中国の文化 Culture 本文へジャンプ


はじめに

 ここは、学生のレポートを掲載しています。内容は、教養セミナーⅠⅡⅢⅣに学ぶ学生と、中国文化事情に学ぶ学生が、春学期や秋学期でまとめたレポートです。
 大学に入ってまだ1年目の学生がほとんどで、本を読むことから資料収集し、インターネットを利用して収集することも多いです。教員は、レポートの書き方や引用の部分と、参考文献や参考サイトなど、特に著作権に関する意識を高めるために厳しく要求しているほか、多くの添削は特にしておりません。
 ここに学生のレポートを掲載する目的は、中国について、学生がどんなテーマに関心があるか、どういう風にレポートをまとめるか、いろいろ調べることによって考え方がどういう風に変わるかなどについて、これを読む方のために参考になればと思っています。そして、交流ができれば幸いです。
 もちろん、掲載されたレポートに関しての責任は教員にあります。ご指摘等がありましたら、是非とも次のメールアドレスを通してご一報ください。
molihua@gctv.ne.jp

中国の文化  (中国の文化②へ
1.     華僑・華人について
2.     高行健著『霊山』を読んで
3.     中国の年中行事について
4.     中国の食文化について
5.     中国宗教の歴史
6.     中国の国画について
7.     中国の美術について
8.     中国の絵画―人物と技法
9.     中国の近代の演劇について
10.  中国美術と日本

華僑・華人について

法学部法律学科1年 小島美幸

キーワード:華僑 華人

1.はじめに 

(1)華僑とは

華僑は台湾、中国、香港、マカオ以外の国家・地域に居住する中国の国籍をもつ漢民族のことである。ただし、留学生は含まれない。中華人民共和国の定義では「同国外に居住する同国公民」をさす。

(2)華人とは

 中華人民共和国の定義では移住先の国籍を取得した中国系の住民をさす。移住先の国籍を取得していないか華僑とは区別しているが混同されることも多い。

2.歴史

 9世紀以前は中国人が海外に進出することはまれだった。9世紀になり通商にでる中国人が出現するが少数にとどまっていた。中国人が本格的に海外に進出するのは12世紀になってからのようでこの頃ジャワ、スマトラ、カンボジアなどに住み着いて貿易を行う中国商人が出現する15世紀から16世紀に東南アジア各地に中国人街ができ始める。16世紀以降明末期の動乱で中国人の海外流出が急増する。18世紀頃、清が衰退したため漢民族の海外移住増加する。労働力として東南アジア、北米などに移住する。1930年代以降世界恐慌・第二次世界大戦・東南アジア各国の独立に伴う移民制限等で中国人の移住は実質的に停止する。

3.日本で活躍する華僑・華人

(1)王貞治

 1940年東京都墨田区生まれ 国籍は中華民国(台湾)中華民国籍(浙江省出身)の父と日本人の母の間にうまれる。

 早稲田実業高等部に入学後一年生のときにチームの夏の甲子園出場に貢献する。2年生のときには春の甲子園では関東にはじめて選抜優勝旗をもたらした。しかし、国体には当時の国籍規定のため出場できなかった。

 1959年に契約金1500万円で読売ジャイアンツ入団する。当時の監督水原茂の助言からピッチャーから一塁手に転向する。1980年に引退を表明、1981年から3年間巨人助監督をつとめ2度リーグ優勝へ導く。1984年に監督に昇格、1988年監督を辞任、巨人退団後はNHK野球解説者をつとめるた。

 1995年、福岡ダイエーホークス(現在の福岡ソフトバンクホークス)の監督に就任する。当時のダイエーは前身の南海時代から長年成績不振が続いていたが、1998年21年ぶりにAクラスとなる3位にチームを導く。1999年、2000年、2003年にリーグ優勝を成し遂げている。

2006年3月開催の第1回ワールド・ベースボール・クラシック世界大会の日本代表チーム監督に就任。日本を初代チャンピオンへ導く。

2006年7月5日の西武線より胃に生じた癌の治療のためチームを離れて療養中だが2007年春の宮崎キャンプからチームに復帰する予定である。

(2)邱永漢

 日本および台湾の実業家、作家、経済評論家、経営コンサルタント

 1924年3月台湾台南市に台湾人実業家の父と久留米出身の日本人の母の間に生まれる。13歳のとき台北高校尋常科に入学する。

 1942年に来日後1943年10月に東京大学経済学部に入学する。

 1945年に東京大学を卒業後、東京大学大学院で財政学を研究する。当時まだ珍しかった世論調査を行い高く評価される。

1946年に大学院を中退して台湾に帰国する。1948年に台湾独立運動に関係して中国国民党政府から逮捕状が出たため香港に亡命する。物資欠乏の日本に郵便小包で商品を送る事業が成功おさめた。

 1950年頃処女作「密入国者の手記」を執筆、1954年1月に「大衆文芸」誌で作家デビューする。

 1954年4月より娘の病気療養と文学修行をかねて日本に移住する。1955年に小説「香港」で第34回直木賞を外国人としてははじめて受賞する。

 当時まだ金銭について語ることを蔑視していた日本社会の風潮に抗して自らの経験を基にした「金銭読本」「投資家読本」などを発表し好評を博すが、小林秀雄ら文壇の芸術至上主義者からは徹底的に批判された。

 1971年台湾の政情変化により国民党と和解する。1980年日本国籍を取得する。1999年の香港返還を目前に香港に移住する。後に雲南省に移住しコーヒー栽培事業を営んでいる。

 実業家としてはドライクリーニング業・砂利採取業・ビル経営など多方面で活躍した。また日本におけるビジネスホテル経営の元祖でもある。

(3)呉清源

1914年5月19日に中国で生まれた囲碁の棋士。現在は日本棋院名誉客員棋士。

 呉清源の父は平政院に勤める官吏だったが日本に留学した経験があった。その時に囲碁に興味を待ち方円社に通うなどした。また帰国のときには多くの棋書を持ち帰った。

 呉清源自身は5歳のときから父に四書五経を学ばさせられた。7歳のときに囲碁を教えられ父が日本から取り寄せた棋書などを学んだ。

 数年で周りには対等に相手をできるものがいなくなり神童と呼ばれるようになった。11歳で父が亡くなった後天才少年と北京で有名となった呉清源の評判を聞いた日本人のクラブに囲碁を打つよう招待された。

 1928年10月18日に来日し瀬越憲作名誉九段に入門する。日本棋院では段位を決めるための試験碁が実施され篠原正美四段に先で勝ち、本因坊秀哉名人に二子で勝ち、村島義勝四段、前田陳爾四段らに勝ち、1929年に三段の段位が認められた。

 1933年日本国籍を取得、呉泉と改名する。1949年日本棋院より名誉客員の称号をうける。

(4)アグネス・チャン

1955年香港生まれの歌手、大学教授、エッセイスト、小説家、日本ユニセフ協会大使

 中学生の頃にはじめたボランティア活動で、ギターを手に募金を集めたことが話題となり香港のフォークソング歌手のオムニバスアルバムへのレコーディングの話がでる。

 1971年に「Second Folk Album」というオムニバスアルバムでジョニ・ミッチェル作の「The Circle Game」を姉のアイリーン・チャンと共にカバーする。評判が良くシングル化され大ヒットした。1972年には姉のアイリーン・チャンらと共に張徹監督の映画「年輕人」「反叛」に出演し、マレーシア、タイなどの東南アジアでも人気がでるようになる。

 1972年11月25日に「ひなげしの花」で日本デビューする。1973年「草原の輝き」で日本レコード大賞新人賞を受賞するなど人気アイドルとなる。

 上智大学国際学部に入学するが父のすすめを受けて、1976年芸能活動を休んでカナダのトロント大学へ留学する。1978年にトロント大学卒業後、芸能活動を再開、復帰コンサートツアーの一環として中国人歌手としては初めて日本武道館でのコンサートを行う。

 1986年結婚し、カナダで長男を出産するが、翌年テレビ局に子供を連れ込んで仕事に復帰したことを林真理子が批判したことから日本の働く母親、女性の立場を再考させるきかっけとなったアグネス論争が起こった。

1998年には初代財団法人日本ユニセフ協会大使に就任した。

(5)村上世彰

1959年8月11日大阪府大阪市出身 中華民国系の華僑の貿易商を父に持つ

 灘中学校・高等学校に進学するがその前の小学生の頃から父親から渡された100万円を元手に株取引によって小遣いを捻出していたという逸話をもつ。高校卒業後1年間の浪人したのち東京大学文科一類(法学部進学課程)に進学する。

1983年東京大学法学部卒業、この年に当時の通産産業省(現在の経済産業省)に入省する。入省後に近未来小説「滅びゆく日本」を執筆するが上司の反対したため出版は断念する。

1999年「ルールを作る立場からプレイヤーになりたい」として通産省を退官してM&Aコンサルティングを設立する。なお「村上ファンド」とは村上世彰らが率いる投資、投資信託、企業の買収・合併に関わるコンサルティングを行うグループの通称である。

 2000年1月村上世彰率いるM&Aコンサルティングは東証2部に上場していた昭栄に対して日本初の敵対的TOBを実施するがTOBの期限内には全体の6パーセント程度ほどしか株式は集まらず日本初敵対的TOBは失敗に終わります。失敗の原因としては当時の昭栄の筆頭株主だった芙蓉グループがTOBに応じない方針をとったことなどがあげられます。

 その後も有名な株式を買い占めたMAコンサルティングでしたが2001年にはアパレルメーカーの東京スタイルの株式を買占めました(2002年1月15日の時点で9.3パーセント取得)。当時650億円の売り上げに対し1280億円あった潤沢の資産を使いファッションビルの建設を進めていた東京スタイルに対しファッションビル建設の中止と内部保留を利用した自社株買いの株主提案を行った。結局MAコンサルティングに好意的だった外国人投資家の保有株の5パーセントが委任状を出さなかったことなどからMAコンサルティング側の惨敗に終わります。

 2006年村上ファンドがライブドアからニッポン放送株売買取引などにかんする情報事前に得ていたというインサイダー取引の疑いが浮上する。村上世彰は当初はこの疑惑を否定するものの6月5日東京証券取引所で記者会見を行いライブドアの当時の取締役から事前に情報を「聞いちゃった。」とインサイダー取引が行われたこといったんは認めファンドマネージャーの職を退き証券業に今後関わらない意向をしめした。この日の午後5時前逮捕・勾留される。6月23日証券取引法のインサイダー取引容疑でMACアセットマネジメントと共に起訴され、26日に保釈される。

 2006年9月15日には公判前整理手続が,11月30日には初公判が行われたが起訴事実を一転して全面否認した。

 2006年11月7日付けの東京新聞(中日新聞)の記事によると村上ファンドは保有するほぼ全ての株式を売却し「年度内にもファンドは解散」ことがわかった。

 

参考文献

1.吉田実 1998年 「日中報道 回想の三十五年」 潮出版社

2.Wikipedia  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

3.柘植大学海外事情研究所華僑研究センターhttp://www.cnc.takushoku-u.ac.jp/~kakyonet/

4.ハイパーリンク世界史事典  http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/dic/index.html

5.All About   http://allabout.co.jp/

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高行健著『霊山』を読んで

法学部法律学科 山村賢治

1、はじめに

『霊山』は現在中国華人唯一のノーベル文学賞受賞者である高行健の代表作である。

 この作品は『おまえ』という二人称のストーリーと『私』という一人称のストーリーが交錯する物語だった。二つの物語は各章ごとに入れ替わり、また、時系列すらも時には無視して『霊山』という作品を進行させていく。

 しかし実際のところ、自分にはこの作品がいったいどういうものなのか判断しきれずにいた。調べてみたところ著者である高行健は「独り言は文学の原点といえます」と述べている。まさしくそのように、この作品はあまりにも壮大な独り言のように思えた。

 例えば第一章は『おまえ』が霊山を探し、自らにとっての未踏の地に長距離バスでやってくるシーンから始まる。これが小説ではなく、自分の体験している旅の始まりのようにすら錯覚しそうな感覚すらあった。しかし『おまえ』がどんな人間なのかは僅かしか見えてこない。『おまえ』は一体どういう人間なのか、興味を引かせるような作りになっていた。

「さて、『おまえ』は一体どういう人間なのかな――」などと自分が考えて第二章へと読み進めると、『おまえ』は欠片も出てこない。今度は『私』が羌族の男性に文化や歴史、方術などを聞いている。これらはみな羌族の文化らしかった。『私』は民謡を研究するためにやって来たとこの章で告げている。

 この時点で、霊山を探す『おまえ』と民謡を研究し辺境を歩く『私』が出揃った。

 この二人――と考えていいのか分からないが、とにかく『おまえ』と『私』は中国の各地を旅する。そして『おまえ』側の物語に登場する『彼女』の存在も重要だろう。『彼女』は『おまえ』の物語に現れるが、この『彼女』も作中であやふや存在である。何回か登場するものの、確固たる人物像が現れず、『彼女』がどういった人間なのかは僅かなヒントで読み解くしかない。

 

2、霊山を読んで

この作品は読んでいて、中国土着の多様な文化や、そこに住む人々を各章毎に見せてくれるようだった。あまりにも多種多様な文化は、中国の広さを感じさせてくれた。

 しかしこれは小説である。何か中心となるテーマがあるのだろう。そう自分は考えた訳だが、この作品は一筋縄にはいかなかった。作中の七十二章がそれを説明してくれている。

 第七十二章でとある二人の対話が語られている。この二人は、小説を書いた人(以下、『彼』)、そして小説を読んだ人(以下、『批評家』)だ。『批評家』は言う。「これでも小説なのか!」

 この章に自分は、『彼』の持つ小説への愛を感じた。そして同時に既存の小説への窮屈さをも感じさせる。小説の基本は起承転結だとよく言われるが、この霊山という本にそれを探すのはとても難しいことのように思う。この作品は、基本に沿って書かれた訳ではないのだろう。『彼』が語っているように、小説とは本来自由なものだったのだろう。しかし現在、その自由は殆ど失われている。それはあたかも、ピカソの絵に「子供の落書きと変わらない」という評価を与える事のようだ。もちろん現在ではピカソの絵は「芸術」であり、霊山は「文学」である。しかしそれは、きっと多くの人には理解されていないのだろう。

もし霊山がノーベル文学賞を取らなければ、幾人かの批評家はこれを「筆者は小説が何かもまだ知らない」とでも評価していたかもしれない。

 小説は自由である。しかし、自由奔放に何の計算も無く書かれた小説が評価されることはまず無い。そのために小説家は様々な技法を凝らすのだが、それが過剰であること、それが当然のように扱われていることに『彼』は不満を持ち、疑惑を抱えているのだろう。

 第七十二章は「この章は読んでもよいし、読まなくてもよい。読んだとしても、それだけのことだ」と締めくくられた。第七十二章はきっと、他の章よりも作者の独り言に近いのだろう。この章の『彼』は著者である高行健そのものなのだ。対する『批評家』は世間一般の認識のように感じられる。

 この作品の原点は、あるいはこの章にあるのではないだろうか。

 

3、考察

 霊山の各所に描かれている辺境の風土、逸話、伝説。それらはどれも魅力的で、時に難解だが、しかし非常に興味深い。めまぐるしい場面転換等、読者に読解力を強いるが、それすら楽しいと自分には感じられた。移り変わっていく物語は飽きを感じさせず、現実から空想、過去から未来、生者の世界から死者の世界へと広がっていくこの作品には軽い目眩のようなものすら感じられた。

 そして、自分はこの霊山という作品が著者である高行健そのものをテーマにした小説ではないのか、といったことを考える。

『おまえ』と『私』の視点から語られる、様々な出来事。

 二つのストーリーを追いかけて、読み進めていくうちに見えていくのは語り部、つまり筆者の哲学や、苦しみ、認識、それらを全て含んだ精神世界だ。

『おまえ』という二人称や移り変わる視点に、読めば読むほど引き込まれる。そして読んでいる自分を『おまえ』や『私』に重ねるのであろぅ。どんな小説にも感情移入というものがあるが、霊山はそれが顕著だった。まるで自分が霊山を求めてさ迷い歩いているようなのだ。

 

4、まとめ

 霊山という作品には、二つの読み方があるように思う。

 一つは『おまえ』と『私』に自らを重ねる読み方。そしてもう一つは、『おまえ』と『私』を通して高行健の精神世界を感じる読み方だ。読み手は大抵、そのどちらも体験するだろう。前者では読み手が場所としての霊山を捜し歩く。後者では、読み手は著者の精神世界を歩く。その精神世界もまた霊山であると言えるかもしれない。そして、『おまえ』と『私』は同一人物なのである。『おまえ』と『私』は同じく筆者の分身なのだ。

 霊山という作品は、あまりにも複雑であまりにも広大だった。これは小説であるようにも、著者自身であるようにも見える。しかし、素晴しい作品であるのは間違いないだろう。こんな感動を与えてくれた著者に感謝をしたい。

 

参考文献:

1.愛知大学現代中国学部 2006年 ハンドブック中国 あるむ

2.集英社出版、飯塚 容訳 『霊山』

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中国の年中行事について

経営学部国際経営学科1年 古橋佑太

                            キーワ-ド:春節 元宵節 清明節 端午節 中秋節

1.     はじめに

 中国では、正月というのは春節を指していて、太陽暦の正月は、正月とは思われていないそうです。正月の行事も近代化の波を受けて変化が激しく、元々は一家全員が一堂に会して新春を祝うということでしたが、最近では春節休みに旅行に出かけるというようなスタイルの変化があらわれています。一人でも正月にかけると縁起が悪いという思想は、すでに稀薄になっているそうです。

 

2.     春節(1月1日)について

日本の正月と同様、中国最大の行事です。「春節」の日の早朝に第一にやることは先祖を拝むことであり、たくさんのお供え物を準備し、先祖を拝み、次に神を拝み、最後に順序に従って年長者にご機嫌伺いをしてお辞儀をします。そのあと、近くの寺や廟へ初詣に行ったり、親戚知人の家へお年始回りに行ったり、遊びに行ったりします。また、どの家でも「春節」に爆竹も鳴らします。爆竹を鳴らす理由は災厄をお祓いするためなのです。また人でにぎわう都会から人里離れた村に至るまで、龍の舞や獅子舞などのいろいろな催しが行われます。つまり、中国の「春節」は喜びにわきかえる祭りなのです。

 中国では、家族円満の意味をこめて白玉団子のお料理を食べたり、長寿を祈って「長寿麺」という麺を食べるところもあります。また、縁起担ぎの食べ物としてかかせません。家族で1年の無事を祈りながら包み、茹でて食べます。餃子のひとつに小銭を入れ、それを噛み当てた人は幸運という占い遊びもあります。

 テレビでは、8時からは、中国中央電視台(中央テレビ、CCTV)の「中央聯歓晩会」という日本の紅白歌合戦のような番組が始まり、家族揃ってテレビを見ます。この視聴率が94%、推定5億人が見ているそうですから、日本の紅白とはだいぶ違います。

 お年玉は、その年1年を精一杯生きる活力を生み出す手形、年神から与えられる魂のことで、厄よけ幸運の赤い袋に入っていて、日本のお年玉のポチ袋より、ずっと豪華です。

 

3. 元宵節(1月15日)について

 この日は提灯に灯をともして飾るので、「燈節」ともいわれています。元宵節は漢代に始まりました。この夜は、提灯に灯をともさない家はなく、人々の集まる場所では、必ず大きな「花燈会(ランタン・フェスティバル)」がというのが催されます。「花燈会」を盛りあげるために、花火を打ち上げたり、「猜燈謎」という謎解きの遊びが行われたりもします。また、「元宵」というのは、中に胡麻・ピーナッツなどの餡の入っているもち米のだんごで、ゆで汁に浮かべて食べたりするので「湯圓」ともいいます。一人も欠けることなく一家団欒できるようにとの願いをこめて食べるのです。

 

4.     清明節(3月3日)について

 清明節は、お墓を清め、祖先を供養する日です。魏(220~265年)・晋(265~420年)の時代に、旧暦の3月3日と定められました。近年になって、清明節の祭日を統一するために、新暦4月5日に改めました。清明節は、祖先祭祀の行事として根強く継承されており、華僑の墓参りも盛んです。主な活動は、大人も子供も家族みんなで祖先の墓へ行き、線香をあげ祖先を供養することです。墓参りのついでに、草むしりをしたりして墓を清めます。ゆえに清明節は掃墓節とも呼ばれています。

 

5. 端午節(5月5日)について

端午節は、春秋時代の詩人屈原を記念した祝日で、邪気を払うために門に菖蒲を飾ったり、チマキを食べたりする節です。チマキを食べる習慣の由来は、国と民を憂い、河に投水自殺をした屈元の体を魚に食べられないように、彼を慕う人々がチマキを川に投げたことが由来なのです。また、龍船祭りというレースが行われています。

 

6.     中秋節(8月15日)について

 もっとも優雅でロマンチックな祭日です。中秋節は月を祀る日で、中国の民間では、「土地公」と呼ばれる土地の神様の誕生日でもあります。一般の人々は、天(月がその象徴)と地(土地公がその象徴)に感謝し、この日を楽しく過ごすのです。中国人は、月の神に加護を祈ると家族円満幸せになれると信じていて、中秋節に月餅を食べることになっています。理由は、月餅は家族円満の象徴だからです。月餅以外にも「抽子(中国語ではブンタン・ザボンの意)」を食べます。なぜなら、月にご加護を求めるという意味でだからです。中秋節は、いたるところでお月見をする入が見受けられます。この日の月は一年中でもっとも美しく、恋人たちもこの日にデートしたいと思っています。「月が丸いように、ふたりの仲も円満であるように」と願うからです。中秋節は静かで優雅な雰囲気で、ほかのにぎやかな行事とはかなり趣が違います。

 

7.     日本と中国のお正月について

日本のお正月:世界のお正月を見てくると、唯一共通しているのが、新しい年を迎えて、新鮮な気持ちになって、今年の決意をし、新しい希望や願いを祈って、みんなで楽しむということだと思います。 また日本のお正月がかなりユニークな方ということが分かります。日本のお正月の行事は、「神道(しんとう)」色の強いものです。神道は日本土着の宗教ですが、信仰というより文化、習慣に近いので、あまり宗教心のない日本人も、お正月には「神社」へ初詣に行きます。神道は天皇家のご先祖だと言われている神様たちへの信仰ですが、この八百万(やおよろず)の神々というのは、元々アニミズム的な自然崇拝、つまり自然界の諸々の物には神様がいる、という考え方なので、神道は自然に感謝し、五穀豊穣を願い、お正月もその年の豊饒を約束する「年神様」をお迎えする行事でした。また神様をお迎えするわけですから、1年の汚れを取り除き、清浄な環境を整えたりもします。

神道では、禊(みそぎ)とかお祓い(おはらい)とかが重視されますが、穢れを取り除く、というのが大切な考え方です。清浄にしたあとは、神聖な領域を囲うための「しめ縄」を飾り、三種の神器「八咫鏡(やたのかがみ)」の形の「鏡餅」をお供えします。そして、お招きする年神様の依代(よりしろ)、目印として「門松」を立てます。昔は松には限らず常緑樹でした。しかしいつの頃からか、松が使われるようになって門松と呼ばれるようになりました。日本のお正月飾りも昔に比べると簡略化されてきているのでしょうが、それでも年末が近付けば、デパートはお歳暮商戦、スーパーの特設売り場には鏡餅やしめ縄飾りが並んでいます。

 

8.     日本と中国のGWについて

 日本のGWは5月3日から始まります。しかし、中国のGW『黄金周』は1年に3回もあります。まず1回目は旧暦のお正月である春節。日本にもお正月はありますが、日本のお正月はGWではありません。2回目のGWは日本と同様5月にあります。中国は5月1日から始まり日本では5月3日からです。またこの時期のGWは中国が日本の真似をしたそうです。そして3回目は10月1日の国慶節です。中国は旧暦の陰暦の祝日と太陽暦の祝日の両方あり、国慶節は太陽暦の祝日で一番大きなものです。またこの日は中国共産党による中華人民共和国の成立記念日なのです。

 

9.     まとめ

日本のお正月と中国のお正月は似ていると思うけど、まずお年玉の袋に差があるとは、思ってもいなかったし、また、日本では紅白歌合戦が行われているけど、中国にもそういう似た番組がやってることも知らなかったし、そこで驚いたの視聴率に驚いた。日本の紅白は大体40%ぐらいに比べ、中国では94%なので、そうなると中国人の大半の人が見ているってことに驚きました。また日本にはGWが1回しかないのに、中国には3回あることにも驚きました。正直、GWは1回あれば充分なんじゃないのかな?って思いました。

 中国のことを調べていて、とても楽しく感じました。やっぱ国によって年中行事が違うってことが改めてわかりました。

 

参考文献

1.     http://www.silkroad.ne.jp/tianjin/bijiao/%94N%92%86%8Ds%8E%96/%92%86%8D%91%93`%93%9D%82%CC%94N%92%86%8Ds%8E%96.htm

2.     http://homepage2.nifty.com/folkasia/folk/aevent3.htm

3.     http://www.arachina.com/tips/tips11.htm

4.     http://www.d1.dion.ne.jp/~kalinka/china/colum/colum1/kokkeisetu.htm

5.     http://www.fdnet.info/archives/50295239.html

6.     http://www.printo-iso.com/library/world11.html

7.     http://www.printo-iso.com/library/world9.html

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中国の食文化について

―地域による違いを中心に

法学部現代社会法学科1年 松浦正季

       キーワード:四川、北京、広東、上海、福建

1、中国料理について

 〈特長〉

①いずれの料理にも動植物脂肪を使用するが、使い方が巧みで油っこさを感ぜず、脂肪が強化され、また植物性食品を主にした炒め物などにも蛋白質が含まれ、鳥、肉、魚などのから揚げなど、豊富な栄養摂取により脂肪、カルシウムなどを補う事が出来る。

②中国料理は特殊材料理以外は、生のまま食べる事は少なく、ほとんどは加熱して用いられる。炒め物などは高温でできるだけ短時間に処理される為に、ビタミンCが破壊されずにすむ。

③食油によって、ほとんど調理されるので、スープと食油が分離しやすいが、水ときのデンプンを加えとろみをつけるにことよって,水分と食油が融合して、材料のもつ栄養分と、自然の持ち味の流失を防ぐ。また、デンプンによって料理の舌触りが滑らかになる効果もある。

④中国料理の共卓法は、大皿の一皿盛りなので、手間、皿数などの無駄がなくてすむ。材料も1羽の鳥、1尾の魚でも、あますことなく合理的に処理する。皿数が少なく済む為に、したがって後片付けも、簡単で、時間的にも経済的といえる。

⑤中国料理は乾物類が多く使われるが、ツバメの巣、ふかのひれ等の著名な特殊材料だけでなく、一般材料も乾燥して、保存され、いつでも四季の必要に応じて使え、非常に便利で、その調理応用にすぐれている。

2、四川料理について

 西部の揚子江上流地域の山岳地帯であり、雲南、貴州地方とともに、冬は寒冷で、夏は暑い所です。海産物を使用した料理は少なく、肉類や川魚、野菜の料理がメインです。冬は寒さが厳しく、体を温めて発汗作用のある、ニンニクや唐辛子を使ったスパイシーな味付けが特徴。そのほかにも、トウバンジャンやチーマジャン等、色々な調味料や香辛料が使用され、濃い目の味付け。
代表的な料理はエビチリソース、麻婆豆腐、回鍋肉(ホイコーロ)、棒棒鶏、*担担麺など。

3、北京料理について 

北部の黄河流域の地方を代表する料理。首都北京の宮廷料理を中心に発達した料理の1部がその形態を留めているが、本来は山東料理で、山東人の手によって宮廷料理という風格のあるものを創造したと言われる。北京地方はごく北方なので、非常に寒冷のため高カロリーが要求され、脂肪の多い料理即ち炒め物、揚げ物など火力の強い熱度をもって短時間に調理するのが特徴で、子豚、鯉、鴨など全形料理が特に発達している。この地方は米産が少なく小麦の生産が発達しており、自然に麺類、饅頭餅などの粉製品を多く主食とするのが習慣。そしてイスラム教徒の影響で羊肉なども使用。
代表的料理は北京ダック、水ギョーザ、ホーコウツ(羊肉のシャブ、シャブ)etc

4、広東料理について

 南部地方の代表的な港町で暑熱がきびしい。しかし豊富な産物を有し料理も幅広く研究されている。昔から「食は広州にあり」といわれるほど、あるとあらゆる食材があり、へび、白ねずみなどいかもの料理なども著名である。
又、それにつれて調理方法も発達。香港に近いこともあり欧州の影響もあり、ケチャップやカレー粉を使用した料理も多く見られる。飲茶が盛んで、点心類も豊富。味付けそのものはサッパリ系が多い。

代表的な料理はスブタ、蠣油牛肉(牛肉のカキ油炒め)など。

5、上海料理について

 東部の揚子江下流地域の、上海、蘇州、揚州、杭州の各都市で発達した料理。海が近く、又,川、湖も多く魚介類料理が多い。特に有名なのは上海蟹。気候的に恵まれて料理の種類は豊富。米の産地でもあり、米を主食とした料理が多く、そして醤油の産地でもあり醤油味が多いのも特色。味付けそのものは、甘辛く濃い目の味付け。他の地方の料理に比べ油の使用量も若干多め。
代表的な料理はトンポーロ(豚角煮)、油林鶏(鶏の丸揚げ香味ソースかけ)、蠣油鮑魚(アワビのオイスターソース煮)など。

6、福建料理について

 亜熱帯に近い暑気のきびしい南中国にあたり、自然料理の味も淡白で、日本人の嗜好に適している。野菜、魚介類の調理はたくみで、野菜のみの原料で鯉の丸揚げ、エビの料理などと錯覚させるほど見事な料理を作る程、料理技実が、発達している。魚も日本の刺身に近い魚生(ユイション)料理があり、主に、貝類、すっぽん、えび、蟹料理、鍋物などに特色がある。

7、まとめ

 地域によって気候・環境に対応して生活していく為に調理方法が考えられていた。不足する栄養素をできるだけ摂るために地域によって違いが表れていた。日本では、地域の特産みたいなものをおいしく食べる為に調理方法が考えられている。中国では、これしか食材がないというところから、いかにして多くの栄養を摂れる食事にするか考えていると思う。

 参考文献

http://www.wa.commufa.jp/~dancho/ryouri.htm

吉田実著『日中報道 回想の35年』潮出版

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中国宗教の歴史

法律学部現代社会法学科1年 川端徳久

キーワード: 道教 成仙不死 神霊位業図 現在の道教

1.はじめに

私は春学期中国宗教の歴史についての全体の歴史について調べました、今回はその中でも中国の宗教である道教について深く調べてみようと思います。

道教は、キリスト教、仏教などと異なり教祖一個人が創立したものではなく。成立初期には多数教団が乱立し、南北朝時代に仏教との拮抗によって初めて道教は「道教」と呼ばれました。

 

2道教

道教そのものの最初の教典は、後漢の「太平経」でありこの書物は太平道、五斗米道(それぞれ三国志の「黄巾の乱の張角」と、「蜀の張魯」)等に影響を与えています。紀元前三世紀~紀元3世紀の時代の道教の教団はそれぞれ別個独立に成立し、相互に関連を持っていません。この「太平経」は皇帝が国を治めるのをどのように援助するか、どうしたら太平の世が訪れるか、という点に中心があり、成仙不死にはほとんど注意を払っていませんでした。

 

3.成仙不死

3世紀~6世紀の時代は、道教が現在の形となった時代です。道教は「世をすくい太平をもたらすもの」から「化仙し不死を得るもの」へと変化しました。これにより下層部が武装蜂起に走りがちで統治者から敵視されていた道教は、封建体勢にとって適合的なものとなり。葛洪、西晋の時代、三世紀後半の人「抱朴子」を著述して煉丹学に大きく貢献し、道教が政治色を帯びることを好まず、儒家君臣父子秩序に反せず、封建統治を損なわない神仙道教理論をうち立てました。

 

4.神霊位業図

寇謙之、4世紀後半、北魏の人彼は天師道(五斗米道と同じ)の指導者として教団の改革を行い、皇帝権力との関係を結びました。陸修静、5世紀、晋代の人道教教典を整理し、新しい道教の戒律と儀式執行手順をまとめました。陶弘景、南朝の人、5世紀彼は信仰の対象としての神仙の席次を定め、信仰体系を確立した。「神霊位業図」における神界の7層構造は、人間世界を反映したもので、彼は、神仙の等級分化を理解すれば現実の貴賤の別を受け入れられるとして、封建制度を合理化するのであった。その目的は、道教をよりいっそう統治者に役立たせることでした。隋代の統冶者は道教をもり立てて継承発展させ、唐代には道教は国教となりました。

 

唐代の道教は、以下の三点で皇帝に奉仕したそうです。

  A論の形成
すなわち隋末に、「誰々に天命が下った」などの流言をばらまき、李氏の天下掌握を補助。

B.法要を行い、国家及び皇族の長久を祈る。統治者の神格化には、厳格な儀式が多いに役立ったようです。

C.皇帝への養生法の提示。これが唐代の道教の最大の特徴です。

11世紀から14世紀の宋王長は国力弱体で周辺異民族に対して常に劣勢に立たされており、続く元王朝は征服王朝で、動機は違うが民心掌握の必要性を持った両王朝では、その政治的目的達成のために道教が積極的に利用されました。

 道教は仏教から、儀式経典などを吸収し、そして儒教からは「忠孝仁義」という学説をそのまま取り込みました。金元時代の全真道は、出家修行と世俗の忠孝仁義の結合を提唱し、心を清くして自己の本姓を見つめることを「真功」、君主への忠義と親への孝行を「真行」とて、この二者がいったいとなって初めて得道成仙できると説きましたが、これでは実際的に儒教とあまりかわりません。儒学と仏教はほとんど道教から思想的に吸収したものがないそうです。

 

5.現在の道教

文化大革命以前から道教は迷信として攻撃され、戦争中には仏教の寺院に相当する道観の多くが兵舎など別の施設に転用されました。また、中華人民共和国の成立後は道観の所有地が最小限に縮小され、道士や女冠は布教を禁止されて自活を要求されていたため、存続も危ぶまれる状況だったようです。しかしその後、主要な道観については国が修復し、運営に必要な費用も国費でまかなわれるようになってきたそうです。現存の宗派は全真教と正一教(天師道)のふたつだけで、浄明忠孝道や上清派(茅山派)、武当派などは正一教に合併されたそうです。

 

6.まとめ

私は道教を調べたことで中国の政治の今までの流れやいろいろなことをわかったきがします。なかなか理解できなかったことも多々ありますが、宗教の歴史について最初はちょっと選択を失敗したかなと思いましたが調べていくうちによく分かりませんがたのしくなりましたうまくはまとめれてないかもしれませんが自分なりにがんばってみました。最後に宗教の歴史はなかなか興味深くおもしろかったです。

 

参考文献

1.http://heianjiten.fc2web.com/doukyou.htm

2.http://homepage3.nifty.com/juroujinn/doukyou.htm

3.http://www.pp.iij4u.or.jp/~ka-tana/s_dokyo.html

4.日中報道一回想の三十五年 著者 吉田 実

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中国の国画について

水墨画を中心に

経営学部経営学科1年 高橋玲奈

キーワード      国画  水墨画  雪舟

1.はじめに

中国の絵画芸術は,もしも原始時代の岩画や土器上に描かれた図絵までをも含めるならば,その歴史は五千年~数万年の遙かな昔にまで遡ることができる。国画は中国の伝統的な絵画の総称で,それは中国の民族文化を映しだして,その特異な風格は世界の絵画美術領域の中においても,他とは違った独自の独立した体系を形成している。国画の体系は,描かれている内容からは大きく人物画山水画花鳥画の三つに分類されている。またその技法としての面からこれを分類するならば,大きくは工筆画写意画鈎勒画設色画水墨画に分けることができる。この中国の国画の歴史を簡単に概括するならば,人物画は戦国時代から徐々に成熟してきて,漢魏晋南北朝時代には大量の人物画が描かれるようになった。また山水画と花鳥画は,漢魏晋南北朝時代には人物画の付属的従属的な存在として描かれているにしか過ぎませんでしたが,隋唐時代以後は独立した芸術境界を具えるようになり,数多くの画家の重視するところとなってたくさんの作品が描かれるようになった。

 

2.  水墨画とは

墨色の濃淡の調子によって描く絵で、中国では山水画を中心にして唐代中期に起こり、五代・宋以降に栄え、日本には鎌倉時代に伝わり禅宗趣味と関連して行われ、室町時代に最も栄えたもので、雪舟などによって日本の湿潤な風土に合った「日本水墨画」が完成したと言っていいだろう。近代以降の水墨画は西洋画の技法が大きく影響し、かつての水墨画とはずいぶんと違った方向になっている。

墨の濃淡・明暗・潤渇をもって森羅万象を表現する絵画」それが水墨画である。

水墨画技法には、

直筆法 筆管を垂直に立て、双鈎法で筆を持ち、縣腕で描く作画の技法

側筆法 筆管を倒し穂の腹部を用いて作画する技法。付立法(つけたて)ともいわれる。

「三墨法」の調墨した筆をよく使用する。

鈎ろく法 線による輪郭描きで物の形象を表現する技法。線の濃淡や強弱、肥痩などによって、絵柄のよしあしが決定される部分が大きい。墨線の種類には「十八画法」あるといわれる。鉄線描・釘頭鼠尾描・柳葉描など。

付立法 付立法とは没骨法の一種で、輪郭線を用いずに墨の濃淡だけで表現する技法。

その他にも、さまざまな技法がある。

 

3.  中国と日本の水墨画

唐の時代,中国大陸の北部華北の気候は厳しく,その風景は荒れている。そこで生まれた水墨画を北画と呼ばれるが,風土の影響を受けて強い筆力で山骨を鋭く表現するという厳しい迫力に満ちている。
南宋の水墨画は南画と呼ばれるが,その特徴は濃淡の変化に富む潤いのある柔らかさである。
水墨画の世界に一大革命をもたらした南画の背景には,南宋の地理的条件が大きく反映している。
南宋は中国南部の江南という地方で、豊かな太陽の光,青空に浮かぶ白雲,水気に潤んだ山野の緑に溢れる地である。湿潤な気候の中で霞や雨も多く,「暈しボカシ」の技術にみるような独特の世界を拓いていった。中国の水墨画は墨汁の黒のみとは限らず、切り絵と同様鮮やかな色彩を持つものも多くある。

日本の水墨画は中国画の受容から始まったもので、本格的な水墨画作品が現れるのは13世紀末頃で、水墨画が盛んになった要因としては、日本と中国の間で禅僧の往来が盛んになり、宋・元の新様式の絵画が日本にもたらされたことが挙げられる。13世紀になり、中国禅僧が相次いで来日し、彼らは絵画を含め宋・元の文物や文化を日本へもたらした。

日本の初期水墨画は絵仏師や禅僧が中心となって制作が始められた。水墨画の画題としては、頂相、祖師像、道釈画(道教および仏教関連の人物画)、四君子(蘭、竹、菊、梅を指す)などが主なものである。なお、水墨画と禅宗の教義とには直接の関係はなく、水墨画は禅宗様の建築様式などと同様、外来の新しい文化として受容されたようだ。

室町時代に日本水墨画の全盛期を迎え、足利家が禅宗を庇護したこともあり、禅文化や五山文学が栄え、足利家の寺である京都の相国寺からは如拙、周文、雪舟をはじめとする画僧を輩出した。8代将軍足利義政は文化の振興に力を入れ、唐物と呼ばれる中国舶載の書画、茶道具などを熱心に収集・鑑賞した。当時の日本で珍重されたのは、中国・南宋時代の画家の作品で、夏珪、馬遠、牧谿(もっけい)、梁楷、玉澗(ぎょくかん)らが特に珍重された。牧谿、梁楷、玉澗などは中国本国よりも日本で評価の高い画家である。

15世紀の後半には、水墨画家としてのみならず、日本絵画史上もっとも著名な画家の一人である雪舟(1420 - 1502/1506)が登場する。雪舟は中国絵画の影響を消化しつつ『天橋立図』のような日本の実景を題材にした独自の水墨画を制作した。

 

4.  夏珪について

中国南宋の後期(13世紀初頭)に活躍した画家で生没年不詳。字は禹玉,銭塘(浙江省杭州)の人。きわめて滋潤な水墨を用いて山水を描き,李唐よりのち第1と称され,また李唐・劉松唐・馬遠とともに南宋四大家と呼ばれた。その画風は,対角線構図法により余白を大きく取るなど南宋院体山水画様式の枠内にあるが,繊細な色彩法を駆使する同時代の画院画家のなかにあって,微妙な墨の階調のみによって山水を描くこと,画中の人物への過度の感情移入を避けることなどに特色がある。彼の,あるいはその亜流の作品は,室町時代の日本絵画に多大の影響を与えた。水墨画には,雪舟をはじめ夏珪の感化の及んでいるものは多い。  

 

5 まとめ

中国の国画には様々な分野があり、その中でも水墨画にはとても興味や関心を持ちます。何と言っても、墨の濃淡によってその風景や作者の心を表していると言うことはとてもすごい事だと思いました。そして、水墨画の世界は白と黒でできているイメージがありましたが、中国の水墨画は色鮮やかなものもあり、輪郭を墨で描きそこに色を付けるということを知り、水墨画は奥が深いと思いました。

中国で栄えた素晴らしい文化が日本に伝わり多くの日本人画家によってまた広められました。そして今では日本に留まらず様々な国で水墨画の魅力に引き付けられる人が多くいることは、本当にすごい事だと思いました。まだまだ水墨画の素晴らしさを知り、他の中国の文化にも目を向けて中国のことをより知りたいと思いました。

 

参考文献

1.「現代中国の文化」 著者:孫 玄齢  発行日:2005610日  出版社:明石書店

2.古代文化研究所: http://www7.ocn.ne.jp/~kodai-bk/dz.html

3. 水墨画用語集:http://www.hpmix.com/home/siseki/sizuki/C3_1.htm

4. 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』:

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%A2%A8%E7%94%BB

5. 夏珪:http://www.tabiken.com/history/doc/D/D129L200.HTM

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中国の美術について

経営学部経営学科1年 山中稔仁

キーワード:雲崗・龍門・敦煌

1.雲崗石窟

中国の雲崗、龍門、敦煌という都市には「三大石窟」という有名な仏教遺跡があります。これは紀元460年から約70年間続きました。この石窟は、山西省の田舎街大同郊外の武周山に彫られています。東西1km、おもな洞窟は53窟、彫像はなんと51000もあるといいます。付近は砂漠で日のある時間帯はとても暑いが、その分石窟内の涼しさがありがたいそうです。彩色の美しい「五華堂」や、雲崗石窟のシンボル・第20窟の仏像を含む「曇曜五窟」がみどころだそうです。仏像の顔はどれも優しく親しみやすい感じです。

 

2.龍門石窟

9つの王朝が都をおいた古都・洛陽からバスで数十分であり、ここも北魏が造営を始めた石窟です。バスを降りると、とても懐かしい雰囲気がします。それは、遺跡の横をゆったり流れる伊河から来る湿気と風と、周囲の青々とした山から響いてくるセミの鳴き声のせいです。ここは雲崗石窟よりもさらに広そうだが、石窟や仏像は小ぶりのものが多く彩色も華やかではありません。窟内に入って鑑賞するのではなく外から見るものがほとんどで、暑いそうです。しかし遺跡の中ほどに「ドン」と構える奉先寺への階段を上がっていくと、美しく巨大な「るしゃな仏」や力強い力士像がそびえ立つのが見え、圧倒されるのです。そして川の対岸から遺跡全体を眺めることができるのも、龍門石窟の素晴らしい点だと思われているそうです。初唐期の則天武后の面差しをまねて造られたという奉先寺洞は、この龍門の固い岩盤をくりぬいて造ったと云われています。則天武后の顔立ちは後生まで伝えられ、私たちの眼にふれています。

 

3.莫高窟

この遺跡は中国三大石窟のなかでも一番重要な扱いを受けていて、シルクロードの都市として日本でも有名な敦煌にあります。旅行者が敦煌に来れば必ず行くところです。砂漠の真っ只中という乾燥した場所にあり、かつイスラム勢力の破壊を免れたので保存状態が極めていいそうです。しかし、同じくシルクロードの要衝・トルファン郊外にあるベゼクリク千仏洞はイスラム教徒の破壊や探検隊の略奪に遭い、見るかげもなかったそうです。遺跡は自分で自由に見て回れるのではなく必ずガイドにつき、ガイドが鍵で開けた石窟を見ることになっています。そしてガイドは数種類の言語から選べます。壁画や仏像は鮮やかに彩られ、保存状態がいいためにかえって新しくけばけばしく見えたりもするそうです。そうは思ってもさすが名だたる莫高窟であり、その美しさは上の二つの石窟を抜きんでています。さらに「特別窟」という別料金が必要な石窟も13ヶ所もあります。           

私は中国に行った事がないのですが、このような有名な石窟があることを知り是非見てみたいなと思いました。旅行者の観光名所という事で中国の事を何も知らなかった私としては少し興味が持ててよかったです。

 

4.中国の現代版画

 2001年秋、日本の京都、松山で開催された「日・中国際版画展」は新世紀を迎え日本と中国の版画芸術交流の序幕となりました。両国の代表的な版画芸術団体が企画したこの展覧会は、約2年の準備で中国側90点、日本側150点の中堅、若手作家中心の作品が集められました。

 中国の版画は1980、90年代から芸術的思考、概念を様々な方向に展開しつつ発展してきました。版画家たちは新しい考え方に力を注ぎ、現実社会を観察し、現代文化を理解して、個人の創作と体験、そして想像力に心を配り、常に創作の領域において真実の表現と昇華を求めようと努力しています。作品に内在する質と形式は日々変化して、現代性、民族性そして個性が今日の中国版画発展の趨勢となっています。

 版画芸術の現代的発展には素晴らしい条件が中国には備わっています。中国では1950年代から何十もの芸術系大学に版画学科が設立され、数多くの人材を育ててきましたが、現在版画創作の領域で活躍する数千人の中堅、新鋭版画家のほとんどが、これらの教育機関において版画の専門教育を学んだ人々です。各芸術大学、省、市美術家協会、画院、版画院、芸術館などの文化専業団体に所属する作家たちは数多く、高いレベルを保つと共に、良好な創作環境に恵まれています。国内では2年に一度、全国版画展と国際版画展、5年毎には全国美術作品展が開催され、さらにさまざまな規模の国内外の版画コンクールが彼らに多くの発表機会を与えています。版画の民間団体、学術交流活動そして版画書籍の出版活動によって、今日中国版画の歴史は最も繁栄した時期を迎えていると思います。   

 

5.まとめ

今回この中国文化事情の授業で中国の事をいろいろ学びましたがレポートとして美術の事も少し知ることが出来、勉強になりました。日本にもあるように中国にも有名な遺跡や版画があるけれど、日本とはまた違った良さがあり日中の交流を通してお互いに文化の交換をしてより国と国との関係を深めていってほしいなと思います。

 

参考文献

.http://www48.tok2.com/home/sawakon/1-02Asia1/china03.htm 

2. http://www.art-japan.com/print2001/china.html 

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中国の絵画―人物と技法 

経営学部経営学科1年 水野 誠也

キーワード :斉白石 中央美術学院 国画 近現代美術 水墨

1.はじめに

 私は大学に入学して、中国文化事情という授業を履修しました。授業で斉白石についてパソコンで検索しました。そのときに見た水墨画の「発財図」や蟹や蝦に興味をもちました。墨の濃さと筆の微調整で描く水墨画に感動し、その歴史や、どんな人物がどのような絵を描いたのか知りたいとおもいました。

2.主な美術家

2.1斉白石(18631957

左の写真は斉白石の肖像画です。湖南省湘潭に生まれ、中国では「画家になった大工さん」としてよく知られています。1919年文人画を志し、売画や、篆刻で生計を立てていました。1949年建国以後、中央美術学院名誉教授などを歴任しました。庶民的な画題を取り上げて、民衆の本音に近づき多くの人々に親しまれました。

画・「数子図」

 

                    

2.2除悲鴻(18951953

左の写真は除悲鴻「牧馬圖」です。除悲鴻は、中国の近現代美術史史上もっとも権威のある画家の一人です。江蘇省宣興に生まれました。南京の国立中央大学教授、そして北平芸術学院を創設しました。中国近代絵画や個展を開催し、国際交流にも活躍しました。斉白石・李樺・呉作人・葉浅予・李可染などのすぐれた人材を抜擢して、新中国の芸術教育の基礎を確立しました。現代西洋絵画のマチスやピカソを否定し、徹底した古典的な写実を要求していました。自らの作品では、油画・国画両方知られるが、晩年は公務に追われたため、油画作品より手軽な水墨がおおいです。

2.3李可染(19071989) 

右の国画は「栄宝斎画譜山水部分」です。李可染は江蘇省除州の生まれで、貧しい家庭に生まれました。1923年に上海美術専科学校に入学。卒業後に小学校の図画教員となりました。そして、杭州・国立西湖芸術院の研究部に入り、フランス人画家に師事して油画を学びました。1946年、除悲鴻に招かれて国立北平芸術専科学校で教えるが、国画の大師である斉白石らに10年にわたり師事し研鑽を積みました。建国後は中央美術学院教授になり、1981年には、中国画研究員初代院長に就任しました。李可染は油絵から国画に移った画家で、西洋絵画の明暗技法を吸収して、独特な山水画をきづきあげました。李可染独特の構成力のしっかりした画面は継承・発展させました。筆墨に重点をおいた「黒い山水」転じる。現代中国では、もっとも評価の高い国画家の一人です。

3.技法の紹介

3.1熟絹礬法

紙に画くのは難しく、絹に画くには、礬水(どうさ)をうまくほどこせば、著筆するにも色を用いるにも好く、見た目もよくなります。好い絹を霧吹きで湿らせ、石の上で眼匾を叩き平滑にします。そうした後に絹を枠に貼ります。礬水の法は、春秋の膠と明礬の割合を標準とすれば、夏には膠を多く明礬を少なめに、逆に冬には明礬を多く膠を少なめにします。

3.2筆墨法

山水の用筆法を「筋骨相連」といいます。「有筆」と「有墨」の区別は、描いた筆跡を模糊とさせぼかすのを「有墨」といい、水筆にもかかわらず描線を乱さず線がはっきりしているのを「有筆」という。これは画家にとって重要な事であり、山石樹木ともにみなこれを用います。作画において用墨が最も難しい。まず淡墨を用い重ねていきます。適当なところまで重ねた後に、焦墨や濃墨を用いて道筋や遠近を画き分けます。そうしていけば生紙(加工していない紙)の上にはかなり墨のにじんで潤った所ができます。「李成は墨を惜しむこと金の如し」というのはこのことです。

 

3.3著色法

董源の土坡の麓には砕石があることが多く、それは建康(南京)の山の勢を描いたものです。董源の石は麻皮皴によっています。土坡の麓はまず側筆で辺の「皴」を画き、しかるのち淡墨で深く凹んだ個所を破ってくまどります。著色の方法もこれと大差ありませんが、石を著色するには色を重ねて重くします。画石の妙は、藤黄(植物性顔料、ガンボージ)を溶かした水を墨筆に混ぜて使った時の自然な潤った色にあります。しかし多くは用いないように。多くすると筆が滞ります。時に螺青(植物性顔料、藍)を墨に入れると、また妙になります。石に淡い色をはく(呉装、呉道子の人物画法)のは見た目によく、墨に「士気」を生みます。著色は、螺青を石の上にはらい、藤黄を墨に混ぜ樹を画くと、甚だ色が潤い見た感じがよくなります。

3.4画山水

山頭には起伏と転換が必要であり、山脈はみなそれに順っています。これが山を活き活きと描く方法です。衆々の峰はたがいに御辞儀し合うようであり、万の樹木はあい従いあたかも大軍を領卒する如く、森然として犯すべからざる景色があります。これが真の山の形を写すことです。一木一石を画くにも、墨を自由に逸脱して用い、「士気」の気風があるようにします。しかしそれが少しでもわざとらしくなればただちに画工の流に陥ってしまいます。

4.まとめ

このように中国の国画にはいろいろな人物がかかわっており、そして発展し、継承されてきました。今日でも昔の人物の国画はとても高い評価を受けており、そしてその技法までも継承されています。さまざまな国との交流を経ての発展だと思います。国画とは長い月日をかけ、積み重ねで出来たとても尊いものにかんじました。一色で描かれている国画には、様々な技法が使われ、見る人に感動を与えるとてもすばらしいものです。

参考文献

1.「現代中国の文化」 著者 孫 玄齢 藩 世聖 

2.写真 1・2・3

http://www.soyi.co.jp/ART/ChinaArt50.html

3.写真 4

http://www.perinet.co.jp/tousai/0104/asian0104.htm

4.技法の紹介の一部

http://www.linkclub.or.jp/~qingxia/cpaint/cpaintxie.html

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中国の近代の演劇について

経営学部経営学科1年 中村美里 

キーワード:京劇 四大名旦 梅蘭芳

0.はじめに

「中国人は演劇が好き」という言葉をよく耳にするように、中国人は演劇が好きである。その証拠に、中国には昔から多くの演劇が各地で地方劇として古く残っている。代表の地方劇と言えば、“京劇”が挙げられる。その他にも、崑劇(こんげき)や梆子(バンズ)などの地方劇もある。今は日本の歌舞伎が若い世代に繁栄していないのと同じように、薄れ始めている。しかし、高齢層の人々が今演劇を次の世代に残そうと努力している。そのため、演劇は今も静かに愛され続けているのである。

1.     京劇とは

かつては「京戯」「平劇」「国劇」などとも呼ばれた。台湾(中華民国)は公式には「北京」という呼称を認めていないため、今でも「平劇」「国劇」と呼んでいる。安徽と湖北の地方劇を核とし、崑劇や梆子など他の地方劇の要素を吸収しつつ、京劇は形成された。京劇は日本で言う、歌舞伎のような伝統音楽劇なのである。清朝半ば以来およそ二百年の歴史を持つ、中国最大の地方劇である。その中で、一時期河北[木邦]子に王座を脅かされた以外、常に不動の地位を保ってきた。

また、京劇の観客層は北京族、皇族・満州族まで多岐にわたった。旧中国でこれだけ広い観客層を持っている地方劇はない。

京劇のピークは三つある。①道光、同治年間[日本:幕末~明治時代にあたる]、程長庚ら老生(=男役)の名優が輩出し、活躍した時期。②清末から民国にかけて、梅蘭芳ら「四大名旦」における旦(=おんながた)の地位が急速に向上した時期。③中華人民共和国[1949]~文化大革命勃発[1966]までの、いわゆる「十七年」の時期。

2.「四大名旦」とは

梅蘭芳・程硯秋・尚小雲・荀彗生の四人である。1927年北京の「順天時報」で一般から投票で選ばれたのをもとに、のちに言われるようになったそれぞれ独自の芸風をもった四人の女形のことである。特に梅蘭芳は日本でも公演を行い、有名である。

3.梅蘭芳とは

彼は、女形の第一人者である。彼の祖父・父は京劇俳優であり、また伯父は胡弓の奏者という俳優一家である。京劇界で独自の芸術流派「梅派」を形成した。

美しい眼、整った顔や容姿、天賦の美声の三拍子を備えた魅力ある演技で、男役第一主義の劇界にあって女形として座長になる。彼は京劇の形式を変えず、現代の服装でするという新しい劇を創り出し、また唐の美人画などにみられる扮装を再現し歌舞伎をつけた古装劇を始めたなど、女形の改革そして京劇全体の改革に多くの功績を残している。

1904(10)817日、北京広和楼劇院にて、「長生殿・鵲橋密誓」で織姫の役として初舞台を踏んで以来、37年間役者として活躍した。その間、様々な活動を行った。例えば、1913(19)1031日、上海在住の許少卿氏より招聘を受け、始めて上海で公演。1919(25)、日本帝国劇場の招聘により「喜群社」を率いて約1ヶ月間初めて来日。東京・大阪、神戸などの都市で公演。その後30歳の時に2度目の来日も果たしている。また、日本の他にも香港・カナダ・アメリカ・ポーランド・ドイツ・フランス・・・など、アジアからヨーロッパ、アメリカ大陸まで生涯にわたって世界中を飛んで公演を行った。海外での公演を初めて行ったのは梅蘭芳である。

その他にも、1914(20)、崑曲を勉強するとともに化粧と髪飾りの改善を図り、翌年には初めて京劇舞台でセンター・ピンを使用し、照明の役割を大さく前進させた。その後、1923(29)で初めて京劇の伴奏楽器に二胡を加え、京劇の音楽に色どりをつけるなど、舞台自体の改善にも取り組んだ。化粧については、それまでは当時の一般女性の化粧そのものだったのを、梅蘭芳を始めとする四大名旦が主役をとるようになってから今のような形体がとられるようになった。

1918(24)に「遊園驚夢」に出演。梅派の「遊園驚夢」は中国演劇芸術にまれ見る傑作と賞賛されるなど、数々の大作を世に送り出しついに33歳にて京劇「四大名旦」のトップとの評価を受ける。

4.なぜ男が女を演じるのか

まず、京劇と似ている日本の歌舞伎について取り上げる。歌舞伎も男性が女性役を演じる。しかし、歌舞伎の始まりは全て女性が演じ、今でいう、宝塚歌劇団の形態と同じであった。そしてお客は男性であった。しかし、当時のお客としてくる男性の目はまるでパブにくるような見方であった。そのため、あまり文化として繁栄しなかったため、いつしか男性が全て演じるようになり、今の歌舞伎の形態へと変化した。それに比べ、京劇の始まりはまず、京劇を作る中で女性が居なかった。十代の少年でつくろうとしたのである。つまり、京劇には女性は始めから今まで存在していないのである。この点では歌舞伎とは違うのである。そのため、京劇は男役第一主義なのである。その中で梅蘭芳は女形の地位を確立した。それは、まるで女性が下に見られていた実際の世の中で女性の地位を代わりに上げたようなものである。

5.まとめ

はじめに述べたように、今では全世代で京劇に熱狂しているわけではないが、梅蘭芳のように京劇を生涯にわたって改革し続け、愛した人がいるからこそ今でも高齢の国民に愛され、変化し続けているのであると考える。日本の歌舞伎と似ているが、しかし全く違う道を歩んでそれぞれの特性を持っている。それは、歌舞伎は日本という国で育ったから、また京劇は中国という国で育ったからである。日本と中国は祖先では繋がっているから文化の発祥も同じである。しかし、歩んできた環境が全く違うため、今の国際情勢で日本と中国の価値観の違いからくる意見の食い違いのように文化にも違いが出てきた。今回学んだ中国の文化というものは、中国という国が生み中国で育ったからこそ出来た文化である。ただの外国の文化として受け止めるのではなく、中華人民共和国が歩んできた歴史の結果生まれた世界に一つしかない貴重な文化として受け止めたい。また、自分は日本、そして海外の演劇にとても興味を持っているので今回の学習はとても興味深く、調べることがとても楽しかった。

参考文献

1.現代中国の文化 2005610日 明石書店

  (編著) 孫 玄齢 潘 世聖 陸 偉栄 魯 大鳴

2.京劇城Peking Opera in Japan home.hiroshima-u.ac.jp/cato/KGJ.html

3京劇俳優の紹介(梅蘭芳の写真の提供) www.people.ne.jp/info/culture/opera/page/jingju-309.htm

4.cyugoku kyougeki www.min-on.or.jp/kyougeki/history/life.html

5. 化粧 gt313.hp.infoseek.co.jp/page024.html

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中国の美術と日本

経営学部経営学科1年 渡部哲生

キーワード 雪舟 水墨画 李可染 山水画                              

1 はじめに

教科書や授業中に鑑賞した数々の中国美術品。それらは、ヨーロッパの作品よりもぐっと僕の心を惹きつけました。

どうして僕は中国美術に惹かれるものがあるのだろうか。歴史や著名な画家を通じて考察し、理解することで中国美術を楽しんでいきたいです。

2 日本と中国の関係

 僕たちのもっとも身近にあり主食となっている米があります。米は僕たちの食卓に欠かせなく、日本人の根本を成す食べ物として今なお品種改良が加えられています。日本人の魂とも例えられる米、その稲作は中国南部から栽培技術が伝わったとされています。紀元前三百年頃、縄文時代から弥生時代へと変わろうとしていたときのことでした。その後も遣隋使や遣唐使など使者を送り、貿易を続けるなどして国交を交わすことになります。

いま僕がタイピングしている漢字、それの派生である平仮名やカタカナも中国の文化から得たものです。日常生活の中で探してみれば他にも多くのものが中国と関係していることが分かります。

遥か昔から中国と日本は繋がっていました。十六世紀頃に日本にやってきたヨーロッパより、中国と日本との繋がりが深いのは明らかです。その為ヨーロッパの美術作品より中国のそれの方が僕にはしっくりくるのかもしれません。

3 雪舟と水墨画

 国内外問わず水墨画等で国際的に高い評価を得ている雪舟という画家がいます。彼は画聖と称えられ、現存する彼の六つの作品は国宝となっています。教科書にも載っているぐらい有名な逸話、「涙で書いた鼠」は多くの人が知っているのではないでしょうか。参考文献が見つかりましたので以下に抜粋させていただきます。

 室町時代、備中の国赤浜(現岡山県総市赤浜)に生まれた雪舟は、僧侶の修行をするため、宝福寺に小僧として入った。しかし、もともと絵を描くことが大好きな少年であったため、修行はそっちのけで、毎日絵ばかり描いていた。
 そんな雪舟に和尚はとうとう堪忍袋の緒が切れ、雪舟をお堂の柱に縛りつけてしまった。一人お堂に残された雪舟は悲しみのあまり涙があふれ、足下にその涙がポタポタと落ちていった。
 もういいだろうと和尚が縄を解きにお堂に行ったところ、雪舟の足下に一匹の大きな鼠がいた。和尚が追い払おうとしたが鼠は動こうとしない。近寄ってよく見てみると、なんとそれは落ちた涙を使って雪舟が足で描いた鼠だったのである。
 雪舟の絵の才能を感じた和尚は、それ以来、絵を描くことを怒らなくなったそうである。
       

 雪舟は僕が一番好きな画家です。その中でも水墨画の作品は強く惹かれるものがあり、歴史の資料集に載っていたその画を何度も何度も眺めていました。

4 李可染と山水画

授業中に教科書にある李可染のところを読むと山水画で描かれた作品が載っていました。その画は山水画と書かれていなければ、水墨画だと勘違いしていたほど似た技法の画でした。そこで水墨画の歴史を調べると、水墨画は中国で唐代後半に山水画の技法として成立しています。そのため李可染の画が水墨画に見えたのも頷けます。

李可染は江蘇省徐州の貧しい家庭に生まれ、1923年上海美術専科学校に進学、卒業後は郷里の小学校図画教員となりました。29年に杭州・国立西湖芸術学院研究部に入り、フランス人画家に師事します。37年の日中戦争中は、中国画研究とくに水墨写意画に沈潜し、また招かれて国立芸術専科学校で教えました。その後国画の大師である斉白石・黄賓虹に10年にわたり師事し研鑽を積みました。

このように李可染は西洋絵画の明暗技法を吸収するなど数々の技法を学び、独特な山水画を築きあげました。そして現代中国では最も評価の高い国画家のひとりだそうです。

5 まとめ

 古代の日本と中国の関係から始まり、現代画家の李可染を例に挙げて考えてみました。

僕が思っていた以上に中国美術は日本人に受け入れられやすく、親しみやすいものだと分かりました。そして中国とは気が遠くなるほど昔から深い関係があり、食べ物や美術品など様々な恩恵を受けてきたことを再認識できました。雪舟、水墨画、李可染、山水画というわずかなキーワードをもとに考えてみましたが、少しのキーワードでも書ききれないほどの歴史的関係を見出せました。いまいち日本と中国の関係は良好とは言いきれませんが、こういった歴史や美術品を通して互いに共存して生活していることを思い出し、更なる交友を深められることを切に願います。

このレポートを通じて色々な美術品とそれにまつわる歴史を調べました。僕は今まで美術品を見るとき、ただ綺麗だなぁと思ったりすごいなぁと感心して終わっていました。しかしこれからは只美術品を眺めるのではなく、作品一つ一つに込められたその国の文化や歴史的関係を見出すことにします。そうすればレポートを書く前よりずっとずっと楽しく鑑賞できそうです。

参考文献

1.張競、孫玄齢、潘世聖、陸偉栄、魯大鳴 2005年6月10日 現代中国の文化 

明石書店

2. 狩野永納 1693年 本朝画史 同朋舎出版

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