕田峪、金山嶺などの特定区間のように、観光名所として解放されている防衛拠点の実物遺構もすくなくない。また北京近郊の司馬台長城のような詳しい建築技術の専門的な調査が行われた実例もあるので、具体的な状況を知ることができる。たとえば、文献によれば秦の始皇帝の長城は、険しい山や谷の地形を利用しながら築いたというが、明代修築の長城遺構を見れば、それは誇張でなく、技術的にかなり高度な工夫がなされたことが理解できる。   

5.建築技術の発達と伝統的な軍事防衛施設

 長城の防壁そのものは、秦・漢時代には土をつき固める版築工法で本体を築き、墼(日干しレンガ)もしくは塼(焼成レンガ)で被覆することが多かったが、時代の工法では塼積みが主流で、地域や個別の施設によっては石積みや版築も用いられている。城壁上の縁には、凸字形に銃眼を開けた、つまり品字形というべき女墻が内外ともい連ねられたが、もちろん外側のほうを高く築いている。

 また、明代の長城には、経路に沿って要所要所に、関城、敵台、煙墩などが設けられた。関城は、要害の地に築かれた駐兵防備の拠点である。たとえば、居庸関は北京からモンゴルへ通ずる要衝のため、とくに三重に築かれた関城の中間層の部分にあたり、八達嶺の外にはさらに前哨防衛線が築かれた。

 煙墩は漢代の烽燧あるいは唐代の兵法書に見られる烽火台に相当する施設で、たとえば外敵一人から百人までなら烽火と号砲を各一発、五百人までなら各二発、・・・一万人以上なら各五発をあげるという具体的な規則が法令により定められていた。敵台は、一定程度の間隔で城壁上に建てられた二層から三層の望楼で、中には武器や弾薬が収められ、巡視の兵卒が常駐できるようになっていた。

 このように、現在各地に見られる万里の長城は、明代の修築にかかるもので、建築技術的には最高度の段階に達したものであるが、軍事防衛施設としての基本は、始皇帝の原点以来の悠久な伝統に根ざしていることが知られるだろう。      

6.まとめ

 今回、万里の長城を調べたことで中国の歴史も学ぶことができた。始皇帝は中国統一に向けて多くの偉業を成し遂げた人物だと感じたが、その裏で犠牲となった人々の存在は忘れてはいけないと思う。また、インターネットでは万里の長城の素晴らしい景色を見ることができ、大自然は感動的だった。機会があれば一度訪れてみたいと思う。

参考文献

1.愛知大学現代中国学部 編 200641日 第一刷発行

「現代中国」 株式会社あるむ

2.ユネスコ世界遺産センター 監修 1998527日 第一刷発行

「ユネスコ世界遺産 4東アジア・ロシア」 株式会社講談社

3.万里の長城の紹介

http://www1.ocn.ne.jp/~maru3sp/page12.html

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泰山について

経営学部経営学科1年 南条知幸

キーワード:  風景  歴史  宗教

1.はじめに

中国道教の聖地泰山は、標高1500mを越え、山の姿は雄大かつ壮大で、中国五大名山の第一にランク付けされている霊山である。五岳の中では一番東に位置し、東方を重んじた古代中国人の思想から、この山の評価が高い。

山麓には岱廟が、また山頂近くには碧霞祠があり、木造古建築が残されている。

岱廟の正殿、天きょう殿は1009年の創建であるが、何度も火災で焼失し、現在のものは1668年に再建されたものである。間口49m、奥行き18m、高さ22mの大建築で、北京故宮の太和殿、曲阜孔廟の大成殿と並ぶ、中国三大木造建築の一つである。

主として泰山府君、碧霞元君などを祭っている。泰山府君は病気や寿命、死後の世界、生死に関わる事に御利益があると信じられており、碧霞元君は出産など女性に関する願い事全般に御利益があり、その人気は観音信仰と比されるほどで、中国大陸で人気を二分している。

泰山は中華民族の象徴で、悠久で憐憫たる東方文化の縮図である。

2.風景

泰山は自然の風光が優美で、険しい山、渓流、瀑布、古い名木があり、東海の日の出の壮麗な奇観、きらびやかな夕焼け、雄大に波打つ雲海、美しい朝焼けの光の輪、仙境にいるかと思われる山頂の樹氷の奇観もあり、無窮の魅力に満ちている。泰山の風景区には多くの峰、崖、洞穴、渓谷、滝壷、泉、古い名木がある。

春は緑と花が人を感動させ、夏は泰山の瀑布と透き通った淵の水、湧き上がる松風、仙境のような雲海が清清しく美しい世界を感じさせる。秋は泰山の紅葉は火のようで、情熱的で豪快かつ爽やかで、冬は雪に覆われ梅の花が咲き神秘的である。

3.文化と歴史

泰山の歴史と文化は悠久で、古代泰山は東方の標識とされ、天の神が住む場所とされた。社会の安定、国家の繁栄、民族の象徴とされていた。帝王や将相をはじめ、名人、学者から庶民まで泰山を敬慕し高大、重厚、尊厳、新取、不屈の向上精神の象徴とされ、泰山に登ることは困難に挑戦し、自我を超越することの象徴であり、誇りとされた。

中国古代の各王朝の君主は泰山を天の下の最高の山と考え、君主になるとこの山にいき天の神の功績に報いるべきだと考えた。これを「封」という。また泰山の小山を掃き清めて、地の神を祭り、地の神の功績に報いようとした。これを「禅」といい、両者を併せて「封禅の儀」という。秦の始皇帝は中国の歴史上初の皇帝で、また最初に泰山に登った皇帝で、統一した後、泰山に来て封禅を行い、統一を守ること、統一政権を強化することを表明した。秦の始皇帝が泰山に登った後、以後の君主の大部分はみな泰山に登ることを重大な活動とし、自分の功績を石に刻んで残し、多くの文献を残した。古人の泰山での活動は多くの歴史遺跡を残した。泰山の麓の岱廟は国最大の宮廷式古建築郡で、泰山に現存する碑刻と摩崖石刻は2500余、石窟造像14箇所、文物の所蔵品は一万余件である。中国の成語、俗語は泰山と関係あるものも多く、例えば“重きこと泰山の如し”“穏やかなること泰山の如し”などがある。また、中国人にはある方面での権威ある人物を“泰斗”と呼ぶ習慣があり、中国人の心の中での泰山の地位は他のどの山をもっても替えることはできない。

泰山ではもともと東嶽大帝が最も重要な神位として祀られていて、泰山の山頂には人間の寿命の定数を記録した原簿に相当する帳簿があるという信仰が存在していた。

魏晋南北朝より唐代頃になると、その帳簿を管理する人間界同様の組織の存在が想定されるようになり、長官としての泰山府君が出現したのである。

また、後漢には伝来していた仏教の漢訳経典中に見られる「太山地獄」が泰山の地下深くに存在すると考えられるようになった。

宋代になると、後継ぎ問題により碧霞元君の人気が上がり始め、現在のように碧霞元君にお参りに行くという形式になった。

4.宗教とのかかわり

道教の泰山関係は古く、春秋戦国時代には既に大きいものの例えとして「太山」という名前が記されており、東晋時代には、早くも泰山が神性を帯びて冥界の神とされている。宋になると信仰形態が変化し、泰山府君の娘である碧霞元君への参拝が女性の間で人気となり、明代には主神である泰山府君の人気を超えるものになった。

泰山やその周辺には仏寺も見られる。決して多くはないが由緒が正しいものが多い。中でも霊巌寺は、宋代に天下の四絶という、中国を代表する4つの寺院の一つに数えられるようになった。

泰山は儒教との関わりもあり、孔子が泰山を訪れていたことから、泰山には孔子にまつわる名所が作られている。宋代には泰山学者と呼ばれる儒学者たちが西南の麓に住み大いに栄えたという。

5.まとめ

高校の頃に修学旅行で一度中国に行った事があるが、泰山には行けなかったので残念です。世界遺産の立派な山のようなので、もう一度中国に行く機会があったら、ぜひ行ってみたいと思った。

参考文献

1.ハンドブック現代中国第二版

2.泰山Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%B0%E5%B1%B1#.E6.B3.B0.E5.B1.B1.E5.8F.B.E6.96.99.E3.83.BB.E8.B3.87.E6.96.99

3.山東観光ネット

http://www.sdta.jp/jp/htdocs/5/a/a.html?%96%CA/

.世界遺産

http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/3773/taizan.html

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パンダと中国の動物

経営学部経営学科1年 小出篤史

キーワード: パンダ パンダ祭り 中国パンダ保護教育センター チベットカモシカ

1.はじめに

パンダは熊と似ているが、熊ではなく、頭が丸く、体が大きい、尾は短く、両手両足がごつくhttp://blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_78f/tonarino-kopanda/5879268.jpgしっかりしている。パンダ全身の色は白と黒の二通りしか見えないが、目の周り、耳、肩、両手、両足だけが黒色になっている以外、全てクリーム色パンダは絶滅に瀕している動物であり、生きている化石とも呼ばれている。中国国家第1種類の重点保護動物である。主に四川省西北部、西部及び西南部に生息しているが、一部は甘肅省東南部から陜西省南部にかけての高山地帯にもいる。現在、野生パンダの生息数は約1,596頭以下に減少し、ワシントン条約でその売買が禁止されている稀少動物である。

1.1.国際パンダ祭り

四川省政府と四川省阿倶チベット族・チァン族自治州、共同主催の33国際イベント「第一回国際パンダ祭」が開催され、世界15余国から約200名の報道関係者、パンダ保護団体、旅行業者などが招待され、四川省を、パンダをもっと広く世界に知ってもらおうというイベントである。

「成都パンダ基地」1987年、パンダの救済と繁殖、飼育、そしてその後自然に戻すという使命のもと「成都市人民政府」が設立。20029月現在、30数頭のパンダが飼育されている。

1.2.中国パンダ保護研究センター

11一般にはパンダは檻の中か、囲いの中で飼われているものにしかお目にかかることはできない。中国パンダ保護研究センターではこれほど綺麗で素直で生き生きしたパンダを見ることができる。赤ちゃんパンダは人間の赤ちゃんと同じく、保育器の中で育てられる赤ちゃんパンダに触れることは、飼育している人以外にはできないのだが里親になれば赤ちゃんパンダを抱くことができるのだ。里親になるには期間によってちがいがありますが、最低6万円でなることができます。

中国パンダ保護研究センターの活動

1、パンダ、トキ、金糸猿の人工飼育、繁殖をさせる。 2、陜西省の自然環境に生きていおり力絶滅が危惧されている動物を収容する。 3、野生動物の救助、負傷した動物の保護及び繁殖等の科学研究を行う。 4、マスコミに対し動物の保護意識を高める為に、野生動物保護法規を宣伝する。

1.3.人工繁殖

中国の今年人工繁殖されたパンダは15頭、人工繁殖史上、最多となった。人工飼育されているパンダは「発情しにくく、交尾受胎しにくく、生まれた後元気に育ちにくい」3難動物とされている。パンダは1年に1回しか妊娠せず、1回に1頭から2頭を生む。しかしパンダの人口繁殖の成功で中国はパンダの繁殖過程における、交尾難、受胎難、生育難の3大難関をすでに克服、その技術は世界をリードする水準にあるという。パンダは世界で現存する最も古く、最も絶滅の危機に瀕した種の一つ。現在、世界の野生パンダは1000頭前後で、主に四川盆地周辺の険しい山中に分布している。全世界で人工飼育されているパンダは約140頭に上る。

2.チベットカモシカ

中国西部に生息する野生希少動物のチベットカモシカはその毛が黄金のように高価であるため、狂気じみた乱獲でむごたらしく殺されている。中国はチベットカモシカを保護するため乱獲者との闘いを繰り広げている。

チベットカモシカは非常に寒い気候に適応するため、その毛は軽く、柔らかく、細く、弾力性がよく、保温性がきわめて強く、「カシミヤの王」と称されている。チベットカモシカの毛でつくられた「シャトゥーシ」は豪華なショールである。長さ12メートル、幅11.5メートルのシャトゥーシの重さはわずか百グラム、それを握りしめれば指輪の中を通すことができるため、「指輪ショール」とも呼ばれている。その値段は14万ドルもし、金よりも高い。 青海省のココシリ国家クラス自然保護区の責任者によると、チベットカモシカは毎年の夏に毛を替えるが、自然に替える毛がまばらに落ち、チベットカモシカが野生の動物であるため、落ちた毛は風に吹かれてあちこちに飛び散る。いまでは自然に落ちた毛の収集を試みる人はまだおらず、チベットカモシカのカシミヤを得る唯一の方法はチベットカモシカを捕獲することである。チベットカモシカの毛に対する市場ニーズが大きく、価格が非常に高いことは、チベットカモシカに壊滅的な災難をもたらしている。

 

3.アルガリ

減っているものもいれば増えているものもいる。アルガリはらせん状の大きな角が特徴の、世界最大の野生ヒツジ。中央アジアの寒く乾燥した草原や山岳地帯に住み、主に草やコケ類、木の葉や枝を食べ、群れで生活する。家畜のヒツジの祖先といわれている。絶滅危惧種か絶滅の恐れのある種としてリストアップされ、中国では国家第2級保護野生動物に指定されている。近年現地の林業と野生動物保護部門は、環境と野生動物の保護に力を入れてきたためアルガリの生息数が1000匹に達し、2000年の時よりも倍以上増えたという。  

4.まとめ

日本でもTVでパンダの赤ちゃんを動物園の職員が人工的に育てている番組がやっていた。パンダの体はとても弱いようで、食事にも相当気を使わなければならないようでした。絶滅の危機であるパンダを救うのに中国の繁殖技術は大切だと思う。パンダについて調べるまではパンダがこれほど少ない動物だとは思いませんでした。絶滅させないように日本も中国を支援していくべきでしょう。日本もそうかもしれませんが、中国は動物を守ることに対してとても意識が高いとおもいました。

参考文献

パンダの写真

www.his-j.com/tyo/eco/asia/eco-22.htm

http://www.pandachina.jp/index.html

http://www.pandachina.jp/satooya.html

http://www.pandachina.jp/aboutpanda.html

http://blog.so-net.ne.jp/tonarino-kopanda/

http://www.chikyusanpo.com/panda2.html

チベットカモシカの写真

http://www.pekinshuho.com/2002-30/china-30-1.htm

アルガリの写真

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061122-00000000-rcdc-cn/

「現代中国」 愛知学院大学中国語編

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