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はじめに

 ここは、学生のレポートを掲載しています。内容は、教養セミナーⅠⅡⅢⅣに学ぶ学生と、中国文化事情に学ぶ学生が、春学期や秋学期でまとめたレポートです。
 大学に入ってまだ1年目の学生がほとんどで、本を読むことから資料収集し、インターネットを利用して収集することも多いです。教員は、レポートの書き方や引用の部分と、参考文献や参考サイトなど、特に著作権に関する意識を高めるために厳しく要求しているほか、多くの添削は特にしておりません。
 ここに学生のレポートを掲載する目的は、中国について、学生がどんなテーマに関心があるか、どういう風にレポートをまとめるか、いろいろ調べることによって考え方がどういう風に変わるかなどについて、これを読む方のために参考になればと思っています。そして、交流ができれば幸いです。
 もちろん、掲載されたレポートに関しての責任は教員にあります。ご指摘等がありましたら、是非とも次のメールアドレスを通してご一報ください。
molihua@gctv.ne.jp


中国の政治
1.  中国の偉人―毛沢東について
2.  毛沢東にいて
3.  中国の外交問について
4.  靖国問題にいて
5.  南京大
6.  「満州事変」につ
7.  一人っ子政策
8.  中国の人口題について
9.  日中国交常化について
10. 天安門
11. 様々な事件関係
12. 台湾問題の歴史的背について
13. 中国の新聞と版について
14. 日中交流
15. 一人っ子政策によ問題
16. 香港返還につ
17. 中国人口
18. 朝鮮戦争にいて

 

 

中国の偉人―毛沢東について

法学部法律学科1年 杉 亮輔

キーワード  生い立ち  毛沢東思想  中華人民共和国  死後の評価  文化大革命

1、    毛沢東の紹介

中国の政治家・思想家。中国共産党の創立メンバーの一人で中華人民共和国建国の父であり、死に至るまで最高実力者の地位を保った。

2、    生い立ち

1893年に、湖南省湘潭県韶山村の中農の家庭に生まれる。生家は地主といっても小規模なものであり、毛沢東は厳格な父によって子供のうちから労働に従事させられる。小学校を卒業後、家業の手伝いをしていた。その後、従兄から贈られた中国近代化を説く本に刺激をうけて16歳で故郷を離れ、いくつかの学校や地方軍などを転々とし、アダム・スミスやモンテスキューなどの社会学系の書物に触れる。1918年、湖南省立第四師範学校を卒業し、恩師を頼って北京に上京。大学図書館に勤めるかたわら『新青年』の熱心な寄稿者となる。

3、    毛沢東の思想、言葉を次に引用してみる。

日中戦争時代の有名な毛沢東の言葉:「戦争という巨大な力の最深の根元は、人民の中に存在する。日帝が我々を迫害しうる大きな原因は、中国人民の側が無秩序・無統制であったからだ。この弱点を解消したならば、日帝侵略者は、我等数億の目覚めた人民群の目前にて、一匹の野牛が火陣の中に放られた如く、我等の恫喝により彼等は飛び上がらん如く脅かされるであろう。この野牛は必ず焼き殺さねばならぬ」

4、    中華人民共和国建国

日本の降伏後、国民党軍を駆逐しつつ19491月北京に入城し、101日天安門広場で中華人民共和国の建国を宣言した。また、同年ソビエト連邦を訪れてスターリンと会見している。建国後は国家主席として階級を撤廃した共産主義中国の建設に力を注ぐ。しかし1956年の「百花斉放百家争鳴」運動で知識人から硬直した政策に批判をうけたため、これを弾圧するために19576月に批判的な知識人に対して開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ、投獄した。さらに1958年から1959年まで実施された大躍進政策に大失敗し2000万人から2500万人以上の餓死者を出す。この後、毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない傾向が強くなっていく。また、対米政策をめぐって対立したフルシチョフとも不仲で、1960年にはソ連の技術者全員が引き上げ、かつて蜜月であった中ソ関係は一気に冷え込む事となった。

5、    死後の評価

大躍進政策の失敗や文化大革命など、国を破滅の一歩手前に追い込んだ失策も数多いものの、中華人民共和国を建国した貢献は大きいとして市場経済化が進む現在も国父として崇拝されている。しかし、近代の中国政府は文化大革命などの失敗を認め始め、昔の毛沢東の神格化はだんだんされないようになっていく。以前は国歌でさえ毛沢東の偉大さをほめていたが、死後はまもなく国歌が元々の義勇軍進行曲に回復され、国歌での毛沢東をほめる言葉はなくなった。

6、文化大革命

すでに神格化が進んでいた毛沢東は1965年になると、新編歴史劇『海瑞罷官』(かいずいひかん)を「大毒草」であるとした上海の新聞『文匯報』(ぶんわいほう)の論文への支持を表明、作者の北京市副市長呉晗を失脚に追い込み、1966年には過激派青年たちの暴力行為に対し「造反有理」として支持を表明した。これらの事により、江青・林彪らを中心とし、実権派(経済政策の柔軟化を唱える党員は「走資派」という蔑称のレッテルを貼られ呼称された)・修正主義者(「スターリン批判」をきっかけに個人崇拝を厳しく戒め始めた当時の旧ソ連共産党・フルシチョフ路線に倣い、毛沢東個人崇拝見直しと代替権力として党官僚強化を唱えた党員をこう呼称した)として糾弾する広汎な暴力的大衆運動であるプロレタリア文化大革命への流れが決定付けられた。文化大革命では、紅衛兵による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇(1968年に失脚)らかつての党指導部にまでおよび、教師ら「知識人」や、中国国民党と少しでも関わりのあったものを徹底的に迫害、文化財を破壊する等の極端な左傾偏向主義運動に発展し、その犠牲者の合計数は数百万 - 2000万とも言われている。文化大革命で鄧小平・劉少奇などの「実権派」を次々と退けたが、1971年の林彪墜死事件以後は、鄧小平らかつて失脚した者を政権内に呼び戻しポストを与えるバランス感覚を発揮するようになったといわれている。

7.まとめ

毛沢東とは貧しい農民に生まれたにもかかわらず、勉強すればきっと役に立つと信じて家の仕事をもほっぽりだして勉強した末に、今の国中華人民共和国という素晴らしい国を見事作り上げた。その結果天安門広場にある毛主席記念堂内に安置され、永久保存・一般公開という中国にとっては歴史になくてならならい人物になった。このことは僕にとってはものすごく尊敬に値する人物でした。まさに有言実行とはこのことだと実感しました。世の中にはこんな人物がいるからこそ、文化が形成するのだなぁと思いました。

参考文献  

1、      陳舜臣 2005年 『中国人と日本人』 恒文社  

2、      経新聞「毛沢東秘録」取材班『毛沢東秘録』上下(産経新聞社・扶桑社文庫) 図1、図2、図3

3、      師哲『毛沢東側近回想録』(新潮社)

4、      李志綏『毛沢東の私生活』(文芸春秋)

5、      ジャスパー・ベッカー『餓鬼』(中央公論新社)

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毛沢東について

法学部法律学科1年 木村俊文

    キーワード: 中国共産党を創立 日中戦争  

1、はじめに

私は、中国と言えば毛沢東というイメージがある。名前はよく聞くが、どのような事を彼がしてきたのか詳しく知らなかったので調べてみた。

2、生い立ち

1893年、湖南省湘潭県韶山村の地主の家庭に生まれた。毛沢東は厳格な父によって子供のうちから労働に従事させられていた。その後、従兄から贈られた中国近代化を説く本に刺激をうけて16歳で故郷を離れ、いくつかの学校や地方軍などを転々とし、アダム・スミスやモンテスキューなどの社会学系の書物に触れた。1918年、湖南省立第四師範学校を卒業し、恩師を頼って   北京に上京。大学図書館に勤めるかたわら『新青年』の熱心な寄稿者となった。後に帰郷し、長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが四号で省政府から発禁処分を受けた。このころ新式学校の設立を計画したり陳独秀や李大釗と会ったりしており、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。同年、恩師の娘楊開慧と結婚。

3、中国共産党を創立

1921年、中国共産党の創立メンバーとして第一回大会に出席した。1927年の上海クーデターで国共合作が崩壊すると毛沢東は配下の農民兵と共に孤立し、家族とも離れて湖南江西省境にある井岡山に立て籠もることになった。1930年妻の楊開慧が中国国民党軍に捕らえられて処刑される。同年、毛は井岡山を去り、江西ソヴィエトを建設。主席となるが、以後4年間国民党軍の執拗な攻撃にさらされる。19341018日、根拠地を放棄し、長征を開始。1935115日、貴州省遵義で開かれた会議(遵義会議)で党の実権をほぼ掌握する。

4、日中戦争

日中戦争においては、1936年秋に陝西省延安に根拠を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示。消耗を防ぎながら抗日を続けた。1940年、「新民主主義論」を著し、人民中国のビジョンを示した。「新民主主義論」とは、中国共産党による一党独裁を否定。労働者・農民・勤労知識人の革命的諸党派による連合独裁を主張したものである。日本の降伏後、国民党軍を駆逐しつつ19491月北京に入城し、101日天安門広場で中華人民共和国の建国を宣言した。また、同年ソビエト連邦を訪れてスターリンと会見している。建国後は国家主席として階級を撤廃した共産主義中国の建設に力を注いだ。しかし1956年の「百花斉放百家争鳴」運動で知識人から硬直した政策に批判をうけたため、これを弾圧するために19576月に批判的な知識人に対する反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ、投獄した。さらに1958年から1959年まで実施された大躍進政策に大失敗し2000万人から5000万人以上の餓死者を出す。このことで世界三大大量殺戮者として、ドイツのアドルフ・ヒトラーやロシアのヨシフ・スターリンと共に揶揄されることとなった。この後、毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない傾向が強くなっていった。毛沢東が世界に注目された最後の事件は、1972218日北京における毛沢東=ニクソン会談である。この日、すでに椅子から立つのにも苦労するほど健康状態が悪化していたにもかかわらず、毛沢東はニクソン大統領と握手し、同盟各国の頭越しに米中国交正常化を成し遂げたことは全世界の驚愕を呼び起こしたのだった。

5.死去

筋萎縮性側索硬化症の進行は止まらず、197699日、側近と主治医に見守られるなか毛沢東は82歳で死去した。毛沢東の死の直後に腹心の張春橋・江青・姚文元・王洪文の四人組は逮捕・投獄され、文化大革命は完全に終了した。遺体は現在、北京市内の天安門広場にある毛主席記念堂内に安置され、永久保存・一般公開されている。

6.まとめ

私は、中国の有名人と言えば、天安門に肖像画が飾られている毛沢東である。名前は知っていたが、彼が、どのような事をやってきたのかを知らなかったのだが、調べてみると世界三大大量殺戮者として、ドイツのアドルフ・ヒトラーやロシアのヨシフ・スターリンなどと、同じ事をしてきたのを知った。まさか、毛沢東という人が世間で恐れられている人物たちと、世界三大大量殺戮者としてまとめられている事におどろいた。しかし、毛沢東がいなければ今の中国は無いと思う。彼は、中国の歴史的な人物だと私は思う。

参考サイト

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1

参考文献

現代中国  愛知大学現代中国学部 編

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中国の外交問題について

法学部法律学科1年 橋 裕香

.はじめに

 中国の各国々との間に発生している様様な外交問題、特に、アジア間についての問題を取上げ、各問題が発生した原因を探し求めてみる。

.日中国交の流れと歴史

1937年、日中前面戦争が勃発し、両国は戦争状態に流れたことから日中関係は悪化する。194112月には、太平洋戦争勃発。1945年には日本が降伏し、太平洋戦争・日中戦争は終結を迎える。しかし、1949年、毛沢東が中華人民共和国を樹立した年、一部の民間交流を除けば、日本とは基本的に対立関係のままであった。1950年に中華民国が台湾に渡り、19524月、日華平和条約を締結する。この条約は、台湾の国民政府が大陸を含む全中国を代表するという虚構を、アメリカの圧力の下で、日本政府が事実上受け入れたことで成立。しかし、この条約は、この条約はこの後20年間に渡り日中関係を拘束し、国交正常化の上で大きな問題を残す事になった。

1952年、第一次日中民間貿易協定で、民間レベルでの交流を開始し、1958年に第四次日中民間貿易協定を結び、交流はさらに前進するが、同時に条約上国交関係を持つ台湾国民政府から強い反発が起き、日本が台湾の要求を受理したために、中国は対外強硬政策の下で態度を強化、一時日中貿易が中断された。196211月、日中駐LT貿易覚書を締結した。これにより、「政経分離」のもとで、ある程度、日中関係は前進の傾向を見せた。1964年、中国の対資本主義国貿易の中で日中貿易が第一位を占め、1966年から、毛沢東主導で文化大革命が始まった。この時、急進派・極左が台頭し、対外的には革命外交と呼ばれる急進的な外交がとられるようになった。だが、その外交の結果、中国は社会主義国の中で孤立し、資本主義国との接近を余儀なくされた。67年末には、LT貿易の期限が切れ、翌年には、MT貿易が取り決められ、政経分離による経済関係が積み重ねられた。又、この年代は、ベトナム戦争を契機に米中が水面下で歩み寄り、同時に、日中も関係改善へ動き出すきっかけとなった。そして、1972年、北京で日本国政府と中国政府の共同宣言で、ついに、日中国交正常化が実現した。

.台湾問題

17世紀末、スペイン人が台湾東北部を一時領有し、更にはオランダの東インド会社が現在の台南市を中心として、台湾島南部を制圧した。制圧期間中、東インド会社は福建省、広東省沿岸部からの移住民を大量に募集して開墾を開始。その後、台湾のオランダ人勢力は1661年から「抗清復明」の旗印を掲げた鄭成功の攻撃を受け、翌1662年には、最後の本拠地であるゼーテンディア城も陥落した為に全て駆遂されていった。

鄭成功は台湾を東都と改名して「抗清復明」の拠点としたが、1662年に死去したため、息子の経が基地化を進めた。だが、鄭氏による台湾支配は、その後の清朝の攻撃によって短期間で終わり、台湾は清朝の支配下に入り、13県が設置された。その為に、清朝は台湾本島の統治には消極的であり続け、台湾本島における清朝の統治範囲は、島内全域に及ぶことなく、半ば見捨てられた島状態となった。この間、福建省、広東省からは生活に窮した多くの人々が台湾島に移住し、今日の台湾における本省人の礎となった。19世紀後半になると、清朝は日本や欧米列強の対外進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、1885年に台湾を福建省から分離し、台湾を新設した。しかし、1894年に日本との間で勃発した日清戦争に敗北したため、翌1895年に締結された下関条約に基づいて台湾は日本に割譲され、台湾省を廃止するに至った。

一方、台湾では、日本への台湾割譲に対する抵抗運動が起こり、一時期、台湾民主国が建国されたが、日本軍により、暫時平定され、日本政府は、台湾総督府による統治を1945年まで実施し続けた。第二次世界大戦で連合国が有利な立場となると、43年に米国、中華民国、英国、ソ連の首脳が集まりカイロ会談が開かれ、台湾の主権を中華民国に返還する事が決定された。その為、45年の日本敗戦後に連合軍の委託を受けて台湾に軍を進駐させた中華民国政府は、この決議を根拠として台湾の統治体制を強化した。

中華民国政府は、台湾の領有・統治を強化する一方で、中国大陸においては厳しい立場に追い込まれた。46年頃からの国共内戦により、人民解放軍に対し、まともに対抗できない程弱体化し、中華民国政府は、台湾への撤退を決定し、国家の存亡をかけて残存する中華民国軍の兵力や国家・個人の財産などを台湾に運び出し、最終的に12月に中央政府機構も台湾に移転された。

.北朝鮮との関係

..北朝鮮の利用価値

 中国にとって北朝鮮はいくつかの性格を持っている。

  冷戦後の数少ない共産主義国家の同志である

  対米戦争を戦った盟友である

  東アジア資本主義陣営との緩衡国家である

  伝統的努力圏(中華圏)の一地域である

  対日米協調カードである

  トラブルメーカーである

..中国の北朝鮮利用の原理

..で述べたことから、中国が北朝鮮を利用する原理は以下のようになる。

.安全保障上の緩衡、イデオロギー的孤立回避の同志として保存すること

.中国が、リモートコントロールできる対米覇権闘争の別働隊として利用

.中国の経済発展の障害になることは許さないこと

.北朝鮮問題を東アジアでの協調を通じた中国の発言力向上に利用すること

  である。

5.まとめ

項目1については、日中の国交が悪化したのは、1937年に起きた日中全面戦争の勃発と、その後に締結された日華平和条約が、1952年からの20年間もの間、日中関係を拘束したことにより、正常化に戻すのに時間がかかったのが主な原因であった。

項目2については、この問題にも様様な原因が含まれており、台湾は、様々な国が関係しており、そのことがよりいっそう、台湾問題を複雑化しているため、解決への道がなかなか開かれていないことが解釈できた。

 項目3については、北朝鮮と中国は同じ民族であるため、様々なことに協力し合い、逆に中国は、そのことから北朝鮮を様々なことに利用しているといった、相互的依存に近い関係であった。

参考文献

1.吉田実 19987月 「日中報道 回想の三十五年」、潮出版

2.日川口裕史「中国交正常化への道ほど」

http://toweb.aichi-u.ac.jp/leesemi/Koukai/2002.kawaguti.htm 

3.フリー百科事典:ウィキペディア

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%95%8F%E9%A1%8C 

4.Global Governance Guild Blog

http://ggguild.blog78.fc2.com/blog-entry-4.html 

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靖国問題について

法学部現代社会法学科1年 鹿毛 兼太郎

1.靖国神社とは

  明治政府が1869年に官軍の戦没者を慰霊するため、東京・九段に東京招魂社つくり、79年に靖国神社に改称され、89年からは陸・海軍省の共同管理となった。明治維新から日清・日露戦争、そして太平洋戦争までの戦没者約2百46万人が祀られている。戦後に国から離れて宗教法人となり、1978年の東京裁判で有罪判決を受けた東条英機ら14人のA級戦犯が「昭和殉職者」として合祀された。中国外務省は「東条英機ら戦犯が合祀されている」ことを理由に挙げ「アジア各国人民の感情を傷つける」と批判した。

2.靖国神社参拝をめぐって

  小泉純一郎が公約だと称して就任時から靖国神社に参拝しつづけたことが、韓国と中国を強く刺激し、日中の首脳往来を5年来途絶えさせたのは、靖国参拝だとも言える。 靖国神社参拝問題を分解すると、 

    第一に、参拝は憲法が禁じた「宗教活動」に相当するかどうか

    第二に、A級戦犯を祀った靖国神社への参拝は戦争の歴史を肯定することにつながるかどうか

    第三に、日本文化の問題、内政問題であって、他国がうんぬんすべき問題でないのか

 という点に帰着する。 

3.A級戦犯と東京裁判

  第一に、宗教活動ではない、と言い切ることは難しい。神社自身が神道とう宗教を奉ずる法人であり、裁判判決でも、公式参拝は「違憲」になっている。第二に、A級戦犯の問題であるが、A級戦犯とは、極東国際軍事裁判(東京裁判)で、「平和に対する罪」、つまり侵略戦争を指導した罪のゆえに被告にされた28名の全員が有罪となり、うち東条英機元首相、板垣征四郎元陸軍大将、土肥原賢二元陸軍大将など7名が絞首刑になった。靖国神社に合祀されているA級戦犯は、7名のほか、松岡洋右元外相など14名である。さらに神社には、1000名近くのBC級戦犯についても合祀を終えている。問題は、国を代表する首相が追悼すべき戦争の犠牲者、戦死者といえるかどうかである。それは東京裁判をどう見るかにかかっている。ただ言えるのは、A級戦犯は決して「昭和殉職者」ではない。彼らを祀った神社に国家の最高指導者が参拝することは、国際的に否定された戦争を改めて肯定するに等しい行為だといわざるをいない。第三に、戦争は、文化行為ではなく権力主体である国家による高度な政治的対外行為である。靖国の祭神は、たんなる「戦争の死者」ではなく、「国家の政治的意志によって選ばれた特殊な戦死者」であり、ある国家の政治的意志によって被害を受けた者からの反発・批判をきちんと受け止めなければならないだろう。

4.まとめ            

戦争をしていない国はない。侵略戦争は、ヨーロッパ諸国・アメリカはもちろん行っているわけで、そのことについて罪があるというならヨーロッパ諸国・アメリカにも罪がある。しかし、戦争は勝者が正義である。日本が勝っていたら罪は問われなかっただろう。

だが、日本が韓国・中国・東南アジア諸国に行った侵略戦争は明らかに不正であり、特に中国の侵略に対して行った三光作戦や南京大虐殺などは凄まじい。日本は、中国国民を踏みにじった。このような戦争を行ったA級戦犯と呼ばれている犯罪人が祀ってある靖国神社に日本国家の首脳である小泉純一郎首相が参拝するのは、韓国・中国国民を傷つけている。首相には戦争の戦死者は国家の首脳が追悼するのは当然だと考えているのだろうが、首相個人の意志で参拝するのは、実際憲法違反になっている裁判もあり、いいとは言えない。

驚いたことは中国が靖国参拝に対して過剰に反応したことである。以前、サッカーアジア杯日中戦の中国サポーターの暴動があったが、あまりにも激しすぎる。日本は唯一の被爆国である。しかし、もはやアメリカを恨んでいる人々はいないだろう。人々は戦争を憎んでいるのであって、アメリカを憎んではいない。                    

日本にとって原爆は決して無駄なことではなく、負けた事により、今の素晴らしいといっても過言ではない国が誕生したのである。広島・長崎県民の死のおかげで今の日本がある。そして、日本により殺された中国国民の死のおかげで今の日本がある。中国の死者には深く謝罪と感謝をしなければならない。

日中関係を立て直すには、先ず靖国参拝を辞め、戦争については深く謝罪しなければならない。それが終わったなら、簡単なことではないが、どうか許して欲しいと思っている。  

 中国国民の許しを待つまでである。

 参考文献

吉田実、19987月、「日中報道 回想の三十五年」、潮出版

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南京大虐殺

法学部法律学科1年 田中寛也

キーワード 虐殺 三光作戦

1、はじめに 

1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に破れた中国軍は撤退を始め、当時、中華民国の首都であった南京を中心に防衛線を構築し、抗戦する構えを見せました。日本軍は中国軍の防衛線を次々と破り、12月9日、南京城を包囲し、翌日正午を期限とする投降勧告を行った。中国軍がこの投降勧告におうじなかったため、12月13日、南京は陥落しました。

被害者の数は数千人とする説から数十万人にのぼるとするものまで様々あり虐殺事件の存在自体を否定する説もあります。日本軍は、南京への進撃中から諸種の残虐行為を行ったと言われています。南京周辺の町において被害の報告が挙げられている。また、南京陥落の翌日から6週間にわたって行われた南京城でも大規模な残虐行為が行われたと言われています。

2、南京占領

日清戦争に始まる日本の中国侵略は1937年からの日中戦争で頂点に達しました。7月7日北京郊外で始まった戦闘は瞬く間に華北に広がり、8月13日には上海に飛び火しました。上海では中国軍が強く抵抗したが、次第に日本軍が増派されるに及んで、11月中旬には上海から撤退、南京の方へ逃げました。中央政府もまた11月20日に宣戦布告もないままに、本格的な戦争態勢を固め、12月1日には正式に南京攻略を発令しました。

その間、海軍航空隊は南京に無差別爆撃を繰り返し、多数の市民を殺傷しました。これはわずか半年前のゲルニカ空爆にならい、戦略爆撃の思想を大々的に実行した世界最初の例となりました。

3南京陥落までの状況

・日本側

1937年11月、第二次上海事件に投入された上海派遣軍は、上海で中国軍を打ち破った勢いに乗り、軍中央の不拡大方針を無視して首都南京に攻め上りました。12月1日、軍中央は現地軍の方針無視を追認する形で、中支那方面軍に対し南京攻略命令を下しました。12月8日、中支那方面軍南京を包囲、12月9日、同軍司令官の陸軍大将松井石根は、中国軍に降伏を勧告する。中国軍が降伏勧告に応じなかったため、12月10日、日本軍は攻撃を再開し、12月13日に南京城を陥落させた。

  中国側

1937年11月5日、上海防衛に当たっていた中国軍は、上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われる形になり、指揮命令系統に混乱をきたしたまま総退却する。11月15日~11月18日南京において高級幕僚会議が行われ、トラウトマン和平調停工作の影響から、南京固守作戦の方針が決まる。11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命する。同時に、重慶に遷都することを宣言し暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動をはじめる。11月下旬、南京防衛作戦のため緊急的な増兵を行った結果、南京防衛軍の動員兵力は約10万人に達したと言われている。12月7日、南京郊外外囲陣地が突破される。南京は日本軍の砲撃の射程内に入り、また空爆が激しくなったことから蒋介石は南京を離れる。この後中国軍の戦線は崩れ、12月11日、蒋介石は南京固守をあきらめ、唐生智に撤退を命ずる。一方、唐生智は死守作戦にこだわったが12月11日、夕方には撤退命令を出す。しかしすでに命令伝達系統が崩壊されつつあり、命令は全軍に伝わらなかった。12月13日、南京城は突破され中国軍は総崩れとなる。

4、三光作戦

殺しつくし(殺光)、焼きつくし(焼光)、奪いつくす(槍光)、これを三光と呼びます。意のままにならない敵性地域において一般民衆の生命・財産・生活基盤の破壊を目的とした軍事作戦。行為の残虐性・非人道性から言っても人間の尊厳に対する最悪の犯罪と言えます。

5、まとめ

私は南京大虐殺がこんなにもひどい事が行われていたなんて調べるまで知りませんでした。特になんの戦闘能力も持たない一般市民を殺す三光作戦はとても人間が行う行為とは思えず、本当にむごいと思いました。

日本は過去に目をそらさずこのようなことが二度と起こらないように胸に焼き付けておく必要があると思います。そして日中関係がよい方向に向かうことを願いたいと思います。

参考文献

1.生きている兵隊 石川達三 1999年7月

2.日中報道―回想の三十五年 吉田実 潮出版社 1998年7月

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「満州事変」について

法学部法律学科1年 渡辺伸悟 

1、満州事変までの経緯

1905年、大日本帝国は日露戦争で勝利し旅順、大連の租借権と長春 - 旅順間の鉄道及び支線や付属設備の権利・財産を清国政府の承諾を以って大日本帝国政府に移転譲渡する日露講和条約が締結された。これをもって南満洲鉄道(満鉄)を創立し、その警備を関東軍が当たることになる。当初地元の軍閥長である張作霖とも友好関係を築いていたが張作霖の勢力が弱まり始めると1928年に関東軍は張作霖が乗る列車を爆破殺害した(張作霖爆殺事件)。張作霖爆殺事件によって日本は国際的な批判を招く事となる。張作霖の後を継いだ息子の張学良は日本に対する敵対的な行動を取るようになり、南満洲鉄道のすぐ横に新しい鉄道路線などを建設し、安価な輸送単価で南満州鉄道を経営危機に至らしめた。これに危機感を感じた関東軍は再三に渡り抗議するが聞き入れられず、石原莞爾(いしはら かんじ)、板垣征四郎の指導のもと満洲事変を決意する。柳条湖事件

張作霖爆殺事件の現場

柳条湖事件は、満洲事変の発端となった事件である。

1931918日の夜22時過ぎ、奉天(現在の中国遼寧省瀋陽北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、線路が破壊される事件があった。駐留していた関東軍はこれを中国側の張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、直ちに中国東北地方の占領行動に移った。

2、満州国の建国

193231日、満州国の建国が宣言された。

国首にあたる執政には溥儀、首都は新京(現在の長春)、元号は大同とされた。これらの発表は東北行政委員会委員長張景恵の公館において行われた。39日には、溥儀の執政就任式が新京で行なわれた。犬養毅内閣は312日、「満蒙は中国本土から分離独立した政権の統治支配地域であり、逐次、国家としての実質が備わるよう誘導する」と閣議決定。大日本帝国政府は関東軍の独断行動に引きずられる結果となった。(同年五・一五事件が起こり、犬養らは暗殺される)1932915日には大日本帝国と満州国の間で「満州議定書」が締結され、日本の既得権益の承認と、関東軍の駐留が認められた。このように、事実、満州は植民地になった。その後、現地住民の土地を取り上げ、国内からは、大量に国民を移住させた。これは戦後、中国残留孤児問題となり、中国残留孤児の多くは中国東北地方にいるのもこのためだ。

日満議定書とは1932915日に日本と満州国の間で調印された議定書。

日本側全権は武藤信義陸軍大将(関東軍司令官)、 満州国側は鄭孝胥国務総理。

3、議定書の調印による取り決め事項

議定書の調印によって、下記の事項が取り決められた。 また同時に補足条約ともいえる書簡の交換も行っている。いずれの事項もこれまでの協定の確認にすぎず、どちらかといえば「両国間の合意事項の世界への公式表明」の色が強かった。

議定書の内容

この議定書で交わされた約定は主に、

の3点である

4、交換書簡の内容

過去に交わされた下記の文書について、引き続き行使する事。

.1932310日に満州国執政(溥儀)から送付され、510日に関東軍司令官(本庄繁)から回答された書簡の件

具体的な内容としては、

·         満州国の国防は関東軍に委託し、その経費は満州国が負担する。

·         関東軍が国防上必要とする場合、既設の鉄道・港湾・水路・航空路の管理と新設の工事については、日本もしくは日本指定の機関に委託する。

·         関東軍が必要とする各種の施設について、極力援助を行う。

·         日本人を参与として登用する他、中央・地方の官僚にも日本人を登用するが、その人選は関東軍司令官の推薦とし、解職には関東軍司令官の同意が必要とする。(参議の人数については両国協議の上増減するの4点

. 193287日に満州国国務総理(鄭)と関東軍司令官(本庄)との間で交わされた、満洲国政府の鉄道・港湾・水路・航空路等の管理並びにニ線路の敷設管理に関する協約とそれに基づく附属協定

. 193287日に満州国国務総理(鄭)と関東軍司令官(本庄)との間で交わされた、航空会社(満州航空)

. 193299日に満州国国務総理(鄭)と関東軍司令官(武藤)との間で交わされた、国防上必要な鉱業権の設定に関する協定

5、まとめ

 日本は関東軍の河本大作、東宮鉄男らの暴走により満州事変を引き起こした。

これにより、第一次若槻礼次朗に代わって成立した立憲政友会の田中義一内閣は昭和天皇の命令により総辞職に追い込まれた。満州事変により日本は中国に計り知れない損害を与え、そのことに対してははっきりとした謝罪をしていない。また、田中義一内閣は首謀者の陸軍関係者の処分を行わずあやふやにした。日本は戦前衝撃的な事件を多数起こしており、各国(特に東南アジア)に多大な被害を与え多くの人々を苦しめた。被爆国という事は別として、日本はもっと反省すべきである。 

参考文献

1陳舜臣。出版年、2005年発行。『日本と中国人』恒文社。

2フリー百科事典『ウィキペディア』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89 

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一人っ子政策について

法学部現代社会法学科1年 前田年輝

キーワード:   政策の問題点  人口  戸籍 

1.  はじめに

今日の日本は少子化が社会問題になっているが、中国やインドなどの発展途上国は人口の増加が深刻な問題になっている。そこで中国では一人っ子政策と呼ばれる家庭で子供を一人しか産んではいけないという政策を採っている。

しかし、なぜこのような問題が発生してきてきたのか、そして一人っ子政策によって生じ始めた問題点やこれから将来中国国内で生じるであろう深刻な問題になるであろうことを調べていきたいと思います。

2,一人っ子政策

2.1一人っ子政策とは?

中華人民共和国誕生後、中国国内において医療面や衛生面などにおいて、急激に発達したため、中国国内の死亡率が減少したのに対し、子供の出生率は年をおうごとに増えていくことにより、人口がはじめた。

しかし、急激な人口の増加により食料不足や失業率の増加などの問題が年々増加してきた。これに対処するため、中国政府は1979年、自然出生率の減少による人口抑制を目的とする一人っ子政策を実施しました。

2.2一人っ子政策の内容

一人っ子政策とは、原則として、子供は家庭内に1人だけにするということを取り決めた政策で、子供を二人以上生んだとき(双子を除く)は、その子供の両親は政府から高額な罰金、医療費の自己負担、賃金カットなどの日常生活する上で痛手となる罰則を科せられることになる。(この内容は北京、上海などの都市部などで適用されている。ただ、近年では少子高齢化が問題になりつつあるので、都市部などでも家庭内に子供は1人という規制は緩和されつつある。)

しかし、農村など、男の働き手がたくさん欲しいところでは、政府の農業支援の一環で子供を二人まで産んでよいという取り決めがなされている。 

この他に、少数民族では民族の存続のため、両親のどちらかが中国人では無ければこの政策は適用されないとされている。

2.3子供を一人出産した後の中国政府の対策

ある夫婦が子供を一人出産するとその夫婦が2人目の子供を作らないようにするために政府から妊娠中絶をするようにとの勧告がくる。その代わりに一人っ子である子供を生活の面から優遇するという対策をとっている。優遇されるものとして、一人っ子奨励金の支給・託児所への優先入学、保育費補助・学校への優先入学、学費援助・医療費の支給・就職の優先・住宅の優遇配分、農村では宅地配分・年金の加算と割り増しなどの優遇政策を行っている。

3.人口

3.1中国における人口比率

中国の現在の人口は12億人といわれているが、年代別による人口比率の割合は高齢化といわれる65歳以上の割合は約7%15~64歳の割合が約70%14歳以下が約23%である。

この統計結果から見るとすでに中国は高齢化社会の基準といわれる高齢化率(65歳以上の人口が総人口に占める割合)の7~14%に達していることが分かる。

 まだ、中国では高齢化は始まったばかりではあるが人口が多いのと一人っ子政策による少子化が進んでいることで高齢化が早まるものと思われる。

3.2子供の数の減少による社会の変化

現在の中国は一人っ子政策などの政策により、子供の数が減ってきている。その反面、国内経済の成長などにより都市部を中心に裕福な家庭が多くみられるようになってきたことにより、子供1人に対して、お金をたくさん賭けられるようになったため、教育では変化が見られるようになってきた。それにより大学に進学する子供が増えてきたのだ。

だが、進学率は中国国内ではまだ2%と、先進国などに比べるとまだ高いとはいえない。

それと、都市と農村では所得に差があり、教育面にも格差がみられる。現在は政府も九年制の義務教育が行われているが、これは中国全土で行われているわけではない。そして、大学に進学する人も進学率の高い中学や高校が数多くある都会からの出身者が多く、農村の出身者は財政面などによる問題で進学率が高くないようである。ここからも教育面による格差が表れている。

4.政策の問題点

4.1中国の戸籍

農村部の戸籍は、都市部の戸籍とは違い、不備な面が多い。

例えば、北京や上海などの都市部では年金などの社会保障が行き届いているのに、農村部ではそのような社会保障が整備されていないため、年金などは貰えない。だが、年金は貰えないのに農村部に対する税金負担は重い。税金や社会保障に対する反発を出さないためにも、政府は農村でも社会保障を進めようとしているが農村に完全に普及するまでには20~30年かかると言われている。

このような地域によって不備のある社会保障制度や戸籍による格差は国民の義務の税金を納めていれば年金が貰え、地域による戸籍の格差が無い日本などでは考えられない。

4.2戸籍に入れない子供たち

農村部では子供が生まれても、その子供が戸籍に入れない場合がある。

これは1人目の子供が女の子だったときに、その親が戸籍に入れなかった場合のときである。当時は一人っ子政策がまだ緩和されていなく、子供を1人しか産むことが認められていなかったので女の子は戸籍に入れず、次に男の子が生まれたときにその男の子を戸籍に入れるようにしていた。政策が緩和されてからも、子供を二人以上産んで、罰金を取られないようにするため、戸籍には子供を2人しか入れないという問題も起こった。これによりたくさんの子供が戸籍を持てなくなってしまいました。これに少しでも対処しようと、中国政府は一人目が女の子だった場合に限り、二人目まで子供を産めることを認めた。しかし、現在でも戸籍の無い子供が多く、いまだに社会問題となっています。

4.3農村から都市へ戸籍を移すには

 農村から都市へ戸籍を移すのは、非常に難しいことである。条件としては、技術者や大学を卒業するというような、都市部が必要とする人材を少しずつ受け入れているだけである。このことから見られるように都市と農村には大きな壁があるがよく分かる。このような戸籍による差別を無くさないと本当の経済成長はみられないのではないのだろうか。

この戸籍による格差を無くしていくことが今後の中国政府の課題であると思われます。

4.4超高齢化の到来

一人っ子政策により人口が抑制されたため、1歳から4歳の人口が30代、40代の人口に比べ半分の人口しかいないため、このまま行くと将来は少ない若い人たちで多くの老人たち養っていかなければならなくなる。 そして、現在、結婚適齢期にいる人たちは子供を作ると仕事が続けられないという理由から産まない人もいる。これからは一人っ子政策のもとで生まれてきた子供たち、これを「小皇帝」とも言う。 一人っ子で育ってきた小皇帝たちが結婚する意志があるのか、そして、子供を産むかがこれからの超高齢化の到来に対する鍵になるであろう。

4.5農村から都市へ

近年の中国では農村部から都市部へ出稼ぎによる移住が多くなっているが、農村部と都市部では生活費に差が大きいため、農村から都市に移住しても子供がいる場合にはある程度のお金が無いと、その子供を公立の小学校にも入学できなくなるし、家を借りるにもかなりのお金がかかるのである。 反対に、都市部から農村へ行くと農村は生活費が安いので、都市にいたときの年収は農村での年収の10倍の価値があるといわれるほどの格差がある。

しかし、最近では農村部でも出稼ぎなどにより、生活が向上しているというが、都市部との生活の格差がなくなる気配は無い。

5、まとめ

 中国は年々経済が発展しているが、今まで調べてきた一人っ子政策は子供の数を減らすことによって、将来、その経済発展を止めてしまう可能性があるし、農村においては一人っ子政策の罰金の規定により、戸籍に入れない子供もいるのが現状があるのだから、その点をまず一番初めに改善すべき点であるように思える。

しかし、一人っ子政策が出来てから20年以上経つが改善される気配がまったくもって見られなく、そうこうしている間に少子高齢化時代が訪れてしまい今度は高齢者に対する社会保障をどうするかが問題になってくるのだが、その社会保障を支える若い人たちがいないのではこの保障も成り立たないはずである。

そのようなことから考えても中国政府はこの政策の及ぼす悪影響を理解しているのかと思いたくなるような政策である。

参考文献

1.  吉田 実著『日中報道 回想の三十五年』 潮出版

2.  一人っ子政策 http://www.ja.wikiredia.org/wiki/

3.  一人っ子政策の罰則 http://www.itjp.org/china/law/hitorikko.html

4. 中国大市場  http://www.chinatown.co.jp/bs/002.html

5. 図解中国  渡邉 義浩松金 公正() ナツメ社

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中国の人口問題について

経営学部経営学科1年 有我 昌晃

キーワード:中国の人口 一人っ子政策 人口移動 流動人口に対する政策

1.はじめに

 中国の中でも深刻な問題のひとつ、「人口問題」について。その対策である「一人っ子政策」の目的、その真相について、人口が増えすぎる都市、国外への移動について調べる。

2.中国の人口について

中華人民共和国成立前:アヘン戦争開始頃の清朝の総人口は約4億1000万人で中華人民共和国が成立した1949年には約5億4000万人、人口増加率は年平均2.6%であった。人口は、乳幼児死亡率の変動により劇的に増減するが、この時期の中国大陸では公衆衛生の未発達に加えて革命や戦乱もあり、「多産多死型」の状態にあった。

中華人民共和国成立後:中華人民共和国の成立によって中国社会は一定の安定期をむかえ、公衆衛生や母子衛星の普及を通じて「多産少死」の社会に移行した。

ちなみに現在の人口は約1,211,210,000人である。(1995年 中国統計年鑑による)

3.一人っ子政策について

一人っ子政策(ひとりっこせいさく)とは、中華人民共和国における人口規制政策を指す。公式には計画出産と呼ぶ。改革開放政策が始動した1979年に始まった。幾何級数的人口増に法規制を加え、出産または受胎に計画原理を導入した。この政策の効果によって現在の中国本土では少子化が波及している。都市部では一人っ子政策は強化ないし遵守されたが、家督相続や男尊女卑の傾向の強い農村部では、2人目まで規制緩和し、不法に多産、女児殺害など、多様な問題を惹起した(例外枠として双子や多胎児の場合、全員が戸籍を持つことが許可された)。一人っ子政策で生まれた世代が成人に達している。結婚しても、夫婦共々一人っ子で、親の老後の面倒を見るのは厳しい。また、軍に入隊した一人っ子新兵が、洗濯もできないといった問題を起こしている。一人っ子は、両親と祖父母の6人(全員存命であった場合)の大人から一身に愛情を受けて育つ。このため小皇帝(女児の場合小公主)とも呼ばれ、さまざまな問題を抱えている。他に、肉体労働を積極的に手伝ってくれる男児の出産を希望する農民が多い為、妊娠時に性別検査を行い、胎児が女子の場合は中絶手術を行うケースが多発している。その結果、女性が生まれてくる機会が少なくなることから中国の男女出生比率はかなり偏っており、将来は男性が女性に比べて大幅に多くなるという予測が出ている。

また一方で、一人っ子政策に反する形で生まれた第二子以降の子供は戸籍に入ることができず、いわゆる「闇っ子」(「黒孩子(ヘイハイズ)」と呼ばれる)となってしまう。黒孩子は国民として認められないため学校教育や医療などの行政サービスを受けることができないだけでなく、就職などの際にも不利な取扱を受けることが多いため、成人した黒孩子の多くが働き口を求めて闇社会に流れたり、周辺諸国に不法入国したりするケースが目立っている。黒孩子の総数は既に30004000万人にも達していると言われている。なお、一人っ子政策は、少数民族は免除され反対に人口が増えるという結果になっている。現在一人っ子同士が結婚し、4人の親と2人の子供を支えていかなければならないため、家庭の負担が更に重くなると同時に、兄弟を持った経験のない一人っ子の子育て能力が問題となっている。

4.人口移動について。

ひとつとしては、上記に載せているように、「黒孩子(ヘイハイズ)」がある。二人以上の子どもを持つと「両親ともに昇級・昇進の停止」「学校への優先入学権の剥奪」「各種手当ての停止」等の極めて大きな差が待遇において発生する。そのため、二人目以降の子どもを戸籍に登録しないという事態が起こっている。なので、黒孩子は働く場所を探しに闇社会に行く他に、周辺国に不法入国している。そのような人口移動のほかには、都市部への移動、流動も問題とされている。農村部から都市部へ移動するメリットは、より高い賃金(所得)を得るためという事が主な理由となる。しかし中国政府にとって、農村人口が減ることによって食糧自給を確保することが困難になるので、対策を提案したのである。(↓の文に関わる)

5.流動人口に対する政策

中国では、1949年の建国当時から人口の移動の制限されてきた。その理由は、農村人口を確保して食糧自給を確保することと都市の人口過密による社会問題発生を未然に防ぐという二つが考えられる。一つは、口糧制度というものである。これは、都市部の指定された住民にのみ食糧の配給券を割り当てるというもので、これにより、農村から都市にやってきた人々は食糧を手にいれられなくなる。二つ目は、労働就業制度である。これは、人々の職業を国家が全て決定するというものである。

以上二つの制度は、現在では既に完全に無くなっている。

口糧制度は、1993年に食糧配給制度が完全廃止されるとともに消滅しており、労働就業制度も、市場経済化の過程で消えている。

しかし、もう一つの人口移動を制限する制度は現在もあり、それは戸籍制度である。中国の戸籍制度は、日本と大きく異なる。日本では、戸籍制度は血縁や出生地を記録する意味しかない。しかし、中国では地域間移動を政府が管理する手段になっている。例えば日本のパスポートを持つ日本人が米国に移住しようと思えば、米国に帰化して米国のパスポートを取得するか米国のビザ(または永住権)を取得しなければならない。そして、その取得は決して簡単ではない。同じように、四川省の戸籍を持つ中国人が北京に引っ越そうと思えば、北京市の許可を得て北京の戸籍を取得するか北京の居住許可証を取得しなければいけなく、それも簡単ではない。

基本的に、戸籍地を移転しようとすれば以下二つの条件を満たす必要がある。

) 新戸籍地で住居を確保している

ⅱ)新戸籍地に正式な職業がある

しかし、最近では"都市建設費"という名目で一定の代金を政府に納めれば、都市の戸籍を得ることができる。この"値段"は急激に上昇しており、例をいえば北京市の"都市建設費"は1983年において、1万元であったが、現在は約10万元(約150万円)になっている。まとめると、市場経済化に伴って流動人口を制限する制度は大きく緩和されてきたが、戸籍管理による制限が依然として残っているというのが流動人口対策の現状なのである。

6.まとめ

今回この中国文化事情で、人口問題について取り上げて、調べてみて、思ったことは、中国は、一人っ子政策、口糧制度、労働就業制度などの政策、対策をして、流動人口や人口制限などに力を入れていたが、結果的に失敗してしまう。特に、一人っ子政策においての、第一子への優遇、二子以降への対応に差が生じすぎているところから、もし二子以降が生まれても戸籍に登録しないという問題が起き、そこからヘイハイズがでてきてしまう点、少数民族は免除される結果人口が増えるという問題も起きる。さらに一人っ子同士が結婚し、4人の親と2人の子供を支えていかなければならないため、家庭の負担が更に重くなるというのも重大な問題である。しかし、中国だけではなく、日本においても、これからの親を支えていかなければならないという共通の点を持っている。

したがって、今後のそれへの対策は、両国共通の課題になっていくと思う。両国互いに協力しあうことが必要なのかもしれない。

参考文献・サイト

「フリー百科事典『ウィキペディア』」検索ワード:「一人っ子政策」「中国」

(一人っ子政策)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BA%BA%E3%81%A3%E5%AD%90%E6%94%BF%E7%AD%96(中国)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD

Chinese Puzzle ―世界から見た中国―」

http://chinachips.fc2web.com/repo/00606.html

ハンドブック 「現代中国」 第二版 愛知大学現代中国学部 編

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日中国交正常化について

法学部法律学科1年 鈴木 宏

キーワード:  歴史  政治  政治家

1.日中国交正常化とは

1972年9月29日、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式が中華人民共和国の北京で行われ、田中角栄・周恩来両首相が署名し、これによって日本と中華人民共和国とが国交を結ぶ事となった出来事である。日中共同声明に基づき、それまで国交のあった中華民国(台湾)には断交を通告した。

〔補足〕日中国交回復とも言われる。1972年以前に中華人民共和国という国家と日本の間に外交関係はなかったので、「国交回復」という表現は不正確であるとする見解もあるが、清や中華民国と日本の間に国交が存在した時期もあり中華人民共和国はこれらの国家の継承国家であるため、個々の政体ではなく中国という枠組みで捉えるなら国交回復である。

2.日中国交正常化の問題

中国大陸に対する支配権を失った中華民国が中国を代表する国家として国交を結び、中国大陸を支配する中華人民共和国との間に国交がないという状況は正常とは言えないとし、より実態に即した外交関係に構築しなおすということで「正常化」という言い方は日本において広く受け入れられた。しかし「正常化」と表現することに対して、これはあくまで中華人民共和国側から見た主観的表現なので国交を新たに樹立した日本までがそれに拘束される必要は無い、とする意見もある。また中華人民共和国から見た場合としても現在の日台の非公式的関係の存在が果たして「正常」といえるのかどうかという問題もある。

3.日中共同宣言に至るまで

日本国内閣総理大臣田中角栄は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、1972年9月25日から9月30日まで、中華人民共和国を訪問した。田中総理大臣には大平正芳外務大臣、二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行した。毛沢東主席は、9月27日に田中角栄総理大臣と会見した。双方は、真剣かつ友好的な話合いを行った。田中総理大臣及び大平外務大臣と周恩来総理及び姫鵬飛外交部長は、日中両国間の国交正常化問題をはじめとする両国間の諸問題及び双方が関心を有するその他の諸問題について、終始、友好的な雰囲気のなかで真剣かつ率直に意見を交換し、次の両政府の共同声明を発出することに合意した。日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな一頁を開くこととなろう。日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立って国交正常化の実現をはかるという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである。

4.日中共同声明がもたらした成果

両国間の戦争状態は終わり、初めて国交が開かれた。

5.日中共同声明の中身を以下に引用する。

声明は中国の主張する〔復交三原則〕を日本が十分理解することを前提にしたもので、9項目からなり、日本側は中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを認め、台湾が不可分の中国領土であることを十分理解、尊重すると述べているほか、中国側の賠償請求の放棄、平和五原則に基づく国交がうたわれ、特に両国はアジア・太平洋に〔覇権〕を求めず、またそのようないかなる試みにも反対する旨明らかにしている。

≪内容≫

1.日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。

2.日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。

3.中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する。

4.日本国政府及び中華人民共和国政府は、1972年9月29日から外交関係を樹立することを決定した。両政府は、国際法及び国際慣行に従い、それぞれの首都における他方の大使館の設置及びその任務遂行のために必要なすべての措置をとり、また、できるだけすみやかに大使を交換することを決定した。

5.中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。

6.日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。
 両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。

7.日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する。

8.日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。

9.日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の関係を一層発展させ、人的往来を拡大するため、必要に応じ、また、既存の民間取決めをも考慮しつつ、貿易、海運、航空、漁業等の事項に関する協定の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。

1972年9月29日に北京で

  日本国内閣総理大臣     田中角栄(署名)

  日本国外務大臣       大平正芳(署名)

  中華人民共和国国務院総理  周恩来(署名)

  中華人民共和国外交部長   姫鵬飛(署名)

〔補足〕三原則中の日華平和条約の破棄については声明では触れず、調印後日本側が外相の新聞会見でその執行を認めた。

6.まとめ

日中国交正常化によって現在では日中両国互いに欠かすことのできない存在になっている。しかし、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)や領土問題などの問題もまだまだ山積みされている。

〔補足〕田中角栄はロッキード事件で失脚後も中国政府の招待で中国へ行ったときも手厚く歓迎されたという。

参考文献:

1.フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%A4%E6%AD%A3%E5%B8%B8%E5%8C%96

2.日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_seimei.html

3.吉田実 著、19987月、『日中報道 回想の三十五年』、潮出版社

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                天安門事件

法学部法律学科1年 鈴木信吾

1.はじめに

1989年6月の天安門事件から今年で17年になるこの17年間、中国政府および中国共産党局による民主化運動を「動乱」とする評価が変わることはなかったし、今後もしばらく変わることはないだろう。はじめに、天安門事件の定義と時期区分を行う。その上で、天安門事件の主要因とその展開を概観する。

2.天安門事件の定義

「天安門事件」とは、一般的には1989年6月3日~4日にかけて北京の天安門広場において中国人民解放軍によって行われた民主化運動の弾圧を指す。本文においては、1989年4月15日の胡耀邦前総書記の死去を契機として始まった民主化運動とそれに対する中国政府および、中国共産党、中国人民解放軍当局によって試みられた説得および弾圧を指すものとする。

3.天安門事件の時期区分

天安門事件はその事件の性質から主に4つの時期に区分することができる。

第一に、発芽期である。これは1989年4月15日の胡耀邦の死去から4月26日付の「人民日報」にいわゆる「動乱社説」が掲載されるまでの時期で、民主化運動の組織化と当局側の態度確定までの時期である。第二に、展開期Ⅰである。これは前述の「動乱社説」掲載から5月20日の人民解放軍による戒厳令発令までの時期で、民主化運動組織と中国政府および、中国共産党、中国人民解放軍当局との間で交渉が試みられた時期である。第三に、展開期Ⅱである。これは人民解放軍による戒厳令発令から6月2日の戒厳的軍事行動がとられるまでの時期である。第四に、鎮圧期である。これは戒厳的軍事行動がとられ、6月10日に天安門広場から軍が撤退するまでの時期である

4.天安門事件の主要因

政治的要因は主に5つに分類される。

第一に、胡耀邦の名誉回復問題である。胡耀邦は1986年12月の学生による民主化要求に対して同情的な態度をとったため、1987年1月に党総書記を事実上解任され、党政治局員に降格された。民主化運動に柔軟な姿勢を見せた胡耀邦の死去を契機として再び民主化要求が高まることは想像に難くないだろう。第二に、「官倒」(役人ブローカー)と呼ばれる高級官僚の子弟による政治腐敗の問題である。第三に、改革は知識人の台頭である。1989年はフランス革命(1789年)から200周年、五・四運動(1919年)から70周年、中国革命(1949年)から40周年という「当たり年」に当たり、改革は知識人の言論活動も盛んに行われていた。第四に、党中央の権力闘争である。これは、後述の展開期Ⅰにおいて述べるように、李鵬を中心とする保守派と趙紫陽を中心とする改革派の角質である。第五に、少数民族問題である。

経済的要因は主に3つに分類される。第一に、インフレ問題である。インフレ率は前年比第20%以上という状況であった。第二に、失業問題である。経済引き締め政策の影響で当時の失業者は実に1500万人を超えていた。第三に、不公平な所得分配である。改革開放政策は経済成長をもたらすと同時に、貧富の格差を拡大していた。

胡耀邦は4月8日の中国共産党政治局会議の席上で倒れ、4月15日に死去した。胡耀邦の死去に際して、同日付の北京大学の壁新聞には次のように書かれた。「鄧小平は84歳で健在、胡耀邦は73歳で先に死ぬ。政界の浮沈を問うも、何ぞ命を保つことなきや。民主は70にして未だ完全ならず(1919年の五・四運動以来70年)、中華は40にして興らず(1949年の中国革命以来40年)、天下の盛衰をみるに北大(北京大学)また哀し」。また、同日中には北京市内で胡耀邦の遺志を継いで改革開放政策の継続を求める学生・市民のデモが活発化した。

以後、4月20日には政府要人の居住区域である中南海において、警察官とデモ隊が衝突した。同日中には民主化要求を行う学生組織として「北京大学生準備委員会」が結成された。この組織は23日に「北京市大学臨時学生聯合会」へと発展し、後に民主化運動の中心的存在となっていった。

これに対し当局側は24日に政治局常務委員会を開き、李鵬を中心に「動乱阻止小組」を設置し、徐々に民主化運動に対峙する態勢を整える。25日には鄧小平が重要講和を行い、「これは通常の学生運動ではなく動乱である。断固として制止すべきであり、彼らに目的を達成させてはならない」とした。この重要講和を受けて、4月26日付の中国共産党機関紙『人民日報』の社説に民主化運動を「動乱」と規定するいわゆる「動乱社説」が掲載されることになる。この「動乱社説」を境にして民主化運動側の態度は硬化し、その態度の硬化が当局側の強硬姿勢を生み出すという悪循環に陥り始めるのである。

() 展開期Ⅰ

「動乱社説」が掲載された翌日の4月27日に、民主化運動側は早速「動乱社説」抗議デモを行い、自らの運動を「愛国・民主化運動」と位置づけ、当局側に「動乱社説」の撤回と民主化運動組織に対する政府および党の公認を求めた。ここで強調すべき点は、民主化運動活動家の大勢が必ずしも「反共産党」ではなかったという点である。このことは上述の「愛国・民主化運動」というスローガンにこだわったことや、デモの際に共産主義運動の象徴である『インターナショナル』が繰り返し歌われたことからもうかがえる。

これに対して当局側は5月3日に政治局常務委員会を開催した。この中で趙紫陽が「動乱社説」の見直しと民主化運動側との緊張緩和を提案している。前者は支持されなかったものの、後者は支持された。これを受けて5月11日に「中央対話小組」が設置され、以後民主化運動側との対話路線がとられることとなった。この時期に当局側が強硬路線ではなく対話路線をとった背景には15日からのゴルバチョフ訪中と中ソ和解という歴史的行事を滞りなく行うためであったといえよう。

5月13日から民主化運動側が、①北京の学生対話代表団と誠意ある対話を行う、②一連の学生運動を愛国・民主化運動と認定することを掲げて天安門広場においてハンストを開始する。これに対して14日には中国共産党中央委員会と政府による学生説得が試みられるが失敗する。このため、当局側は15日に予定していた天安門広場でのゴルバチョフ歓迎式典を断念し、急遽人民大会堂に会場を切り替えて歓迎式典を行った。

16日の政治局常務委員会緊急会議において、趙紫陽が改めて「動乱社説」の撤回を提案したものの再び支持されなかった。このため趙紫陽は次第に孤立を強め、19日の政治局常務委員会で総書記を事実上解任された。

()展開期Ⅱ

趙紫陽が19日に失脚すると、同日中に党中央と北京市の党、政府、軍幹部が出席して戒厳令布告大会が開かれ、20日午前10時をもって戒厳令を発令することが決定された。しかしながら翌20日に予定通り戒厳令が発令され、22日には人民解放軍戒厳部隊による「断固措置」通告、重要機関の接収が開始されたものの、即座に戒厳的軍事行動、すなわち民主化運動組織に対する武力制圧がとられたわけではなかった。

当局内部では19日の趙紫陽失脚をターニングポイントとして保守派の巻き返しが続き、後継体制が模索され、31日頃までには江沢民による後継体制が固まったとされる。22日の全国人民代表大会常務委員会では李鵬が、24日の軍事委員会拡大会議では楊尚昆がそれぞれ趙紫陽の断罪演説を行った。特に軍事委員会拡大会議において楊尚昆は戒厳令に対する異論を知りつつも、戒厳令の必要性を説き戒厳的軍事行動への道筋をつけた。

一方で、27日になると民主化運動側は30日の大規模デモ後の撤退を宣言する。戒厳部隊による鎮圧の噂があったとされるが、その理由としては衛生状態の悪化、財政事情の悪化、政府への失望があげられる。ところが、翌28日には前日の撤退宣言が撤回され、無期限の座り込み継続へと軌道修正が図られた。その理由は判然としないが、この時期には資金盗難問題や学生同士の小競り合いが絶えなかったということから、民主化運動組織内での意見対立や士気の低下が深刻な問題となっていたのであろう。

()鎮圧期

6月2日に戒厳部隊が天安門広場へ出動するも、学生に押し戻されたため実力排除に失敗している。翌3日~4日未明にかけて戒厳部隊は民主化運動を「反革命暴乱」と規定し、武力鎮圧に乗り出し、4日未明までに天安門広場を占拠したと発表した。6月9日に鄧小平が戒厳部隊幹部と接見して武力治安圧の労をねぎらい、翌10日には天安門広場から戦車などが順順次撤退を開始し、原状回復が図られた。天安門事件の死者は中国政府によると北京で319名とのことである。矢吹晋の研究によると、当局の発表が過小報告であるとしても300台半ばを越えることはないという。矢吹は、この数字がかつての大躍進運動の餓死者や文化大革命の犠牲者と比べれば相対的に小さいことを指摘した上で、天安門事件がメディアによってセンセーショナルに伝えられたということを述べている。

おわりに

この17年間、中国政府および中国共産党当局による民主化運動を「動乱」とする評価が変わることはなかったし、今後もしばらく変わることはないだろう。天安門事件に対する評価がどうであれ、この17年間中国が中国共産党の統治下で未曾有の経済成長を遂げたことは厳然たる事実である。しかしながら、経済成長は無限に続くわけではないし、経済の自由化は政治における自由化・民主化も招くであろう。

参考文献

1.HP 「世界週報」 http://www25.big.or.jp/~yabuki/2005/ss050222.htm

2.日中報道 回想の三十五年 吉田実

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様々な事件から見る米中関係

経営学部経営学科1年 大塚聖司

 

キーワード: 朝鮮戦争 ニクソン訪中 天安門事件 最恵国待遇

1.はじめに

米国と中国ははたして仲が良いのか、悪いのかについてまず説明したほうがいいだろう。結論から言えば、現在中国は米国の主要な貿易相手国でもあり、権益を優先する中国の外交姿勢は、大国主義的な米国と共通するものが多いため仲が良いと言えるだろう。しかしそれはあくまで結果論であり、そこまでに至るまでには様々な事件と問題があったのだ。最初米国は日中戦争期に中国を支援しており、国民党と共産党の間の調停も行っていたため仲が良かったといえるのだが、中国が内戦に突入すると、国民党側を支持した。国民党は内戦に敗れ、台湾に逃亡するが、折しも米ソ関係が悪化し始めており、1948年には朝鮮半島で南北それぞれの政府が成立し、分裂が成立していたため米中関係も当然に良いとはいえず、北京政府の成立に際して米国は大陸から退去させられてしまったのだ。そんな米中関係に更なる溝をつくったきっかけとなったのが朝鮮戦争であった。そんな中ニクソン政権が対中関係の改善を求めたことにより、米中関係は急速に接近し、72年にはニクソン訪中が実現、それがきっかけになり米中関係の溝は埋まっていく、しかしそんな回復しつつある米中関係に89年6月の天安門事件がおこりまた対立してしまう、だが、95年には台湾の李登輝総統の訪米によりまた米中関係は改善したのであった。

 そんな様々な事件を経て、また複雑な国際関係の中現在に至るのです。

2.朝鮮戦争について

朝鮮半島で起こった戦争は、同じ朝鮮民族が国家統一を目的に3年余の永きにわたり戦ったわけであるが、200万人以上の犠牲者を出しながら、共産主義と資本主義と云う思想の違いから、米ソの世界戦略の狭間に置かれ、その悲願を達成することなく現在に至っている。
 この戦争は、隣国で起こったにもかかわらずその背景や原因について、日本では理解されていない状況である。もっと先ばかりに目を向けるのではなく、今に至るまでに何があったのかにも目を向けるべきだと考える。

3.ニクソン訪中について

1972年2月のニクソン米大統領の訪中は、それまでの20年間の米中対決とアジアにおける冷戦を終わらせる歴史的出来事だった。ある意味で、この「ニクソン・ショック」が72年9月の日中国交正常化をもたらし,またインドシナ戦争の最終的決着をも実現させました。これほどニクソン訪中には重大な意味があるのだった。

4.天安門事件について

1989年6月4日の末明、北京の天安門広場で、民主党を要求してすわりこみをつづけていた学生と市民を、人民解放軍の戦車・装甲車が実力で排除した事件。人民解放軍は学生と市民に対して無差別に発砲し、多数の死傷者をだす悲劇となった。事件後、民主化を要求する運動は反革命暴動とされ、中国政府・中国共産党による徹底的なひきしめが行われた。これに対して、アメリカ合衆国をはじめとする西側諸国は人権抑圧として中国の指導部を批判し、経済制裁を行った。

5.最恵国待遇について

最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)とは通商条約、商航海条約において、ある国が対象となる国に対して、関税などを、別の第三国に対して優遇処置を供することを、現在及び将来において約束すること。最恵国待遇には、条件つき最恵国待遇と無条件最恵国待遇、双務的最恵国待遇と片務的最恵国待遇などがあるが、現在では無条件最恵国待遇が一般的である。

6.まとめ

今回のレポート課題によって米中関係に限らずさまざまな国際関係に興味を持つことができた、米中関係のみだったが米中の複雑な関係はとても勉強になったと思う。朝鮮戦争、ニクソン訪中、天安門事件、最恵国待遇のことを調べ米中関係の現在に至るまでの過去について学べ、知ることができた。

米中関係が改善された事件

日中戦争

72年ニクソン訪中

中国側の改革開放政策

最恵国待遇

李登輝総統の訪米

 

米中関係が悪化した事件

中国の内戦

朝鮮戦争

ベトナム戦争

896月天安門事件

99年中国大使館誤爆

上の表から見ても米中関係が安定しているとはいえないだろう。矢印は事件の流れを表していて、米中関係が改善されたり、悪化したりと複雑な関係であることを表している。最後は悪化して終わっているが、アメリカは最大の貿易相手でもあることから改善された状態である。

参考文献

1.現代中国

2.挿絵

http://image-search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_v2&p=%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E8%A8%AA%E4%B8%AD

3.ウィキペディア フリー百科辞典

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E6%81%B5%E5%9B%BD%E5%BE%85%E9%81%87

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台湾問題の歴史的背景について

経営学部経営学科1年 村瀬貴文

 

キーワード:  ヨーロッパの台湾統治  清朝の統治時代

日本の台湾統治  第二次世界大戦後の台湾統治

 

1、ヨーロッパの台湾統治

台湾の歴史というものは、つねに何らかの外圧からの統治による歴史だといっても過言ではない、その多々の統治のなかには台湾(台湾人)の扱いは大きく違ってきている。

まず、初めに台湾を統治したのがオランダ、スペインなどのヨーロッパ諸国である。そこでの彼らの台湾人に対する扱いというものは大量の移住民を雇い開墾するなどそれまでの海賊の巣窟となっていた台湾を大きく変え大きく発展させたと言える。

2、清朝の統治時代

次に彼らを統治したのが清王朝であったが、「化外の地」、「瘴癘の地」などと呼び半ば見捨てられた島と見ていた。この時に広東省で生活に困窮した市民が大量に台湾に移住していったのである。これが今日の台湾での「本省人」の基礎となりました。以上の経緯から今日の台湾独立派の主張する「歴史的に中華人民国の台湾領有権は不当」の根拠となってる。なお、現在、中華人民共和国と台湾は、清朝の主権が台湾のみでなく尖閣諸島にまでおよんでいたと主張している。

3、日本の統治時代

しかし、清王朝の統治は日本の対外政策により日本の統治下におかれることになる。日本の台湾統治というものは台湾人の文化というものを全く無視した「皇民家」政策であった。それは、彼らのプライドを大きく損なうものであったためにいくつかの反日活動が起こった。しかし、日本の統治というものは負の部分ばかりでは無かった。日本の統治で台湾の発展に大きく寄与したのが治水灌漑工事や鉄道工事や公衆衛生、学校教育、米やさとうきびなどの農作物の品種改良などは戦後の台湾の発展、近代化に大きく役立っていくことになった。 

4、第二次世界大戦の台湾統治

そして、戦後日本の植民地統治の放棄により次の台湾統治は中国国民党が軍とともに進駐したことにより新たな統治がはじまり、新たな争いが台湾で起こることになりました。

この対立は1946年ごろから激しくなり始め中華民国政府が優勢であったが、しだいに人民解放軍が優勢になりついに1949年首都の南京が制圧され中国共産党が中華人民共和国を建国宣言をするにいたりました。そのことにより、中華民国政府は国家の存亡をかけて次々に台湾に国家の宝物や政府機能を移していきついに同年12月には首都機能を移し台湾を中華民国の臨時首都としました。このころ中国本土から来た人々を「外相人」もとから台湾に住んでいた人々を「本省人」人といった。また、中国国民党は日本よる統治を否定して台湾の文化を全面的に「国語」すなわち北京語による文化再構築を押し進めていった。しかし、この政策は日本統治下で日本語による文化を形成し、発展していた台湾人を二流の市民におとしめることであるため台湾のかく地で様々な摩擦が起こることとなりました。それは、1947年に露天でタバコを売る婦人に対する国民党軍の暴行事件がおこりました。国民党軍の当時の規律の悪さもひとつのげいいんに上げられるが、この事件により台湾の各地で自然発生的な抵抗運動が起こりました。それに対して国民党軍が武力的にこの問題に対処したため、多くの知識人を含める約2万人の一般市民の死者が出るという「二・二六事件」が起こりました。これ以降の国民党独裁による暴力的統治を台湾では「白人テロ」と呼びます。その後この「二・二六事件」は李登輝総統により名誉回復したが、「本省人」と「外相人」の溝の多きさを、あらわすものでありました。

1949年以降、蒋介石総統と国民党は、「大陸反抗」を掲げて戒厳令をしき、中国国民党の独裁体制を維持しました。その状況下で台湾は日本の統治下で整えたインフラに加え、アメリカの援助お受け1960年代なかばに工業化に成功し、1970年代にはアジアNISEのひとつに数えられるくらいにまで成長していきました。

 1975年に蒋介石の死後、総統となった蒋介石は、1987年戒厳令を解除し、翌年の1988年には、蒋介石の急死により李登輝が本省人として初めて総統となり民主化と台湾化とが一気に進んだ。そして、2000年に行われた史上初の「台湾独立」を掲げて1987年に結成された民進党の陳水扁が撰ばれ、さらに2004年には支持者を増やし再選された。台湾は、現在、大陸との新たな関係を模索しています。          

5、まとめ

 どこの国の植民地支配にも当てはまることだと思うが、植民地支配というもは、その国がこれまでに築き上げてきた文化や習慣などを踏みにじり統治国の利益や文化、習慣などを力により無理やり押し付けられたものであり、統治される側にっとては、自分たちの文化を否定されるということはまったくやりきれない気持ちであったと思う。それが、自国と他国との関係ならその植民地統治してる国を憎むという簡単な図式になるが、今回の台湾問題はこれとは少し異なり同じ中国という国の内紛により本土からいわば追い出された形になっている中華民国政府が台湾を武力による統治という本来なら同じ民族である中国人に統治され、また彼らは他国を統治するのと同じように台湾人を「外相人」と「本省人」と差別しまた日本の文化を彼らなりに発展させていたものを否定し、自分たち中華民国の文化を優位に持ってきたところからは、台湾人にとっては他の外国に当地される以上に厳しい思いをしたのではないかと思う。しかし、近年では本省人である李登輝が総統になったことで台湾は他国の統治の歴史からだっしつつあるのではないかと思う。現在台湾の独立に対して中国は武力による押さえつけも辞さない状態だが、私は今度こそ武力による統治はやってはいけないと思う、これまでの歴史の上で武力による統治というのはお互いに軋轢を生むだけであり、また、それによりその国の文化や習慣というものが失はれるというのはほんとに悲しいことだということを我々は既に知っているのだから。

参考文献

1. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%95%8F%E9%A1%8C 「ウィキペディア

2.愛知大学現代中国学部編、「ハンドブック、現代中国」、株式会社 あるむ、2006.4.1 

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中国の新聞と出版について

          経営学部経営学科1年 彦坂雄大

1.  党機関紙

中国では建国以来、新聞・出版は中国共産党中央宣伝部を中心とする当局とする厳格な検討制度のもとに置かれていた。新聞は人民日報を筆頭とする各級の党機関紙を主体とした。この党機関紙は党の政策・方針の宣伝が重要任務であったため、報道の自由や国民の知る権利は原理的に排除されていた。しかし、改革開放政策とりわけ市場(中華人民共和国の鄧小平の指導体制の下で、1978年から開始された国内体制の改革および対外開放政策のこと)の進展によって、状況はかなり様変わりしたようだ。

2.市民紙

この市場経済の進展によってまず、新聞の数が飛躍的に増加した。1978年には全国で186紙しかなかった新聞の数が2003年には2119紙にまで増加した。そしt、この増加の大半は市民紙である。この市民紙はもともと機関発行の新聞社が独立採算を迫られ、生き残りをかけて創刊したものであった。娯楽色の濃い週末版や身近な話題の晩報(夕刊紙)などが相次いで創刊されて、発行部数を伸ばした。例えば、「揚子晩報」は、本誌の「新華日報」の5倍以上の発行部数を記録した。その後に、読者が求める情報の多様化を反映して、経済、法律、教育文化、スポーツ、趣味などの専門紙も創刊されるようになった。

3.中国の新聞におけるタブーについて

中国では共産党支配の根幹にかかわる政治批判はタブーになっている。しかし、中国の新聞では外国の中国報道にたいしての批判はよくあるようだ。

4.中国の新聞における外国批判について

中国の新聞では、昔から「外国の中国報道はピントがはずれていて、よくない!」といった海外報道批判はあったけれど、最近そのニュアンスが変わってきているようにもとらえられる。例えば、8月8日の国際時事週刊紙にはこのように書いてあるようだ。いつのころからか、外国メディアの中国報道がやたら増えた。ニュースに「中国」の名がのるだけで、読者の関心を引くからだ。しかし、報道内容は中国人が聞けば、奇怪で、実際とぜんぜん違うと感じてしまう。中国脅威論とか、中国が鉄鋼を消費しすぎだから外国でマンホールを盗んで中国で売ろうとする犯罪が増えているとか、なんか悪いことがあるとぜんぶ中国のせいにされてしまうみたいだ…。たとえば日本の石原慎太郎東京知事は一貫して中国に対し非友好的でまるで幻想小説を書くように、いいたいほうだいだ。7日付産経新聞の「いかに備えるか」の文章では、北朝鮮が日本を軍事攻撃しようとする背後に常に中国の存在があるとか、日本は中国の覇権主義に組み込まれうるとか、日本は眠れる獅子で核武装すべきだ、なんて言っている…。それに石原の言っていることはぜんぜん新鮮味ない。あの米国華僑の本と同じ内容で、すでに西側メディアがさんざん報道した。あの本は中国が五年もたない、といっているけど、もう五年たって、今じゃ笑い話になっているじゃないか。

これは、あくまでも日本語訳であり、中国語のニュアンスとはぜんぜん違うかもしれない。しかし、中国では国内の政治批判は許されないが、海外に対する政治批判は報道されているというのはどうやら事実であるようだ。

5.日本と中国の報道の違い

中国では、物事を全体像から見るのに対し、日本は細かな事実を積み上げて報道することが多い。例えば、南京大虐殺が報道されたとき中国人は国際政治の事実として評価した。しかし、日本人は全体の流れよりも細かなデータの正確さを重視した。南京で民間人に対して無差別殺戮があったことは事実である可能性はかなり高い。しかし日本の一部の人は99%、本当でも1%の間違いによって全体が間違いだと主張する。このように日本と中国の報道の違いは、同時に歴史観の違いでもあり、歴史的背景からも着目することができるようだ。

6.感想

中国の新聞やその報道については、中国とその他の国とを比べることによって、自分なりにわかりやすく調べることができた。さきほど、中国は自分たちの政治批判はしないが、外国の政治批判はすると言ったが、別にそれが悪いことだとは個人的には思わない。しかし、今の国よりもより良い国にしていくためには、やはり自国の悪いところは自分たちで指摘し合わなければ、改善は難しいのではないかと思う。確かに、日本とは歴史的にも、文化的にも違うところはたくさんあるので、それはとても大変なことなのかもしれない。しかし、日中の関係がこれからさらによくなるためにも、お互いで悪いところは指摘し合い、いいところは高めあえるような関係にしていきたいと思う。また、それは同時に日本にも言えることだと思う。

参考資料 

ハンドブッグ 現代中国 第二版

インターネット  http://www.iza.ne.jp/

         http://picotiki.com/mb/story_i.php?storyid=393&start=430 

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日中交流

法学部現代社会法学科 八神卓也

0.初めに

近年、靖国神社の問題や、竹島問題、油田など、日中関係は、政治の世界では、悪化の一途を、たどっている。日本と、中国の交流がいつからあったのか?歴史をたどってみましょう。

1.弥生時代、日本は、中国に遣使を送り、さまざまな、技術を取り入れた。

57年

中国が後漢の時代に、和の奴の国王が金印を授かる

239年

邪馬台国の女王卑弥呼が、魏に遣使をする。

243年

再び卑弥呼が遣使をする。

2.飛鳥~奈良時代

表2

413年

中国が、宋の時代、国王が変わるたびに遣使を行い、中国とは、仲はよかった。

 

421年

438年

443年

462年

607年

聖徳太子が、小野妹子を、遣使として、隋に派遣。

国を治める上での、技術、仏典を持ち帰る。この時、有名な聖徳太子の手紙を、隋の王に渡した。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」

王は、激怒する。この時の王の名は、煬帝である。

608年

煬帝は、裴世清を答礼詞使として、日本に派遣。

同608年

小野妹子が、再び、遣隋使として中国に渡る。この時に、高向玄理、南淵請安、僧旻ら多くの留学生・留学僧が同行する

古墳、飛鳥時代は、仏教の伝来、都の作り方などを学び、さらに、律令、役人の人事など、大半の政治が、中国を真似たものだった。しかし、あまり知られてないが、日本は、朝鮮半島での、日本の立場を、強調しようとする狙いがあったし、朝貢外交から、対等外交にしようとした。

隋が滅び、唐になると、遣唐使が派遣されるようになる。

3.平安時代

表3

630年

犬上御田鍬が、遣唐使として、唐に入る

654年

高向玄理

702年

粟田真人・山上憶良

712年

玄〔日方〕・吉備真備・阿倍仲麻呂

733年

玄〔日方〕・吉備真備帰国

752年

藤原清河・吉備真備/鑑真来日

804年

空海・最澄・橘逸勢ら

838年

小野篁・円仁ら

875年

唐で乱が起こり、唐は衰退

894年

菅原道真が、最早、唐から学ぶものはないとして、遣唐使を廃止。

平城京、律令制度、天平文化などに多大な影響を及ぼした。

西暦794年に、都が、京都の平安京に移された。

このころの中国は、唐の強大な影響力が衰え、先行き不透明であったため、菅原道真公により、遣唐使が、廃止された。そのため、平安時代は、民間私貿易のみの交流であった。

4.鎌倉時代

唐が倒れ、宋が中国を統一すると、また何かを得ようと、日本の大臣が、港を新しく造ってまで、貿易をしようとした。

表4

1264年

鎌倉時代に、元が日本を2度侵略してきた。

1278年

2度目の戦争が起こった。ただ、今回は、日本が勝った。(ほぼ負け戦であった)ただ、火薬、戦術など、多くのものを、元から学ぶことができた。

5.室町時代

表5

1401年

室町幕府の3代将軍により、明との貿易が始まり、銅銭など、数多くのものが、大陸よりもたらされた。

1467年

日本で応仁の乱が起こる

博多商人と結ぶ大内氏と堺商人と結ぶ細川氏に、貿易の実権が移る。

1547年

最後の遣明使が行われる。「遣明使はあまり知られてないが」

この時代、日本側の海賊による、襲撃が相次ぎ、それを、共同で取り締まったことで、双方の、信頼が得られた。

6.日明貿易

表6

輸入品

輸出品

明銭、生糸、絹織物、書画、骨董品

銅、刀剣、硫黄、扇、屏風

 

7.安土~江戸時代

安土桃山時代になると、時の権力者織田信長は、キリスト教の南蛮ひいきとなり、さらに仏教排除を行い、中国との交流はなくなります。豊臣秀吉による朝鮮進行の際には、朝鮮とともに、豊臣軍に立ち向かいました。

1603年、徳川家康が、江戸幕府を開いてからは、将軍が変わるときに、中国から大使が来ていたというものが残っています。

江戸時代は、明が鎖国を行い、日本船を、自国に入れなかった為、海上の、船の中で交流がおこなわれていた。1840年、中国でアヘン戦争が起こると、日本は、西洋の力を知ることになりました。

 

8.日清戦争(18951898年)

表7

1868年

日本で、明治時代がはじまる。

1871年

日清修好条規締結

1894年

6月、朝鮮で起こった東学党の乱に、中国軍が、朝鮮からの要請により出陣

日本は、済物浦に基づき、在留日本人保護のために、朝鮮に出兵。ソウルなどを、占領

7月、朝鮮にから、日清両国に退却の要求を出す。日本拒否。朝鮮の親日派、と革命を起こす。

朝鮮は、清に、革命の鎮圧を要請。

8月、日清戦争勃発

9月、日本海戦、黄海海戦に、日本海軍圧勝。平壌占領

11月、遼東半島占領

1895年

1月、威海衛にて清国北洋艦隊、全滅。

4月、下関条約締結。後に、遼東半島返還

日本にとって、中国にとって、それぞれ大きな意味をもつ戦争になった。日本は、欧米列強の仲間入りを果たした。中国にとっては、自国の戦力の無さを、他国に示してしまった。

9.日露戦争(19041905年)

表8

1903年

小林寿太郎外相と駐日ロシア公使ローゼン、協商案の交渉開始
日本側「清国・朝鮮両帝国の独立・朝鮮は日本主導で満州はロシア主導」と主張

 

ロシア側、「朝鮮半島39度線分割案」を提示。→交渉分裂

1904年

日露戦争勃発。第二次黄海海戦・日本海軍、ロシア極東艦隊を無力化する

1905年

旅順陥落・旅順港の極東艦隊撃破・奉天会戦・日本海海戦

9月、ポーツマス条約・日露戦争終結・日本が遼東半島南部の利権を継承・韓国の保護権を掌握

11月、日韓保護条約を結ぶ。

1915年

中国に対して二十一箇条の要求

日本も事実上の勝利により、日本は、欧米列強の仲間入りをした。

10・日中戦争~太平洋戦争

表9

1937年

7月蘆溝橋事件→日中戦争勃発

8月上海事変。渡洋爆撃開始→無差別爆撃

11月蘇州攻略。

12月南京攻撃開始

同13日南京攻略。南京大虐殺

同17日南京城入城

1938年

5月日本で、国家総動員法発布

同19日徐州攻略

7月~9月満州国で張鼓峰事件。日ソ武力衝突(戦死526人負傷者914名)←日本側

1939年

2月海南島攻略

1940年

1月南京政府樹立

1941年

12月7日真珠湾付近にいた日本海軍潜水艇を、アメリカ海軍駆逐艦ワード号が、爆撃。沈没

18日、真珠湾攻撃開始

マレー沖でイギリス海軍の千巻を。撃沈させる。

1942年

ミッドウェー海戦、戦艦武蔵、空母飛龍をはじめ、多くの戦艦を失った。

1943年

戦功の悪化とともに、中国人の、戦地派遣、重労働などが課せられた。

1945年

戦艦大和を中心とした、水上特攻が行われる。

8月広島、長崎に原爆投下。(アメリカは、その他にも、春日井、鹿児島、厚木などの都市にも落とすつもりだった。)

ポツダム宣言をのんで、終戦

中国人も、日本側の捕虜として、戦地に派遣された。

日本、アジア、中国など、多くの国に、損害を、与えた戦争が、ここに終わった。

二度と戦争は、起きてほしくない。

11.戦後

表10

1950年

朝鮮戦争勃発。中国軍北朝鮮軍に加わる。

戦争需要により、日本復興

この戦争から、アメリカと、中国、日本の関係は、こじれだした。

しかし、日本にとって、この戦争により、景気が回復した。

12.近代

表11

1972年

日中共同声明。国交正常化

日本総理田中角栄。中国国務院総理周恩来。

1980年代から、日本の企業の中国進出が始まり、日本の技術が、中国に持ち込まれ、日本の、法律や、文化も、もちこまれた。日本と、中国の立場が逆転した。

そして、平成の世、日本と中国は、政治面では、いざこざが続いている。

しかし、貿易や、スポーツ面では、よい関係が続いている。先のドーハ2006では、中国のチームに日本人のコーチがつくなどが、その例である。

13.現代

中国は、日本にとって、最大の貿易国になっている。その反面、前総理大臣小泉純一郎氏の靖国神社参拝問題、サッカーアジアカップでの、日本選手団への反日行動、一昨年の反日デモもおきている。ただ、忘れてはいけない、両国にとって、最大な貿易国であるということを。

14.まとめ

遥か弥生、飛鳥、奈良時代、中国は、日本にとって、学ぶべきことの多い先生のようなものだった。平安時代には、公の貿易が行われなかったが、民間での交流は、続いていた。

鎌倉時代、宋が攻めてきて、日本との関係がこじれた。安土桃山時代は、完全に中国は、排除された。江戸時代には、再び交流があった。明治以降、大きな戦いが、数回続き、両国が、敵対視するようになった。そして現代、日本の企業の中国進出により、日本の技術が、中国にもちこまれ、中国のさまざまな技術が発展した。その反面、政治面では、冷たい状況が続いている。これからの人たちに与えられた、宿題は、山済みである。それらを解決することが、これからの新しい日中交流だと思う。

参考文献およびサイト

参考文献

1.ハンドブック現代中国(愛知大学現代中国学部編)

2.日本史B(三省堂)

3.世界史B(三省堂)

4.NHKそのとき歴史が動いた。プロジェクトX

サイト 

1.朝鮮半島と、日中関係。

2.第二次世界大戦の歴史。

3.現代の日中関係。

4.日中国交正常化への道。

5.日中関係史。

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一人っ子政策による問題

                           林 卓明

1、人口増加について

中国は世界最大の人口を抱える多民族国家である。197812月以来、経済は高度成長を続けてきたが、杜会・経済の基徽はなお脆弱なため、急激な人口増はエネルギー資源の利用、環境の保全などとの間の矛盾を激化させ、それが近代化建設の足かせになっている。人口増加をどうコントロールするかは中国の国家的課題となったのである。

2、ではなぜ中国の人口増は止まらないのか。

それは生産カ発達の後進性、封建的制度・思想の影響、科学的知織の普及の遅れ、現代中国になってからの人口政策の誤りや偏向など多様な要因が指摘される。社会の安定、生活改善、医療衛生事業の発展により、中国は多産多死から多産少死という人口転換を迎えた。特に乳児死亡率の低下、平均寿命の伸長は著しい。また長い中国の歴史上、封建的な小農経済の基盤の上に形成された伝統的な結婚・出産観念の存在もあるからである。中国の出生率が下降しなかった最大の理由について、人口の八割が居住する農民では依然として手作業が農業作業の中心であり、労働カが多ければ収入も多く得られる構造になっていることを挙げる。つまり、中国の農村の多くは現代技術の応用がまだ少なく、簡単な手作業が中心であり、それほど高い知識水準を必要とせずに農業活動に参加できるからである。また、第113中全会以前の中国社会は国家が民衆を管理する手段としての「戸籍管理」と「食糧配給」という二つの社会主義制度があり、これによって一般民衆の社会的移動は極端に制限されてきた。なので、農民の人々は都会に行けなくなったが、超安定した農村杜会を生む結果となった。それが人口増を生む下地となったと同時に、農村の抱える膨大な人口の都市への無秩序な流入を抑止していたのである。

それが何故人口を減らさなければならなくなったのかというと、人口の増加がかくのごとく速く・全国人民の衣食住・交通・教育・衛生・就業等の各面に、ますます大きな困難をもたらしているからである。これらの対処として国が一組の夫婦に子ども一人という、いわゆる「一人っ子政策(独生子女政策)」が行われた。しかし、この政策に色々と問題があり、地域によっては条例に地域差があり、特に農村部を多く含む地或では実情に即して第二子の出産が認められたり、少数民族が多く居住する地域では民族的な配慮が含まれている。よって、農村での第二子出産緩和や、生産責任制の導入により労働力(とくに男子労働力)が欲しいことに結びついて、出生率は政府が願うほどには低下しなかった。しかしながら全体としては、多子率の低下(44.6%16.8%)は明瞭で、また一人っ子証受領夫婦も2800万戸と増大している。ただ広大な中国国内にあって、都市・省市間で地域格差が大きいことが問題である。また、「超過出産ゲリラ隊」というのが現れ、一人っ子政策の、政策の展開とともに、その矛盾やひずみが顕在化している。この「超過出産ゲリラ隊」というのは一人っ子政策を守らないで、計画外に妊娠・出産をして人口を増加させている人達のことである。政府はこの人達に対し、処罰をいくつか考えているようだが未だに施行されていない。「超過出産ゲリラ隊」だけでなく、計画外出産のために親が罰則を逃れようと戸籍に登録しない「黒孩子」の出現も問題の一つである。無戸籍になった子どもの多くは公教育の機会を奪われ、非識字者を生む背景にもなっている。国務院は計画外出産の子どもの調査登記と常住戸籍登録申告を許可した。許可することによって、子供たちは助かるが政府としては頭の痛い問題ばかりである。  

3、多子多福

中国では「多子多福」という言葉からも分かるように、家庭は大きいほど理想とされ、幼き慈しみ、老いを敬いながら暮らしていくことが、伝統的な家庭像であった。しかし「一人っ子政策」以来、家庭の大きさは小さくなり、中国人の家庭像は大きな変化を遂げた。一人っ子たちが成長するにつれて、中国における家庭の役割は変化した。また、「一人っ子症候群」という言葉があるように、一人っ子をめぐる問題は非常に多い。なかでも思いやりがなくてわがまま、利己的で杜交性がないなど、一人っ子の性格的な弱点は数多く取り上げられる。近年では徴兵難に陥っている。これは親がたった一人のわが子を危ない軍隊に入隊させたくないと考えているためだといわれている。子どもが一人しか作れないから、父母や祖父母の期待はその子一人に集中する。一人っ子を目に入れても痛くないほど可愛がり溺愛する一方、とにかく勉強して出世しろ、専門的な技術を身につけて有名になれと、親たちが子ども教育に熱を上げている。その緒果、子どもが追いつめられて、様々な悲劇が起こっている。中国では最近、子どもの自殺や親の子ども殺害に関する報道や記事が新聞を賑わしている。中国は人口が多いがために仕方なく一人っ子政策という対処法をしたのだが、それによって人口が減る一方での多大な問題が生じているのは言うまでもない。

一方、老人を敬うという家庭の役割も急速に衰えてきている。「四二・一総合症」の家庭が増える中で、浮かんでくるのは、「四人の老人の面倒を誰が見るか」という問題である。中国政府の統計によれば、2032年には中国の年少人口(14歳以下)と老年人口(65歳以上)がほぼ等しくなり、その後は老年人口が上回ってゆく。このような急速な人口の高齢化は、中国家庭の老人扶養問題を激化させている。この問題が浮上してきたため老人扶養の義務について、法で定められたのであるが、このように義務を明文化したのは、伝統的な家庭の役割としての、親に孝行し老人を扶養するシステムが機能しなくなり、モラルのレベルでは維持しきれなくなったことを意味し、中国伝統家庭の崩壊を象徴している。よって一人っ子は中国の伝統的な家庭像を破壊し、伝統的モラルや倫理観に波紋を投げかけている。教育間題にみられるような過剰な期待に加え、四人の老人の面倒を見なければならないとなると、一人っ子の背負うべき荷は重くなる。このような宿命を背負い、伝統と近代との狭間を生き続ける一人っ子にとって、理想的な家庭像とはどんなものだろうか。  

4、まとめ

中国は一人っ子政策を取り入れたことによる問題が莫大に増えたため、メリットより、デメリットが多いと分かることから「一人っ子政策」について考え直した方が良いのではないかと考える。人口が多すぎるのは問題だが、今のやり方で減らしていくことは人々を抑圧しており、その反発によって政策から逃れようと住民登録されない子供が出てきて、それにより学校に行くことが出来ない子供が増えている。今の時点でこのような問題がある。他にもまだ問題があるうえに更に新たな問題も現れてくるだろう。例えば親が子供に愛情を一心に注ぐまり子離れできないで、困ったときにすぐに助けてしまい、日本のニートと同じような子供たちになりかねない。そうなると日本より人口の多い中国では対処しきれなくなるのではないだろうか。   終

参考文献 ・『現代中国・・・人口動態』愛知大学現代中国学部 編

     ・『原典中国現代史(4)社会』岩波書店/加藤千洋
・『中国の人口変動』アジア経済研究所/早瀬保子編
・『中国の人口問題』東京大学出版会/若林敬子

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香港返還について

加藤 奨太

1、香港の植民地化

清朝側は1836年にアヘン貿易を禁止し、イギリス商人に対してアヘンの廃棄を要求する。イギリスのチャールズ=エリオット大佐はこれを拒否し、関係は悪化してイギリスはマカオ、そして香港島への避難を余儀なくされた。1840年ついにイギリスは砲火を開き、 翌年1月には川鼻仮条約によって香港島を領有する。英軍 は香港島北岸から上陸し、ユニオン・ジャックを掲げた。(アヘン戦争)

 後任のヘンリー=ポッティンジャーはさらに艦隊を寧波・上海・鎮江へと進めて清朝を威圧していった。そして1842年8月29 日、南京条約が締結され、香港島の割譲が確定し、ポッティンジャーが初代総監となった。185610月8日、アロー号事件が発生、アロー戦争が起こった。イギリスはフランスを誘って広州 ・天津を攻め、1858年6月、天津条約を締結、次いで北京条約によって九龍半島 南端部を獲得した。

 19世紀になると、日本・ロシア・フランス・ドイツなどの帝国主義列強による中国分割が進行し、危機感を抱いたイギリスは中国に九龍半島全体の租借を 要求し、ついに1898年6月「香港境界拡張専門協約」が結ばれた。この条約によって新界と235の島の99年間の租借が決定した。この三つの不平等条約により、 イギリス領植民地香港が形成されたのである。

 1982年9月22日、イギリスのサッチャー首相が北京を公式訪問した。香港を統治している国の現職首相の訪中であるから中国政府は当然、香港返還要求した。 しかし、サッチャー首相は返還を認めることはなかった。

 だが、それから2年後の1984年9月26日には、中英共同宣言が調印され、なんとイギリスは中国と共に「香港問題に関する共同声明」を発表して、1997年6月 30日に香港全域の主権を中国に返還する事を決定したのだ。

返還の理由は不明であるが、その理由は次の3点であると思われる。いずれにしても経済的問題がベースになっている。

 まず第1は、香港の経済事情である。香港政庁の予算と決算は当然の事ながら中国の経済情勢の影響を非常に強く受けている。中国は1955年からずっと約6年の周期で経済が安定せずにおり、浮き沈みが激しく、香港の経済も打撃も受けるとイギリスの国家予算を埋めなければならなくなり、イギリス国民が香港を養っていくという事で、イギリス国民の理解を得られないと判断したためである。

 第2の理由は、今や新界を切り離しては、香港島、九龍半島先端のイギリス領だけでは経済的にやっていけないと判断されたことである。新界は一番最後にイギリスが得た地であった。ただ新界は香港島や九龍半島先端と違って租借地だったので1999年が来たら、中国に返される土地であったため、香港人や他国も新界には投資はあまりしなかった。ところが、1960年代の後半に文化大革命の迫害を避けて中国の移民が流れ込んできた為に香港の人口が急激に増加したので、1970年代に政庁は住民の分散居住政策をとって新界にたくさんの公営アパートを造って住民を住まわせた。これが新界を活性化する事になって、加工品や農産物の生産基地になると共に、各種租税や手数料などの増収に伴って新界なしでは香港の経済はたちかない状態になった。香港をずっと植民地にしていても新界を返還したら香港だけではやっていけないのだ。

 第3の理由は、少し信じ難い所があるが述べてみたい。端的にいうと、香港に対する中国の食料と飲料水の供給量が削減される可能性が出てきた。両方とも1982年当時の供給量を相当、削減するという事が北京からロンドンに密かに伝えられたというのである。1989年の統計によると、番港は中国から豚 を全消費量の82%、野菜は66%、米、小麦扮などの主食の数字は明かにされてないが、99%くらい輸入している。このような中国に対する高依存度では、香港は中国から見捨てられると、たちまちパニックに陥ってしまうといわれている。したがってこの第3の理由がもし事実であったとすれば、イギリスに与えた衝撃は極めてきつかったと思われる。

2、香港返還の日
 サッチャー首相の訪中をきっかけにして始まった香港返還問題は当然のことながら、香港住民の注目を集めていたのであるが1997年に一括して中国へ返される可能性が非常に高いという事を感じて絶望感に打ちひしがれたのは、香港住民そのものだった。

 その理由は、香港の現状が好ましくない方向に変わってしまうと予想するからである。現在のイギリス領香港の基本方針であるレッセフェール政策が、思想と体制の違う中国に返っていったら消えてなくなってしまうと考えるからである。そしてレッセフェール政策こそが現在の香港の繁栄をもたらしてくれた根源であると信じてきたからである。

歴史的な「香港返還」が1997年7月1日午前0時、世界中の人々が見守る中で行われた。アヘン戦争を契機にこれまで続いてきた英国の植民地統治が終わりを告げ、香港は155年ぶりに中国へ復帰したのである。これによって、香港は今後50年間鄧小平の提唱した資本主義体制を保障する「一国二制度」のもとで新たなスタートを迎えた。

一連の返還儀式は6月30日夕方から7月1日未明にかけて小雨がパラつく中で行われた。30日午後4」時、最後の総督であるパッテンが家族とともに英国の植民地統治を象徴する総督邸を後にし、6時過ぎにはタマール基地でチャールズ皇太子、ブレア首相、パッテン総督らが出席し盛大なお別れ儀式を行った。

 中国側は1日未明からの儀式に備え、江沢民主席と李鵬首相が午後5時過ぎに歴代中国首脳としては初めて香港(啓徳空港)の地を踏んだ。そして両国首脳が出席した主権返還式典は301145分から1015分までわずか30分程で終わり、中国側は引き続き、英国外相と米国国務長官欠席のもとで特別行政区成立宣誓式を行った。

 中英両国首脳出席による主権返還式典をできるだけ簡単に済ませ、両国がそれぞれ別個に返還儀式を行った背景には、パッテン総督の政治改革に端を発した政治対立があったと言われる。しかし、その根底にはもっと根深い両国の歴史解釈の相違といったものがあったのだ。

 実は香港返還は84年の中英共同宣言で合意したものの、香港の植民地統治を巡る歴史問題について中英両国は合意に至らず、平行線のままである。つまり英国は香港植民地統治の根拠となった三つの国際条約の有効性を主張しているのに対し、中国はこれを不平等条約であるとして拒否している。中英共同宣言の冒頭に「中国は香港に対し主権行使を回復する」「英国は香港を中国に返還する」と両論併記に留めていることが何よりの証拠である。 

3、一国二制度

香港返還にともなう政策にあったものではなく、台湾問題に端を発した制度で、大陸と台湾が一体になり、大陸側は社会主義を実施し、台湾側が資本主義を実施するという構想から生まれた。現在、香港、マカオでは、この一国二制度が採用され、大陸とは異なった制度が存在している。香港においては、1997年から50年間鄧小平の提案した資本主義制度の社会、経済、生活様式が認められている

4、特別行政区

本国の地方行政制度とは異なる行政機関が設置され、独自の法律が適用されるなど、大幅な自治権を持つ地域のこと。特に中国における制度を指す。中華人民共和国憲法(1982年憲法以降)第31条は、「国家は必要時に特別行政区を設置することができる。特別行政区において実施する制度は、具体的状況を鑑みて、全国人民代表大会により法律によって規定される。」と規定している。香港やマカオでは、全国人民代表大会が特別行政区基本法を制定し、この2つの特別行政区を設置し、その制度を定めた。

参考文献

現代中国 愛知大学現代中国学部編

http://page.freett.com/shino_i/honkonhenkan.htm

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中国の人口問題

法学部1年 西川 基裕

1.はじめに

中国といえば世界1位の人口をほこっていて、その膨大な人口により近年目覚しい発展をみせているが、その反面増えすぎた人口に対し様々な対策を積極的に行ってきているので、この機会にもっと詳しく知りたいと思い、この題材で調べることにしました。

このレポートでは、まず人口が急激に増えると具体的にどのような問題が起こるかを調べ、中国はそれに対してどのような対策を行っているかを調べ、次にその対策の中の1つであり、最も重要な一人っ子政策の具体的な内容や問題点について調べ、最後に人口問題についての自分の考えをまとめたいと思います。

2. 人口が急激に増えると具体的にどのような問題が起こるか

人口が急激に増えると一番問題になるのが食料不足による飢餓問題です。食料の生産にも限界があり、人口が増え過ぎると生産が需要を満たしきれなくなるからです。他には、人口に見合った雇用がなかった場合、失業者が増加するという問題があります。また、失業者はお金がないので、その土地に建てられる絶対数が決まっていて、需要により価格が高騰した住宅には住めず、スラム街ができてしまうという問題も起こってしまいます。

地域的に見ると常に最低限の生活水準を満たす経済となり、投資が過少となることで経済成長が抑制されたり、教育や医療へ振り向ける余力が無くなり、それらが不足したりします。

また、世界規模で見ると工業化が進む現代では、人口が増えるにつれ燃料や森林などの資源の使用が激しくなり、地球温暖化の要因の二酸化炭素を増やしてしまうという問題もあります。

3. 中国は人口によって起こった問題に対してどのような対策を行っているか

中国では共産党政府の成立後、急激な人口増加がすすんだことにより、人口増加に危機感をもった共産党政府は、対策として1979年から一人っ子政策を実施し、出生率の統制による人口抑制を展開したり、法定婚姻年齢の引き上げ(男22歳、女20歳)や、女子24歳以上での出産奨励などで、出産時期を遅らせて計画的に妊娠ができるようにしました。

他には、人口問題は人口過多の国から人口過少の国へ移民することで、状況が改善されるので、農村戸籍と都市戸籍に分けて厳しく管理していた戸籍制度の規制を緩めたりした。また、食料や財源など不足している物を増やせば人口問題は解消するので、1984年から上海付近の海岸沿いに経済特区を設けて外国資本の誘致をし、雇用を増やしたり、海外の技術を導入したりして、急速に経済発展を遂げ、不足している物を補うことに成功しました。

4. 一人っ子政策の具体的な内容や問題点

一人っ子政策は前に述べたように、出生率の統制による人口抑制を展開するというもので一見人口を減らせて完璧のように思えますが、一方では戸籍上は子供を1人しか持たないようにするため、出産しても届出を行わず、黒核子(へイハイズ)と呼ばれる国籍を持たない子供を増加させたり、貧乏な農家の子供たちが人身売買のバイヤー経由で裕福な家庭に売られるなど、新たな問題が発生しているのです。

その中でも今、もっとも問題になっているのは急激な出産制限によって若年層の割合が低下したので近い将来、激しい少子高齢化の時代が来るということです。

少子高齢化の時代が来ると年金の支給がとても大きい問題になってきます。一人っ子政策を実施していることによって、日本や欧米に比べて、より少ない若者で、より多くの老人を養わなければならないのです。あと10~20年後にその厳しい年金問題は訪れるのですが、さらに困ったことに、中国には国家的な社会福祉や年金制度というものがないので、利益が出ない国営企業はどんどん倒産するということです。

こうした状況の中、高齢化社会に突入すれば、極貧状態に置かれる老人が増えることは間違いないので、この問題をどう解決するかという事が非常に大きい問題になってきているのです。

これらの問題を受け、中国政府は静かに一人っ子政策の見直しをはじめているのです。

上海などの大都市に住む若手エリート層の夫婦に夫婦が一人っ子同士であることを条件に2人目の出産を可能、少数民族は子供2人まで可能、また農民に対しては、一人目が女の子であった場合のみ2人目可能としている。このように次第に広い範囲で認められる方向にあるので、2010年までには、一人っ子政策は廃止される見通しであるのです。

5.まとめ

ぼくは、中国の人口が圧倒的に多い事は知っていたけれど、その人口が原因で、これほど多くの問題を抱えているとは、まったく知らなかったので驚きました。

ぼくは日本の年金問題がこの先どうなっていくのだろうと、とても心配でしたが中国は今発展している反面、日本よりはるかに大きい年金問題を抱えているとしったので驚きました。でも、年金がたとえ少なくても定年してからも働ける限りみんなが働けば中国は今の調子でどんどん発展していくと思った。

今、日本は少子高齢化が進んでいるので、中国やインドで有り余っている人を日本にどんどん移民させればよいと思った。

今回調べていて中国がこのように爆発的に人口を増やしたのは、毛沢東が「人口は多い方が戦争にも生産力増加にもいい」という発言をしたからだということを知ったので、こんな所にも戦争によって起こってしまった爪あとがあるのだと思い、二度と戦争は起こしてはいけないと思った。中国やインドのように人口が爆発的に多かったり、反乱や紛争などにより貧しかったりするような国が世界にはたくさんあるので、限られた資源や食料をアメリカのイラク戦争のように独り占めするのではなく、世界の国々で分け合っていかなければいけないと思った。

参考文献

  インターネット

  1.人口問題     http://digarc.saga-u.ac.jp/sin-kyozai/kankyou/jinkou/html

       2.中国問題を解く鍵は、「過剰人口」と「戸籍制度」にあり

            http://www.president.co.jp/pre/20020930/001/html

       3.人口過多―Wikipedia

                        http://ja.wikipedia.org/wiki/

       4.世界人口

            http://arot.com/jinkou/

       5.人口爆発より高齢化が心配な中国、一人っ子政策見直し

            http://tanakanews.com/971101china.htm

  本

    6.ハンドブック現代中国第二版     愛知大学現代中国学部 編 あるむ

    

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朝鮮戦争について

法学部法律学科1年 古田知也

1、 はじめに

 まず始めに朝鮮戦争とはどういった戦争なのか知る必要がある。この戦争は同じ朝鮮民族が国家統一を目的に1950625日~1953727日の3年間ほど戦い続けた戦争のことである。この戦争により200万人以上の犠牲者を出しながら、共産主義と資本主義という思想の違いから、米ソの世界戦略の狭間に置かれ、その悲願を達成することなく現在に至っている。

2、朝鮮戦争までの経緯

1945815日に大日本帝国がポツダム宣言を受け入れ連合国に降伏することで、朝鮮半島は植民地支配から解放された。国内で建国準備委員会が結成され、96日に朝鮮人民共和国の成立を宣言した。しかし、その後、建国準備委員会内部において意見と足並みの乱れ、そして李承晩が反共姿勢を鮮明にして朝鮮人民共和国主席への就任を拒否し、またアメリカ軍政が人民共和国を承認しない意思を早々に明らかにしたことが決定打となって、人民共和国は空中分解し解消された。アメリカに亡命していた李承晩や、重慶に亡命していた大韓民国臨時政府、金日成をはじめとする満州抗日パルチザン出身の金日成たちなど、さまざまな亡命者が帰国してきた。これが決め手となって占領軍政下・南北朝鮮の政治情勢は大混乱に陥った。こうして左右対立の激化は南北の分断の一因となった。

1947226日に北緯38度線以北に金日成を主席とする朝鮮民主人民共和国の成立を宣言し、アメリカはこれを激しく非難した。金日成は、3月に南半部への送電を停止して、南北の対立は決定的となった。1948813日には、李承晩が大韓民国の成立を宣言し、金日成はこれに対抗して自らも99日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。この結果、北緯38度線は単なる境界線ではなく、事実上の国境となった。

3、朝鮮戦争勃発・経過

19503月にソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と朴憲永に対し、金日成の働きかけもあり、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認した。同年5月、中華人民共和国を訪問した金日成は、北朝鮮による南半部への侵攻を中華人民共和国が援助するという約束を取り付けた。そうして625日に、朝鮮人民軍が「暴風」(ポップン)の暗号と同時に38度線を越境、南半部への侵攻を開始した。こうして朝鮮戦争が勃発した。ただし北朝鮮側は、当時から現在に至るまで、「韓国側が先制攻撃してきたものに反撃したのが開戦の理由」だと主張し続けている。

1950625日午前4時、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始され、30分後には約10万の兵力が38度線を突破した。協定によって対戦車装備を持たない韓国軍は総崩れとなっていた。絶望的な戦いを続けていたが、ついに韓国政府はソウルを放棄し、首都を水原に遷都、ソウルは628日に陥落した。629日にはマッカーサーが水原に入り、派兵を韓国軍と約束を交わした。マッカーサーは戦線建て直しに全力を注ぎ、数度にわたる牽制の後の915日、仁川に国連軍を上陸させる事に成功した。国連軍の大規模な反攻が開始されると、戦局は一変した。度重なる攻勢によって限界に達していた北朝鮮軍は敗走を続け、928日に国連軍がソウルを奪回した。101日、韓国軍は祖国統一の好機と踏み、国連軍の承認を受けて、単独で38度線を突破した。102日、韓国軍の進撃に対し北朝鮮は中国に参戦を要請し、中国の国務院総理(首相)周恩来は「国連軍が38度線を越境すれば参戦する」と警告したが109日には国連軍も38度線を超えて進撃したため中国も、遂に開戦前の北朝鮮との約束に従って人民解放軍を「志願兵」として派遣することを決定する。1020日、国連軍は北朝鮮の臨時首都・平壌を制圧し、進撃を続けた。先行していた韓国軍は一時中朝国境の鴨緑江に達し、統一間近とまで騒がれたが、10月から朝鮮への進入を開始した中国軍は山間部を移動し、神出鬼没な攻撃と人海戦術により国連軍を圧倒し、38度線近くまで潰走した。ソ連の援助により最新鋭機であるジェット戦闘機MiG-15の導入により一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は125日に平壌を奪回し、195114日にはソウルを再度奪回した。韓国軍・国連軍の戦線はほぼ壊滅し、2月までに忠清道まで退却した。しかし近代兵器に劣り、人海戦術に頼っていた中国軍は度重なる戦闘ですぐに消耗し、攻撃が鈍り始めた。それに対し国連軍はようやく態勢を立て直して反撃を開始した。314日にはソウルを再奪回したものの、戦況は38度線付近で膠着状態となった。

4、停戦

その後、ソ連の提案により停戦が模索され、19517月から休戦会談が断続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航した。しかし両陣営の指導者が交代して状況が変化し、1953727日、板門店で北朝鮮・中国と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は終結した。

5、国への影響

朝鮮戦争勃発に伴い米軍は、13億2千数百万ドルにのぼる資材の調達、兵器の修理を日本の企業に発注、いわゆる「朝鮮特需」が発生し瀕死の状態であった日本経済は一気に好転した。しかも、米軍の規格は厳しく厳格な品質管理を必要としたことから、否応なく技術水準の向上ももたらされ、商品の国際競争力が醸成され、その後の高度生長の基盤ともなった。朝鮮半島では、南北の分断は決定的となり、1000万人とも言われる多くの家族が南北間で離れ離れになる(離散家族)という問題が生じた。また、犠牲者数は南北朝鮮合わせて460万人とされる。これは当時の総人口の23%に当たり、特に北朝鮮の人口は、100万を越える人々の南への避難も加わり2/3まで減少した。

6、まとめ

 今回朝鮮戦争について調べてみたが、上記にあるようにこの戦争によって日本は「朝鮮特需」のように好景気となった。だがしかし、韓国・北朝鮮(朝鮮半島)にとっては南北の分断により、離散家族を増加させる原因となり、今現在でも問題となっているのは非常に残念なことである。そして、3年間に及ぶ戦争により犠牲者もとても多くなっている。自分は韓国人又は北朝鮮の人間ではないため一体この戦争をどう思っているのはわからないが、まだ停戦状態であるため、一刻も早く南北統一し離散家族の問題を解消し目指すべきだと思う。

参考文献・参考URL

1.  2006年4月1日出版 『ハンドブック現代中国 第二版』 株式会社あるむ出版

2.  http://www5.ocn.ne.jp/~onohome/Korea_war_2.htm 「朝鮮戦争について」

3.  http://www11.ocn.ne.jp/~rachi/kankoku.htm 「韓国 拉北問題」

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