中国の民族

渡辺 晃広

 

中華人民共和国は統一された多民族国家であり、合計で五十六の民族がある。一九九〇年に行われた中国第四回人口全面調査のデータによると、全国総人口のうち、漢民族は91.96%を占め、少数民族は8.04%であった。一九九五年に行われた全国1%の人ロサンプリング調査によると、全国の十二億人口のうち、少数民族の人口は一億八百四十六万で、全国総人口の8.98%を占め、一九九〇年より0.94ポイント上がった。中国の少数民族は人口が少ないとはいえ、非常に広い範囲に分布している。全国の各省、自治区、直轄市にはいずれも少数民族が居住している。現在、中国の少数民族は主として内蒙古、新疆、寧夏、広西、チベット、雲南、貴州、青海、四川、甘粛、遼寧、吉林、湖南、湖北、海南、台湾などの省、自治区に分布している。中国共産党と中国政府は民族問題を一貫して重視し、国内の民族問題をよりよく解決するため一連の民族政策を制定した。これらの政策は民族の平等と団結、民族区域自治および各民族の共同繁栄などに概括することができる。現行の憲法と各種専門法規および地方法規には、いずれも国内の民族問題解決の根本的趣旨が具現されている。各民族の平等、団結、共同繁栄を実現するため、中国政府は民族抑圧と民族搾取制度を廃止し、少数民族の集中居住地域に自治区域を設け、地元の民族に自民族の内部事務を自已管理させるという中国の特色を持つ民族区域自治制度を確立した。

 今現在、中国は五つの自治区、三十の自治州、百二十の自治県(または旗)が設置された。また、民族区域自治の補充形態として、千二百五十六の民族郷が設置された。民族自治地方の面積は全国総面積の64.3%を占め、自治地方の総人口は一億六千万人で、そのうち少数民族の人口は七千二百万人である。人口が少なく居住地域が分散している民族を除き、四十四の少数民族が区域自治を実施している。民族自治地方の人民代表大会は、地元の政治、経済、文化の特徴にもとづいて自治条例と単行条例を制定する権限がある。一九九八年末現在、民族自治地方は合わせて百二十六の自治条例と二百九の単行条例を制定した。

民族区域自治制度の実施によって、少数民族は漢民族と同じように平等の権利を享受している。少数民族に自民族の内部事務を自主的に管理し、国家管理に参与する平等な権利を十分に行使させるため、政府は一貫して才徳を兼ね備えた少数民族幹部の養成を重要な施策としている。中国の最高権力機関である全国人民代表大会の選挙の中では、少数民族の権利に対する尊重が十分に反映されている。中国の各少数民族はいずれも「中華人民共和国全国人民代表大会および地方各級人民代表大会選挙法」の規定にもとづいて、自民族を代表する全国人民代表大会の代表を選出しており、人口が特に少ない民族は、一人の代表を選出するための規定人数に達していなくても、少なくとも一人の代表が選出されている。一九五四年の第一期から現在までの各期の全人代では、少数民族の代表が代表総数に占める割合はいずれも同民族が同期の全国人口に占める割合を上回っている。一九九八年に選出された第九期全国人民代表大会代表の中に、少数民族の代表が合計で四百二十八人おり、二千九百七十九人の代表総数の14.3%を占め、同期の全国総人口に占める少数民族人口の割合よりほぼ五ポイント高いものであった。国は少数民族幹部の養成・起用に力を入れており、現在、全国に少数民族幹部が二百七十万人を超えた。中央と地方の国家権力機関、行政機関、裁判機関、検察機関にはいずれもかなりの少数民族の公務員がおり、国と地方の事務の管理に参与している。少数民族は全国人民代表大会常務委員会副委員長の21%を占め、全国政治協商会議副主席の9.6%を占めている。国務院の指導メンバーのうち、少数民族が一人おり、国務院の構成部門では、少数民族出身の部長が二人いる。百五十五の民族自治地方政府の主席、州長、県長、旗長はいずれも少数民族が担当している。中国政府は経済・社会発展の面に存在する少数民族地域のその他の地域との格差を非常に重視し、多くの優遇政策と措置をとって、少数民族と民族区域の経済と文化の発展を大いに援助している。例えば、「民族地域補助金」、「国境建設事業補助金」、「財政定額手当」、「経済後進地域発展援助資金」、「少数民族貧困地域衣食問題解決基金」、「特別困難補助金」、「特別手当」などを設けており、その額は年間三百億元を超えている。経済の発展につれて、民族自治地方の文化、教育、科学技術、医療衛生、スポーツ、報道、出版などの社会事業も歴史的な進歩を遂げ、少数民族の優れた伝統的文化が引き続き発揚され、少数民族の教育事業も急速に発展している。民族自治地方では、ラジオ・テレビネットワークがすでにある程度の規模に建設され、出版、印刷、発行などの民族出版システムが形成され、一九九八年末現在、全国の三十六社の民族系出版社は二十二の民族文字で各種図書を四千百種以上出版し、印刷部数は五千三百万冊以上に達した。また、少数民族の平均寿命は解放初期の三十歳から六十歳以上に延びている。 民族地域は国の扶助とその他の地域の援助のもとで、自身の刻苦奮闘を通じて、経済を急速に成長させ、諸事業を全面的に発展させている。少数民族の平等な権利と民族自治の権利も保障され、社会主義の民族関係はいちだんと発展を遂げた。朱鎔基総理は二〇〇〇年三月に開かれた第九期全国人民代表大会第三回会議で行った「政府活動報告」の中で次のように強調した。「わが国は多民族の統一国家である。平等、団結、相互援助の社会主義的民族関係を強固にし、発展させ、各民族の共同の繁栄と進歩を実現しなければならない。中央の民族事務会議の趣旨を引き続き貫徹し、少数民族と民族地域の経済の発展と社会の全面的な進歩を加速させる。民族地域自治法を真剣に貫徹し、民族自治区域の自治権と民族平等の権利を保障する。少数民族の幹部と各方面の人材を多いに養成する。民族地区の安定と祖国の統一を断固擁護する。」

 参考資料:http://www.moftec.or.jp/jp/china8.htm

  http://j.peopledaily.com.cn/2000/12/27/jp20001227_941.html


現代の中国が戦争で学んだこと

-日中戦争について

本田康史

はじめに

私は大学に来てまだ間もないが、中国の事を教養セミナー、歴史学などで学んでいる。その中で印象深く残ったのが「戦争」についてだった。特に歴史学で「日中戦争」について学んでいて、今まで中学校、高等学校で学んできた歴史の教科書の中の出来事だけだと思っていた「日中戦争」の中で「日本人がした酷い事」を詳しく勉強して驚きを受けた。確かに日本人は酷い事をしたと思うがそれに対して責任も負わなければならない。が、その中で「戦争」でなにか学んだことは無いだろうか、という事を今回考えてみる事にした。

0、      日中戦争とは

この戦争は宣戦布告がなかった戦争で、日中戦争が開始されたのは、1937年(昭和12年)7月7日夜に北京郊外の南を流れる永定河に架かる橋の廬溝橋付近で、北京郊外の富台に駐屯する日本の支那駐屯軍が夜間演習を実地していた、その最中の午後10時頃数発の射撃音があり、点呼してみたら日本の二等兵が1人足りなかったのを見て「これは中国軍の奇襲に違いない。やられた兵士の仇を討つのだ。」と騒ぎになり、事態を重視し牟田口廉也連隊長は日本との主力部隊の出動を命じ、7月8日未明から中国軍を攻撃した。7月9日には停戦が行われ、11日には停戦協定が調印され事態は収拾されたかに思えたが、政府は約10万の大部隊の華北派兵を決定し中国軍も態度を硬化させ部隊を河北に移動させ、一発触発の状況の中で日本軍は現地での軍隊同士の小競り合いを理由に7月28日から総攻撃を加えた。これが日中戦争の始まりであった。その後日本が直ぐに終わると考えていた戦争が思いのほか長引き、1941年太平洋戦争へと突入し、1945年に日本の敗戦で終結した。日中戦争の始まりは、私の意見としては侵略の為の建前にすぎないと考えられる。なぜならその居なくなっていた二等兵の日本軍兵士は演習直後におなかの具合が悪くなり草むらに駆け込んだためであり、直後に無事帰還していたのである。この様な詭弁を用いて日本は実質中国を世界進出の足がかりとして侵略したのであると、私は考える。

1、      日本が中国に対して行った事

そしてこの戦争で日本は一体中国に対してどのような行為を行ったのだろうか。まず筆頭に出てくるのは「南京大虐殺」だろう。日中戦争のさなかの1937年(昭和12年)12月から翌年2月にかけて、南京を占領した日本軍が南京市内外で中国人の一般市民・捕虜に対して行った大規模な暴行・略奪・虐殺事件で被害者数は20万人以上、中国側の発表では30万~40万人と推定されている。だが問題の本質は、南京の犠牲者の数の代用ではなく、日本の残虐行為と存在と内容で、中国人犠牲者の人数を問題にするならば、30万どころか全体では1000万人をはるかに上回り、とても計算が不可能なくらいなのだ。ここで疑問に感じたのがなぜそこまで大規模に残虐行為をする必要があったのかと言う事だ。その理由は民衆の中に溶け込んでいた八路軍に手ずった日本が、民衆そのものを敵として、「三光作戦」を実行したからである。「三光作戦」というのは日本軍が意のままにならない「敵性」地域において、一般民衆の生命・財産・生産基盤の徹底的破壊それ自体を目的として繰り広げた軍事作戦である。その命令は敵地区に侵入した際は、食料を全て輸送するか消却し、敵地区に残さないこと、家屋は破壊または消却すること、敵地区には人を残さない事、ここまで徹底していた。この様な残虐な行為をいくつもした戦争であったが、はたしてこの戦争で中国が学んだ事はあったのだろうか。

2、      戦争で中国が学んだ事

かつて日本は科学技術も文化も、中国より10年あるいは100年以上も遅れていた。それなのになぜ日本に遅れを取ってしまったのか。客観的に見れば中国は日本より先に進む理由多くを持っている。中国の国土は広く、資源が豊富であるからだ。しかしそれでも中国が日本に遅れを取ったのは中国の考え方に問題があったからではないかと考えられる。日中戦争の際、国家のために大勢の中国人が犠牲になったが、現在その存在はほとんど忘れ去られているように見える。日本は戦後、巨額の資金を投入して、かつて激戦が行われていた地域に残された日本兵の遺骨を持ち帰り、埋葬したが、中国はベトナム戦争後戦死した中国兵士の遺骨を回収に関する問題に対してはほとんど提起された事がなく、人気のあった中越戦争の中国軍の英雄達も現在は忘れさられようとしているし、まして朝鮮戦争後、日中戦争でなくなられた先祖のことは完全に忘れ去られているといっても過言ではない様だ。しかし、近年中国は経済発展が進み、日本に追いつくのも時間の問題と考えられるほど発展しつつある事を考えると中国はそう言った歴史を忘れ去った訳でなく、自分たちの悪い所を認め発展しているのではないかと考えられるのではないか。

3、      結論

確かに、日本は中国に対して酷い事をしてきたのは事実である。だがそういった問題は解決されずに置かれてはいるが、戦争によって学んだ事で発展したとは言い切れないかもしれないが、日本や諸外国との友好関係を回復しつつ発展している中国を見て戦争から学んだことは少なくないのではないかと私は考える。確かに中国人は今日でも日本がした事を忘れてはいないが、決して反日的な態度ばかりではない事から見ても、学んだ事は確実にあると考える。更に中国はアメリカが起こしたイラク問題について、イラク問題は安保理決議にもとづいて政治的な方法で解決されるべきだと主張しているのは、アメリカがイラクを思うように操れる様になれば中東地域だけで無く世界の安定にも影響を及し、そうなればまたむごい戦争の犠牲者が出るという事を考えたからではないか。実際、イラクの収容所ではアメリカ兵が拘束者に対して虐待をしたというのが問題になっている。中国がイラク戦争に対して軍事行動の即刻中止を呼びかけたのは、中国が過去の戦争でつらい経験をしてきたから言える台詞ではないかと私は考える。

4、      おわりに

歴史学の授業で、「日中戦争」について学んで興味が出て来たことからこの教養セミナーで調べ始めたテーマだったが、色々衝撃を受けることが多かった。歴史の教科書の中の出来事だと感じていた話を調べてみてやはり本当に日本は酷いことをしたと改めて実感した。時代が流れてしまって残虐行為をされた国、した方の国共昔あった事が徐々に忘れ去られていくのはどうしようもない事だと思う。だがそれについて知らず、教えずに育ってきた日本の教育にも疑問を感じざるを得ない。中国がこの戦争で何かを学んだのなら、日本も事実をもっと今の人々に知ってもらって真剣に考えて間違いを正し、学ぶべき必要があるのではないかと私は感じた。そうでなければこう言った行為が忘れ去られ、またむごい戦争が起こってしまった時過ちを犯しそうになった国がある時、日本という国が止められる立場に立てず、苦い経験をした意味が無くなってしまう。辛い経験を与え経験があるのなら二度とその過ちを繰り返さないよう、そしてその過ちを犯そうとした国があるのならば止められる立場に立てるようしっかり過去を踏みしめて活かしていかなければならない為にこのような事実があったことを私達は知らなければならないと感じた。

 参考文献

http://www.est.hi-ho.ne.jp/zhaojun/seminar/2000_hp/gaomu02.htmhttp://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/nittyuusennsou.htmhttp://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/hujiwara_nittyuusensou.htm
http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/030616ntyu.htm
http://www.mos.t.u-tokyo.ac.jp/~linan/001.html
http://www.jca.apc.org/wsf_support/messages/1936.html

 

京劇について

辻 恵巳

 

1.京劇の歴史

 

 1-1 「京劇」という名前について

 かつては「京戯」「平劇」「国劇」などとも呼ばれた。また、清末民初(AD18751921)まで、単に「皮黄」「大戯」といえば、もっぱらこの京劇を指す場合が多かった。清朝半ば以来、およそ200年の歴史を持つ、中国最大の地方劇である。

 その流行地域は中国本土全省のほか、東南アジア・アメリカ・北欧など、中国人(華僑)の存在するところ全てに及ぶ。また、頻繁な海外公演を通じて、外国にも愛好者・研究者をもち、外国人による英語京劇も演じられ、大人気を得たという。京劇学校に留学する外国人もいるほどである。

 

 1-2 京劇はいつから始まったか

 京劇史については、いまだに混沌とした部分が多い。京劇の起源をいつにおくかについてさえ、定説がない状態である。現在の主な説を年代順に並べると、

   ①乾隆251760)年、「四大徽班(「三慶班」「四喜班」「春台班」「和春班」の4つの劇団)」の北京入城をもって京劇の起源とする説。現在の中国でこの説を採る研究者は、ほとんどいない。

   ②乾隆551790)年、高宗乾隆帝の80歳の誕生祝いのため、徽班が北京に呼ばれたこの年をもって京劇の起源とする説。多くの「京劇史」は、この年から記述を始めている。

   ③道光8~1218281832)年にかけて、楚調(漢劇)の俳優・王洪貴、李六らが北京に進出し、徽班に影響を与えたときをもって京劇の起源とする説。新中国以降出版された中国戯曲史の種種の概説書でも、これが定説のごとく扱われていた時期があった。しかし近年、実は「四大徽班」の北京進出以前から楚調はすでに北京に進出しており西皮と二黄の融合の時期も再検討を要するという説が提出されていて、これも定説ではなくなっている。

   ④道光201840)年頃から咸豊末年(1861)にかけて、俳優の出身地や使用方言などで徽班の「北京化」が進んだ時期をもって京劇の起源とする説。

   ⑤光緒の中葉から末葉(20世紀初頭)とする説。

と、これだけの異説がある。

 1990年に北京で「(ホイ)(パン)(安小の地方劇)進京200周年記念」という行事が行われた。これは京劇の元になる徽調(ホイデアオ)”という芝居が北京に入って200年という意味で、だいたい京劇の歴史といわれている。清朝皇帝の乾隆帝が芝居好きだったため、300以上ある地方劇が続々と北京入りし、融合し、京劇が出来た。皇帝は京劇を皇家劇とし自らも舞台に立ったため、京劇は完成された洗練されたものとなり、中国を代表する戯曲となった。こうして北京に芝居小屋がたくさん建ち、皇帝から庶民まで楽しめる芝居になった。文化革命のときも、“現代京劇”という形で存続した。

 

 1-3 京劇の四大要素 唱念倣打(チャンイェンツォダー)

 「唱(うた)・念(せりふ)・倣(仕草)・打(立ち回り)」が4つの要素だといわれる京劇は、舞踏化された美しい動作と豪華な衣装、胡弓や太鼓に合わせた独特の歌に明快なストーリーをあわせ持っている。

 京劇は西洋では“Beijing Opera”(北京オペラ)と呼ばれている。しかし、京劇役者は歌って演技をする以外に喋って立ち回りもしなければならない。唱念倣打を1人でするのが京劇である。

 

 

.京劇の音楽

 2-1 分類

 京劇音楽は「文場」と「武場」に分けられる。旋律系楽器による演奏が「文場」と呼ばれるのに対して、打楽器群による打撃音楽は「武場」と呼ばれる。

 

 2-2 楽隊の構造

 楽隊の人数に厳格な規定はないが、6~10人くらいの編成。客席から見て、舞台の左側の袖に引っ込んで陣取るため、服装は自由。歌のときの伴奏は弦楽器が主体、立ち回りのときの伴奏は打楽器が主体である。伴奏音楽が暇なときは、ガラスの空き瓶に茶葉を入れて熱湯を注ぐという中国式のお茶を堂々とすすりながら一息つき、互いに小声で談笑している。また、芝居の幕が降りないうちに自分のパートの楽器が終わると、さっさと先に楽屋に帰ってくつろぐ。このように楽隊が観客から見えない位置になったのは20世紀前半の京劇改革運動以降のことで、昔は(台湾は今でも)観客席からよく見える舞台上で演奏することが多かった。

 京胡、月琴、三弦など旋律系の楽器は、微妙な調律・調整を必要とし、メンテナンスも大変なので、普通、それぞれの演奏者の自前の楽器である。それに対して、銅鑼、鐃[金發]などの打楽器は、普通、劇団の共有物である。

 西洋の指揮者にあたるのは、1人で檀板と単皮鼓を預かる「司鼓(sigu)」である。少なくとも司鼓だけは、ずっと舞台の俳優の演技を見つめ、役者と目で合図を交わしながら打楽器の音を奏で続ける。他の残りの楽隊員は、舞台を見ている必要はなく、この司鼓に合わせてそれぞれの楽器を演奏する。

楽隊員は、バンドマスターである司鼓を除いて、原則として打楽器と旋律楽器を兼ねる。そのため、芝居の途中で、しばしば楽器を持ち替える。楽器はそれぞれ1種類につき演奏者1名と限定されている。ただし嗩吶(スオナー)のみは例外で、演奏中に息継ぎで旋律が途切れるのを避けるため、2人で吹くのが普通。肺活量の関係で、嗩吶や笛子の演奏者は男性が多い。

京劇の歌や立ち回りは、絶妙なタイミングと呼吸を必要とするので、録音では演技しにくい。ただ、アマチュアの京劇愛好者のためには、家庭用京劇カラオケのCDが各種市販されている。

楽隊員は、俳優と同様、京劇の学校を卒業したプロである。家族の誰かも京劇関係の仕事についている場合が大半である。

 

 2-3 京劇の唱の旋律

① 西皮(シーピ)陜西省の曲で、明朗で起伏が激しく喜びをあらわす

② (アル)(ホァン)=湖北省の曲で、穏やかで暗め。悲しみをあらわす

③ 南木(ナンパ)邦子(ンズ)=河北省の曲で、“旦”(女形)だけが唄うやわらかい旋律

④ 昆曲(クンチ)=蘇州地方の曲で、笛と琵琶で唄われる

 

 2-4 京劇の唱の拍子

鼓師がカスタネットで叩く1拍目が“(バン)、単皮で叩く2拍目以降が“(イェン)。例えば、2拍子は1板1眼、4拍子は1板3眼。

拍子の種類は、

慢板=4/4拍子

原板=2/4拍子

快三眼=慢板と原板の中間

二六板=原板よりも少し早く、歌詞が多く、会話のような感じ

流水板=1/4拍子。二六板より早い。激しい感情を早口で唄う

快板=1/4拍子。流水板よりももっと早い

揺板=早い伴奏で遅くうたう。自由形式

散板=遅い演奏で遅くうたう。決まりはなく伴奏が歌に合わせる

導板=他のリズムを導く、短いフレーズ

回龍腔=導板の後に歌う

 

 

3.        京劇の楽器

 京劇の楽器類は大きく分けて弦楽器、管楽器、打楽器、その他の4種類に分けられる。

 

 3-1 弦楽器類=京胡・月琴・京二胡・三弦・中阮・大阮

 

具体例1.京胡(jinghu

 京劇で最も重要な地位を占める。京劇で使われる「胡琴(huqin)」が語源。

 バイオリンに似た高音で、キイキイという音色。

 肉厚の太い竹筒の本体に蛇の皮をきつく張った本体と、細い竹の棹の2つの部分から成り立っている。竹の棹の先には、2本の木製の「糸巻き」が付いている。それぞれの糸巻きからは胴に向かって2本の弦が張られている。2本の弦の間には、バイオリンのものと同じような形の弓が挟まっている。

 弦は、昔は絹製だけだったが、現在では金属弦が普及している。西洋の羊腸弦は中国にはない。京胡専用の弦も中国では市販されている。日本の三味線の絹弦でも代用することができる。

 弓は、バイオリンと同様に馬の尾が張ってある。これもバイオリンと同様、松ヤニが必要である。バイオリンでは松ヤニを弓の毛にゴシゴシこすり付けるが、京胡では松ヤニを火で溶かして、楽器の共鳴胴の棹の付け根部分に垂らし、演奏中、弓の毛で擦れて自動的に松ヤニが補給されるようにする。ただ、バイオリンの弓は硬い木で作られているが、二胡の弓は竹で作られ、弾力性があるため、ビブラートがつけられる。

 左手で楽器の本体を斜めに持ち、左の太ももに楽器の胴を乗せる。右手で弓を持ち、2本の弦のどちらか一方に擦りつけながら押し弾く。旋律は、左手の親指を除く4本の指で弾く。楽器の構造上、和音演奏は不可能である。その反面、バイオリンのような指板がなく、弦が中空に浮いているだけなので、ビブラートなどの表情が極めて付けやすくなっている。

 右手の弓の動きが音色を決定する。例えば、(アル)(ホアン)の節回しのときは長弓(弓を大きく滑らかに動かす奏法)をし、西皮(シーピ)の節回しのときは短弓(弓を激しく動かす奏法)をする。弓の動かし方には厳密な決まりがあるので、教則本や個人指導によって正確に勉強する必要がある。

 基本的に京劇の歌の場合は、前奏や間奏の他、役者の歌をなぞるように演奏する。ただし、歌の旋律を基本旋律としながらも、細かい無窮(むきゅう)(どう)速い動きの同一音型が始めから終わりまで間断無く続く楽曲)的装飾音を加えていく。これを「加花(ジャーホア)」といい、京胡の最も基本的な演奏法になっている。

 京胡は今から200前、京劇と一緒に地方から北京にやってきた楽器である。ただし、昔の京胡は今のもとにくらべるとずっと華奢な造りで、弓も丸く弱い張力で張られていた。今でも、日本の長崎などで伝承されている「明清(みんしん)(がく)(明楽と清楽を合わせた日本での俗称。江戸末期から明治中期まで盛んに演奏された)」で使用されている京胡は、100年前の中国の京胡の華奢な面影をよく伝えている。その後、中国本土では、京胡は、より大きく力強い表現ができるように頑丈な造りになり、弓も太くまっすぐなものが使われるようになった。

弦楽器でありながら笛のように途切れない音を出すことができる。また、共鳴胴に膜(蛇の皮)が張ってあるため、バイオリンよりもさらにいっそう、人間の声に近い音色を出すことができる。音域の広さは役者の声域を越えてはならない。また、楽器本体の寿命は人間の寿命を越えてはならない。

京胡は現在では、やや小型の「西皮用」タイプと、やや大きめの「二黄用」タイプ、およびその中間型の汎用(はんよう)タイプの3種類がある。プロ奏者は西皮用・二黄用をまめに使い分けるが、汎用タイプ1本のみで両方を弾きこなす人もいる。

日本語では中国の胡琴類も「胡弓(こきゅう)」と言うが、日本の伝統楽器である胡弓と、中国の胡琴は、まったく別構造の楽器である。また、中国の胡琴類のなかでも、京胡はかなり特殊な部類に属する。(アル)(フー)のプロの名手でも、修練を積まねば京胡を弾くことはできないほど難しい。

昔は、京劇の一流の名優は、自分だけの専属の琴師(チンシー)(京胡弾き)をかかえていた。京劇の歌は、役者と琴師が作ってきたといっても過言ではない。

 

具体例2.月琴(yueqin

京胡の次に重要な地位をしめる、(はつ)(げん)楽器

満月のように丸く平たい胴体をもつことからこう呼ばれる。

マンドリンに似た、高く澄んだ音色。

塗装をしていない桐製の円形の胴体から、短いネックがのび、ネックの先には糸巻きと雲首(装飾部分)が付いている。ネックから胴体にかけてはフレット()が並んでいる。

弦は、昔は絹製(まれに銀製)だったが、現在では鉄線の周りにナイロン繊維をまいた月琴専用の「ナイロン鋼糸弦」が普及している。

月琴の弦の本数は演奏音楽のジャンルによってかなりバラつきがある。京劇では、1本だけ太い弦を張る。しかし、伝統的な中国音楽では、細い複弦を2セット、計4本張る。複弦というのは、2本の弦をまったく同じ音の高さに調弦して同時にかき鳴らすことで、例えばマンドリンや12弦ギターのような独特な共鳴効果を得ることができる。また、弦を3本張る場合もある。京劇でも演目によっては3本張る場合がある。

椅子に座り、両方の太ももの間に楽器の丸い本体を置いて安定させる。左手で楽器のネックを斜め45度に持ち、右手で弾片(ピック)を持つ。ピックは、昔は「鼈甲(べっこう)」や「牛角」を用いていたが、最近はプラスチック製が普及している。左手は、親指をのぞく4本の指で弦を押さえてメロディーを弾く。左手の指は、フレットとフレットのあいだの中空で弦を押さえる。右手はピックをつまみ、連続的に弾き、マンドリンのように演奏する。

月琴は京胡の旋律を、細かい装飾音も含めてなぞる。打楽器も兼ねているので、歯切れ良く弾くリズミカルに弾く。月琴はマンドリンやギターと違い、胴体に共鳴口を開けていないので、残響が短く、それだけ歯切れよい音が出せるような構造になっている。

月琴は京劇や京胡よりも古い歴史を持つ楽器で、京劇以外の伝統音楽でも広く使われている。古いタイプの月琴は、ネックの部分が現在のものよりずっと長いタイプだった。しかし、力強い高音を歯切れ良く出すために改良が加えられ、ネックの部分は次第に太く短くなり、また、楽器の本体も頑丈に作られるようになった。

月琴は日本にも伝わり、江戸時代後期から明治までは、「明清(みんしん)(がく)」の伴奏楽器として日本国内でも大量に製作されていた。ただし、これらの月琴はフレットの位置も楽器本体の頑丈さも現在のものとは違うため、京劇の伴奏に使うことはできない。京胡および歌唱者(俳優)の声が伸びるのに対して、月琴の音はピアノのようにポツポツ切れる。

京胡同様、細かい装飾音付きの単旋律を歯切れよいリズム感で弾くことに徹した楽器。この目的のために、京劇用の月琴は、半音用のフレットを間引いてフレットの間隔をひろげ、また音域が狭くなることを覚悟でわざと弦の数を減らしている。

月琴は基本的に1種類だが、張る弦の数(糸巻きの数)、フレットの位置(半音まではめこむか、全音階だけにするか)、胴体内部に金属片やバネなどの共鳴材を入れるか否かなど、演奏者によって形態をいろいろ変えることができる。昔の京劇伴奏者の多くは、半音フレットなし、弦は1本のみ、共鳴材として金属片を胴体に入れる、というスタイルを好んだ。現在では、半音フレット付きで弦を3本張り、胴体内に共鳴材は入れないという近代的な月琴を京劇で使用する演奏者も見られるようになっている。

同じ「月琴」という名前であっても、地方や時代の差で、ずいぶん形態が違う。例えば、雲南省(うんなんしょう)の少数民族が使っている角張った月琴と、韓国の細長い月琴とでは、音色も形もまったく違う。

 

具体例3.京二胡(jingerhu

 京胡・月琴に次いで重要な弦楽器。京劇用の二胡であることからこう呼ばれる。京胡より1オクターブ低い、バイオリンのような音色。ただし、京胡ほどの音量は出ない。

蛇の皮を張った六角形ないし八角形の木製共鳴胴から、木製の棹が真っ直ぐ伸び、棹の先には2つの糸巻きが付いている。京胡よりも大きいが、二胡よりもやや小さい。奏法は、京胡に準じる。

 この楽器の歴史は浅く、名優・梅蘭芳(メイランファン)(中国・京劇界で“芸術大師”の称号を与えられ、伝説の名女形として語られる)の京劇改革期のとき、それまで高音域に偏っていた京劇音楽を是正するため、導入された楽器。

 京胡に準じた楽器でありながら、造りが大きく、より低音であるため、京胡よりは弾きやすい楽器である。そのため、まず京二胡で練習してから京胡を弾く人もいる。

 あくまでも、№3の楽器に徹するため、没個性に徹している。

 京二胡は基本的に1種類で、二胡の一種なので、京劇以外の曲、例えば民謡なども弾くことができる。

 

具体例4.三弦(sanxian

 写真・右が三弦。沖縄の(さん)(しん)、日本の三味線のルーツにあたる楽器。

 京劇では、楽隊の人数に余裕があるときに使う。

 文字通り、3本の弦があることからこう呼ばれる。

 日本の三味線や、西洋のバンジョーに似た音色。

 日本の三味線に似ているが、張られている皮が異なる。三味線の皮の種類は猫皮(よつ)犬皮(けんぴ)・合成皮の3つある。猫皮は、猫のお腹の皮を使う。1匹で1丁分しか取れない。犬皮は、犬の背中の皮を使う。1匹で数丁分取れる。猫皮に比べ、音は硬い。合成皮は、動物愛護と、破れない皮ということで1980年代に登場した。しかし、現実には熱に対して天然皮よりも極端に弱く、品質改良は大きな課題で、音もそれなりという状況。三弦は、蛇の皮が張ってある。フレットがないので、半音や微分音なども自由に出せる。

 三味線のような大きなバチは使わず、小さな弾片か、あるいはつめ(自分の爪を伸ばすか、人工の爪を指にはめる)で弾く。京胡・月琴・京二胡が、細かい装飾音を刻みながら演奏するのに対して、三弦は、その装飾音を間引いて、旋律の基幹部分を弾く。副次的な伴奏楽器ゆえ、演奏法は比較的自由で、月琴のように弾いてもよいし、飛び石のようにポン、ポン、ポンと要所のみを弾く場合もある。

 三弦は広い地域で古くから使われてきた楽器で、特に南方の「南管(なんかん)中国福建省・泉州で生まれた室内楽。南音とも)」「梨園戯(りえんぎ)(南管による音楽劇)」などでは重要な伴奏楽器となっている。京胡や京二胡が純粋に京劇のための楽器であるのとは性格が異なる。月琴より音を間引いて弾けるので、「ここぞ!」と思うところでリズムを強調することができる。また、三弦が合奏に加わることで、音に暖かみが加わる。

 京胡や日本の三味線同様、楽器の耐用年数は、わざと演奏者の寿命を大幅に越えないように作ってある。

 三弦のサイズは、低音用の大型のものから、高音用の小型のもの(沖縄の三線はかなり小型の三弦)まで各種ある。京劇では普通、中型のものが使われる。

 京劇の弦楽器について、昔は「二、一、三」という言い方があった。2本の弦が張ってある京胡、1本の弦が張ってある月琴、3本の弦が張ってある三弦、という意味である。ただし、楽隊の人数に余裕のないときは、三弦は省略される。

 

具体例5.中阮(zhongruan

 「竹林(ちくりん)(しち)(けん)」の一人、阮咸(げんかん)が愛用したと伝えられる楽器「阮咸」の子孫ないし改良型であることからこう呼ばれる。

 西洋のギターのような、よく響く、澄んだ低音。

 月琴の棹を延長して全体を大型化したような外形の(はつ)(げん)楽器。

 2つの小さな共鳴孔を開けた円形の平たい胴から、フレットが並んだ長い棹が突き出ている。弦は金属弦4本が標準で、音域も広い。

 京劇の場合は普通、弾片(ピック)で弾く。また、ギターと同様、指の腹で弾いて柔らかい音を出したり、自分の爪で弾いたりすることもある。

 中阮の原形である「阮咸」は非常に古い楽器で、奈良の正倉院の国宝の中にも豪華な阮咸が収納されているほどである。中国各地の伝統音楽で広く使われている楽器だが、京劇には比較的新しく採用された楽器である。

 京劇音楽の弱点である低音域を補う。また、西洋音楽の「ベース」同様の効果をもたらすが、京劇専用の楽器ではない。

 音色はギターに似ているが、ギターよりフレットがずっと高いので、弦にかける指の力の加減で、表情が付けやすくなっている。

 胴体の穴の形と装飾に多少の種類があり、最近では西洋楽器の「f字孔」(弦楽器の表板左右に開いたf字型の穴)を真似たものまで登場している。また、サイズにより、中阮より小さな「小阮」(京劇では使わない)、中阮より大きく、より低い音が出る「大阮」(京劇でも使う)もある。

中国楽器の常として、単旋律を弾くのが基本奏法だが、中阮の構造上、西洋的な和音(コード)も弾くこともできる。

 

具体例6.大阮(daruan

中阮をさらに大型化した、より低音の撥弦(はつげん)楽器。構造・奏法・調弦は中阮に準じる。

 

具体例7.秦琴(qinqin

 (しん)は、(せん)西(せい)省の古名。

 バンジョーに似た、ポチョンポチョンという音。

 外形はやや中阮に似ているが、全体に華奢な造りである。本来、胴は木製であるが、最近では西洋のバンジョーそっくりの胴体に仕上げた改良型も作られている。

 調弦に厳格な規定はない。

 中阮同様、旋律の要所を部分的になぞって弾片(ピック)で弾く。

 もともと京劇以外の民間伝統音楽で使用されていた楽器である。京劇音楽でもそれほど普及しているわけではなく、一部の劇団の楽隊で人数に余裕があるときに採用されるくらいである。

 フレットの並べ方は、最近のものは半音も弾けるようにびっしり並んでいるが、伝統的なものは全音階のみ弾くため、飛び飛びに並んでいる。

 

 3-2 管楽器類=笛子・嗩吶・海笛子・笙

 

具体例1.笛子(dizi

 竹製の中国式フルート。劇音楽用のものを特に「曲笛(qudi)」とも言う。本来、昆曲など京劇以外の地方劇で使われる楽器だが、京劇でも演目によっては昆曲の旋律を使う場合などに使用される。

 共鳴構造に中国独特の工夫がある。すなわち、旋律を奏でるための指穴とは別に、竹の薄い皮膜を貼った共鳴用の穴が1つ、吹き口に近いところに開けてある。息を吹くと、この薄い皮膜がかすかに震え、ピュルルという独特の音が出る。この竹の薄い膜は「笛膜」といい、消耗品である。

 フルートの指穴にはふたのようなものがついており、ビブラートがつけられないが、笛子の指穴は本体に穴が開いているだけなので、指と指穴との距離の調節でビブラートがつけられる。

 

具体例2.嗩吶(suona

 「チャルメラ」のこと。本家本元のチャルメラは、大音量で、猛烈な勢いで勇ましい旋律を吹く。中国ではもともと戦場で「兵隊ラッパ」としても使われていた。

 奏法は、アシ製の吹き口を口にくわえ、肺と腹と頬の筋肉を総動員して息を吹き込む。指は、リコーダーの要領でそれぞれの穴におき、旋律を吹く。京劇では、曲笛同様、昆曲の旋律を吹くときに使われる。また、もともと軍楽(ぐんがく)の楽器としても使用されただけあって、京劇でも合戦の場面などでよく使われる。この他、雁や馬の鳴き声などの描写にも効果音的に使用される。

 中国の日常生活では、伝統的な結婚式や葬式のときに、この嗩吶が大活躍している。

 嗩吶の吹き口は消耗品で、アシを加工して細い針金を巻きつけるという造り。吹き口は適度に湿っていないと音が出ず、かといって濡らしすぎてもいけない。

 

具体例3.海笛子(haidizi

 小型のラッパ。華やかなチャルメラなどに比べると、京劇音楽ではあまり目立たない存在。

 

具体例4.笙(sheng

 ハーモニカを束ねて吹いたような音を出す。中国の楽器には珍しく、単旋律演奏よりも和音演奏(西洋の和音とは音の組み合わせが違う)を重視した造りになっている。京劇では、昆曲の旋律を演奏するときに使用される。

 奏法は、両手で楽器の下部本体を挟み、斜に構えて口の前に持ち、吹き口から息を吹き込む。竹管のそれぞれの下の穴に笛の要領で指を当て、旋律を吹き奏でる。日本の笙に比べると、中国の笙は一回り頑丈な外見で、吹き口も太い。

 ハーモニカやアコーディオンなどの「フリーリード楽器」は、19世紀初め、ヨーロッパの人が中国の「笙」を分解・研究した末に発明したもの。「フリーリード」とは、薄い金属板のことで、空気の流れで振動させて音を出す構造になっている。

 

 3-3 打楽器類=檀板・単皮鼓(写真・右上)・大鑼(写真・右中)・鐃[金發]・小鑼(写真・右下)など

 京劇における打楽器は大変重要で、風の音、水の音や、本来、耳で聞くことの出来ない暗闇のようなものまで打楽器で表現される。

 打楽器の中で最も重要なのは、「檀板」(tanban)、「単皮鼓」(danpigu)の2つで、併せて「鼓板」と呼ばれる。これらは、西洋音楽の指揮者にあたる「司鼓」(または「鼓師」)が1人で演奏する。司鼓は左手で檀板を、右手で単皮鼓を叩く。

 次に重要なのは金属製の打楽器群で、「大鑼」(daluo;大きな銅鑼)、「鐃[金發]」(naobo;にょうばち)、小鑼(xiaoluo;小さな銅鑼)など、楽隊員が1人1種類ずつ分担して持ち、司鼓に合わせて演奏する。

 打楽器の演奏にも伝統的な厳密な型が存在する。京劇で常用されるリズムパターンは約60種類で、その1種ずつに「急急風」「四撃頭」「紐糸」「水底魚」など名前が付けられている。これらは、主要養生人物の登場、立ち回りの場面など、場面によって使用される型が大体、決まっている。

 その他、日本の太鼓にあたる「堂鼓」(tangu)も曲目によって演奏に加えられる。

 

 3-4 その他、西洋楽器・電子楽器など

 現在はほとんど上演されないが、「文化大革命」中盛んに上演されていた革命的現代京劇では、中国在来の伝統楽器群と一緒に西洋の管弦楽を大々的に演奏に加え、勇壮な感じを出していた。

 また最近は、伝統演目の場合でも、効果音としてシンセサイザーや電子キーボードを楽隊に加える場合がある。これは特に上海京劇にみられる。

 

 3-5 その他

 『孫悟空』では笛子の曲が大半であるため、京胡はあまり使われない。逆に、京胡が主伴奏楽器となる他の京劇の演目では、笛子はあまり使われない。

 中国の劇音楽において、京胡は弦楽器の王者、笛子は管楽器の王者である。京胡と笛子は原則として同一曲内で合奏することはない。ただし、伴奏楽器中№2の地位を占める月琴は、京胡とも笛子とも好んで合奏される。

 一部、楽器の寿命が短いものがあると紹介したが、中国の楽器の寿命がすべて短い訳ではない。京劇では使わないが、古琴(guqin)という木製の弦楽器は寿命が長く、1,000年以上前の唐代の古銘器が、今も現役の演奏楽器として使用できるほどである。

 

4.まとめ

 4-1 京劇に対する人々の好き嫌い

 日本人だからといって歌舞伎や義太夫が好きとは限らないように、中国人も誰でも京劇が好きだとは限らない。これは世代とは関係の無い、好き嫌いの問題である。

京劇の歌詞や文句は、演目にもよるが、主役は徽班の方言、湖北省蕪梅県辺りの方言であるため、北京の人々はなかなか聞き取りづらい。そのため、何度も同じ劇を見に行くこともある。

日本の芥川龍之介は、著作『侏儒(しゅじゅ)の言葉』の中で、名優・梅蘭芳(メイランファン)が演ずる京劇「虹霓関(こうげいかん)中国にある関門の名前)を観た感想として「女が男を猟するのである」と京劇の文学性を絶賛している。一方、芥川と同時期に中国で活躍した小説家・魯迅(ろじん)は、商業演劇としての京劇を厳しく批判して「社戯」(宮芝居)という短編小説を書いている。一般に、中国近代の知識人の京劇に対する評価は、辛口のものが多いようだ。

 第二次大戦をはさんで活躍したドイツの左翼演劇人・ブレヒトも、その「叙事的演劇」論を構築するにあたり、京劇の多大の影響を受けた。

 日本の夏目漱石は、京劇について直接コメントこそしていないものの、京劇についての知識は持っていたようだ。漱石は中国に行った経験があり、恐らくそのときに京劇を見たのであろう。『夢十夜』の第十夜は、京劇『挑滑車(ちょうかっしゃ)』の翻案であると考えられる。

 

 4-2 「地方劇」の王者・京劇

 京劇は大清帝国の首都・北京の繁栄をバックに、20世紀後半に至るまで、一貫して順調な発展を続けていく。

 途中、わずかな障害がなかったわけではないが、名優が輩出し(多くは安徽・湖北の出身者)、発展に次ぐ発展を重ね、わずかに光緒の一時期、河北[木邦]子に王座を脅かされた以外は、常に不動の地位を保ってきた。また、京劇の観客層は北京市民から皇族・満州貴族まで多岐にわたったが、旧中国でこれだけ広い社会階層の観衆をもっていた事も他の中国地方劇には例を見ない。

 京劇のピークは3回ある。

   ① 道光・同治年間(日本の幕末・明治期にあたる)、(てい)長庚(ちょうこう)ら老生(男役)の名優が輩出し活躍した時期。

   ② 清末から民国にかけて、梅蘭芳(メイランファン)ら「四大名旦」に象徴されるように、京劇における旦(女形)の地位が急速に向上した時期。(チン)凱歌(ガイカ)監督の映画「さらばわが愛 覇王別(はおうべっ)()」前半部が描いた時代である。

   ③ 中華人民共和国成立(1949)から文化大革命勃発(1966)までの、いわゆる「十七年」の時期。

京劇は1960年代に入っても、依然として中国文化の主導的立場にある文化の一つであった。例えば、「文化大革命」の発端は『海瑞罷官(かいずいひかん)(歴史劇の演目の一つ)』という新編京劇に対する批判書であり、また「文化大革命」中上演を許された八つの芝居は、すべて京劇であった。

 京劇の衰落は「文化大革命」期、伝統演目(つまり京劇のほとんど)が全面上演禁止となり、多数の名優が迫害死したことを境に決定的になった。

 1980年代初め、中国の開放政策が進み、西洋の音楽・映画などが大量に入ってくると、京劇を含めた地方劇全体は完全に圧倒されてしまった。

 しかし、「沙家浜」「江灯記」「智取咸虎山」などに代表される現代革命京劇は北京の言葉で演じられるので、北京の人々にも観劇しやすくなり、復活を遂げている。

 

4-3 京劇の脚本

 現在、京劇の演目数は1,000以上にのぼる。このうち、常演演目数は300400といわれる。初期の演目の大半は他の地方劇(主に徽戯、漢劇、[木邦]子など)からとったものであるが、北京で生まれた演目も少なくない。京劇の影響力が不動のものとなるにつれ、京劇から他の地方劇に移植された場合も多くなる。脚本の大部分は作者不明で、恐らく無名の芸人達が作ったものと推定されるが、民国以降は一級の文人で京劇の脚本を書く者も現れた。

 

参考ホームページ一覧(順不同)

「京劇の歴史と特徴 Beijing Opera Historyhttp://home.hiroshima-u.ac.jp/cato/KGHistory.html

「京劇とは?」   http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/3282/jingju.html

「新潮劇院」(京劇の唱の旋律と拍子) http://www2u.biglobe.ne.jp/~shincyo/

「京胡」(京胡の写真) http://www.chinamusic.gr.jp/kyouko.htm

THE TOKYO SHIMBUN MEIRYU」(梅蘭芳)http://www.tokyo-np.co.jp/meiryu/20010901m6.html

京二胡の写真 http://home.kimo.com.tw/sapidog.tw/erhu-image/kyoerhu.jpg

「三味線」 http://www.inv.co.jp/~shammy/

「バチ」 http://www3.nsknet.or.jp/~shodatom/bachi.htm

Taiwan 台湾」                                http://shikaku.cplaza.ne.jp/world/taiwan/

「バイオリンをはじめよう-Adagio-」(f字孔)http://www.geocities.co.jp/MusicHall/7005/violin1.htm#v-a

大阮の写真 http://www.geidai.ac.jp/~odaka/gcat/image/232.jpg

秦琴の写真 http://www.chinamusic.gr.jp/sinkin.htm

嗩吶の写真http://huqin.cn1.jp/diary/diary0108.htm

「管楽器」(笙の写真)  http://www.toray.co.jp/square/culture/concert/asia/wind.html

単皮鼓の写真  http://www.media-jp.com/kyogeki/goods/kyogoods.html

大鑼の写真 http://www.gidai.ac.jp/~odaka/gcat/image/063.jpg

小鑼の写真 http://www.geidai.ac.jp/~odaka/gcat/image/064.jpg

「京劇の楽器」 http://home.hiroshima-u.ac.jp/cato/KYY.html

goo 国語辞典」 http://dictionary.goo.ne.jp

 

ニ胡について

山城有加里

 

1.ニ胡の歴史

「胡弓」とは日本独特の呼び方で、中国では「胡琴」(フーチン)と呼ばれ、京胡・板胡・高胡・中胡などさまざまな種類があるが、その中でも代表的なのが“中国ヴァイオリン”とも呼ばれる「ニ胡」である。ニ胡は中国の伝統的擦弦楽器で、楽器の歴史からみればまだまだ新しい。ニ胡の起源はアラビアのルバーブであるとか、唐の時代に西域から伝わった「奚琴」が原型であると言われている。これらが西進したのがヨーロッパの各種の擦弦楽器となり、東進したのが東南アジア諸国や中国、朝鮮、そして日本にも伝来したと言われている。当時のニ胡は二本の弦の間に竹片をはさんで擦り合わせることで音を出していたので、音量も小さく音程も不安定で、譜面というものも確立していなかったため、一般庶民の間で流行していた。また外人とのコミュニケーションの道具としても活躍し、言葉の通じない相手と音楽を通じて意思疎通を行っていたと言われている。宋の時代になると「稽琴」と呼ばれるようになり、元の時代には遊牧民族(胡人と呼ばれた)が中原地区に侵入したことで、馬の尻尾の毛を張った弓で演奏する技術が導入され、この頃には「馬尾胡琴」と呼ばれていた。唐の時代の大きさは現在のニ胡よりも一回り小さく、ほぼ同じような大きさ・形になったのは明の時代になってからのことであり、特にニ胡の使用が盛んになったのはこの頃からで、琉球を経由して日本に伝来したのもこの頃(日本の江戸時代)である。しかし、江戸時代の文献には、琉球にもたらされた胡弓は、南蛮楽器のラヘイカであると述べられており、演奏の仕方や楽器の形態から考えて中国のニ胡の系統とは異なり、タイのソーサムサイ、インドネシアのルバーブなどの東南アジアの擦弦楽器の方が近いと記されている。これらの事から中国のニ胡と日本の胡弓はまったく別のものである。

 

 2.日本の胡弓

前文の続きになるが、日本の胡弓は三味線に似て小さく、三本または四本の弦が張ってある。歴史的には三弦の胡弓の方が古い。日本の胡弓は中国の様には広くは伝来しなかった。なぜなら日本人は、音と音の間に情緒を感じ、胡弓の様な音の繋がる擦弦楽器は、広く好まれる楽器ではなかったと伝えられているが、現代では音に対する美意識や感覚が変化してきているので、あらためて評価されている。胡弓音楽成立の過程で主要な役割を果たしたのは、地歌・筝曲の盲人演奏家で先人の偉業によって日本の胡弓の伝統的な演奏方法が確立され作品が作られていった。江戸時代の文献には、幾つかの流派や名人の話が思いのほか多く見られ、もともと三曲合奏といえば三味線・筝・胡弓の三つの楽器による合奏スタイルのことで、後に胡弓のかわりに尺八が入っておこなわれるようにもなった。日本で主に使われているのは富山や鳥取など色々な地域の民謡の演奏である。他にも徳島の阿波踊りで三味線のかわりに胡弓で演奏している人もいる。このように地域によっては盛んに使われているところがあることが分かった。

現代では様々なジャンルの演奏家とのセッションや独特の音色をいかしたオリジナル曲が数多く発表され、テレビではCMやニュースのテーマ曲、「もののけ姫」などの多くの映画でも演奏されておりよく聴くようになったが、ほとんどの人達は注意して聴いていないだろうし、ヴァイオリンと間違えて聴いている人も多いんではないかと思う。

 

3.二胡の構造.

本体部分は木製でできており、主に琴杆・琴軸・琴筒・弓・弦・千斤・琴馬という部分からできている。まず琴杆はニ胡全体を支える支柱の役割を果たすと同時に、弦を指で押さえるときに左手を当てておく場所である。琴軸は弦の張り具合を変え調弦する。上が内弦の、下が外弦の調節に使われる。弦は琴杆にそって張ってあり、普通はニ胡用の金属弦が使われている。琴筒は音を出すのに最も重要である。形は六角形のものがほとんどで、最近では八角形のものもある。この場所で弦と弓の摩擦によって発生した音を共鳴させ、胡弓の表情豊かな音色を作り出す。そしてより音が大きく綺麗に響くように、口の広い方には中国産のニシキヘビの皮が張ってある。特にうろこが大きい方が響きがよいとされているが、近年ニシキヘビの減少によりなかなか手に入れにくく、なかには犬の皮で作られたのもあると言われている。弓は白馬の尾がもっとも適している。二本の弦の間に挟まれており、外弦を弾くときは弓の外側を、内弦を弾くときは内側を弦に擦りつけて演奏する。千斤は位置によって、弦が音を出せる範囲が決まる。また張り具合は音色に大きく影響する。千斤は糸で作られているものと、骨や硬質の木で作られたものの2種類がある。前者は位置を動かすことができるが、後者は固定されている。奏者の指の長さなどによって位置は変わるが、だいたいのニ胡は下の琴軸から琴筒までの約3分の1くらいになっている。琴馬は弦と蛇皮の間に挟まれ、弦で発生した音源を琴筒に伝達する。よって琴馬の形や品質、位置はニ胡の音質や音量に直接関係してくる。主に松や竹、軟木から作られるが、松で作られたものが最も適している。前文から分かるようにニ胡の音色はこれらの材質の良し悪しや張り方によっても随分違ってくることが分かる。

ニ胡はこのような構造だが、京胡や板胡、高胡、中胡などはまた少し違った構造をしていて、形や使われている材料などが違ってくる。それによって音色も微妙に変わってくる。

 

 4.最後の胡弓弾き

これは胡弓に関連した童話で、「ごんぎつね」などをかいた新美南吉の作品である。短い話なので紹介しようと思う。

旧正月になると 、この村の百姓で鼓や胡弓の巧い者は二人ずつ組になって門附の旅に出ます。一二歳になった木之助は、胡弓を習い、鼓の松次郎と組になって、はじめて近くの町へ門附へ出ました。町の入口の餅屋の門から始めて、一軒一軒、軒伝いに二人は胡弓と鼓を鳴らし、唄を謡ってお銭をもらっていました。昼頃になり、味噌溜の札のかかった大きな屋敷に入りました。二人はそこの主人からほめてもらい、十銭ずつもらった上にごちそうにまでしてもらいました。木之助は、来る正月に胡弓を弾きに町へ行き、必ず味噌溜の看板のある門をくぐりました。木之助は胡弓がしんから好きでしたし、巧かったのです。味噌溜の主人もそれを楽しみに待っていてくれました。長い年月が過ぎて二人は年老い、門附は時代とともにはやらなくなって、村人も一人やめ、二人やめと遠ざかっていきました。永年の相方、松次郎もやめると言い出し、木之助は一人で門附に出かけるようになりました。味噌溜の主人もすっかり老人になりました。木之助は、父親が亡くなった年と自身が感冒をわずらった年の二年ほど門附をやめていましたが、家族の反対をおして味噌屋の主人に聞いてもらおうと、また町へ行きました。しかし木之助の胡弓の最後の聞き手であった味噌屋の主人は亡くなっていたのです。木之助は、仏前で亡くなった主人の供養にと一心に胡弓を弾いきました。帰り道、聴く人のなくなった胡弓など持っていて何になろうと、古物屋に売ってしまいました。しかし手放した瞬間から後悔し、引き返して買い戻そうとしました。ところが倍の値段をふっかけられて買い戻すこともならず、重ねて大きな失意を味わうのでした。

この童話はあまり聞いた事がないと思う。私も初めてみたので取り上げてみた。中国には二胡に関する童話や説話などがたくさんあると思う。

 5.まとめ

まず胡弓を題材にしようと思ったのは、小さい頃からピアノやヴァイオリンをやっていたので楽器が好きだから。胡弓という名前も知らなかったので興味を持って調べることができた。ただ今回はインターネットの資料しかないので、後期は本も参考にしたいと思う。レポートを書きながら自分の知らなかったこと、特に普段の生活の中で胡弓を聴いていたことが分かった時は少し驚いた。私の中で胡弓を気に入ったのはやはり音色だった。他の楽器とはまた違う体になじむような音が私は好きだ。今回のレポートを通じて胡弓がどんなものかよくわかったし、また一つ好きな楽器が増えた。これからもテレビをみるときは少し音なんかも気にしてみたいと思う。

 

<参考文献>

ttp://homepage1.nifty.com/pio/kokyu_index.htm
www.yang-p.co.jp/YangData/P1data/page1.html
www.be.wakwak.com/~kana/erhu/
www.gon.gr.jp/inpaku/douwa/10_saigo.html   

 

中国茶について

鈴木春香                     

 

1.        中国茶の効果

中国茶にはカテキンという成分が含まれています。カテキンには活性酸素の働きを抑える抗酸化機能があります。また、活性酸素を中和し、体外に排出する効果ももっています。カテキンの抗酸化機能については、動物実験ですでに実証済みです。特に、消化器系のガンの抑制に効果的だというデータがあります。また、一万人を対象にして行われたある免学調査では、毎日お茶を10杯飲む人はガンにかかりにくいという結果が得られています。  

2.        中国茶の種類

広大な中国には、さまざまな銘茶を生む気候風土があり、悠久の歴史、文化とこうした土壌がおいしい中国茶を作り出していると言われています。中国には1千種類以上もあると言われるお茶がありますが、色や発酵の度合いによって6種類にわけることができます。

■緑茶:(不発酵)‥‥中国でもっともポピュラーなお茶

中国で一番生産量が多く、また、品種の多さも世界一を誇っています。中国緑茶は、日本緑茶に比べて味も茶葉の形状もさまざま。日本は採った葉茶を蒸すのに対し、中国緑茶は釜煎りするのが主流です。また、日本茶は味を重視して作られていますが、中国緑茶は味と香りに重点をおいて作られているのも違いといえます。代表的なものは西湖龍井や蒼螺春などがあります。

■紅茶:(全発酵・完全発酵)‥英国の紅茶文化も中国紅茶がなければ始まらなかった

最初に紅茶が生産されたのは福建省で、そのルーツは16世紀頃にまでさかのぼります。しかし、19世紀頃には中国よりもインドやスリランカで多く生産されるようになり、中国紅茶のイメージは薄くなってしまいました。中国紅茶は大きく分けて、工夫紅茶、小種紅茶、紅砕茶の3種類に分かれます。工夫紅茶は祁門紅茶に代表される伝統的な製法によって作られている茶葉を指していて、工夫という言葉には、ていねいに作られたという意味があります。小種紅茶は福建省産の紅茶で、正山小種が有名。茶葉を乾燥させるときに松柏のスモ-キーフレーバーをつけます。英国貴族が愛飲していたといわれています。

■黒茶:(後発酵・推積発酵)‥‥黒茶は古いほど価値が出て味わい深くなる

黒茶は緑茶、紅茶に続いて中国で生産量が多いお茶です。香港では、飲茶の後に飲む光景が見られます。そのわけは、消化を促進し、体内の脂肪を洗い流す効果があるからとも言われますが、その有効成分自体ははっきりとは証明されていません。でも、空腹状態で飲むのは禁物です。中国では「削胃」と表現するほど、その作用は強いものなのです。黒茶の形状には、散茶という茶葉がばらしてあるタイプや、運びやすく固めた緊圧茶などがあります。黒茶は基本的に発酵が進むと味にまろやかさと深みが加わり、香りも丸みが出て微妙なハーモニーを醸し出します。代表的なものはプーアール茶や千両茶などがあります。

■青茶:(半発酵)‥‥日本人にもっとも馴染み深い中国茶

日本人に馴染み深い烏龍茶や鉄観音は、この青茶に属します。本来、烏龍茶は「烏龍」という品種の茶樹から作られるお茶だけを指していましたが、最近では青茶の総称として使われています。青茶に使われる茶樹は多く、その数は百数種類以上あるといわれていますが、生産される地域は福建省、広東省、そして台湾に限定され、よく飲まれている地域もそれに準じています。代表的なものは鉄羅漢や凍頂烏龍などがあります。

■黄茶:(後発酵・推積発酵)‥‥かつては皇帝への献上品だった貴重なお茶

中国各地で作られているにもかかわらず、入手困難な黄茶。歴史が古く、唐の時代からの記録が残っています。芽だけを使った黄芽茶、若茶で作る黄小茶、もう少し成長した葉を使う黄大茶の3種類があります。湯の中で見せる茶葉の動きが美しく、かつて中国の皇帝あるいは身分の高い人々がガラス器で淹れ、茶葉の美しさをめでて楽しんでいました。

■白茶:(軽発酵・弱発酵・微発酵)‥‥珍しいお茶

白茶は、主に摘み取った葉を月光浴をさせて自然乾燥を待つのが普通です。細かい産毛が生えているのが一番の特徴です。中国では、体内の悪い毒を取り、解熱作用があるとされ、夏にも好んで飲まれています。代表的なものは寿眉や白牡丹などがあります。

□花茶‥‥日本でもおなじみのジャスミン茶をはじめとする花の香りを楽しむ中国茶

6大茶の中には入りませんが、中国茶の花茶もわすれてはいけません。花茶は2種類に大別され、香りを吸収しやすいお茶の特性を利用し、茶葉に花の香りを吸着させた茉莉花茶(ジャスミン茶)のようなものと、茶葉に花の香りをつけるだけでなく、花そのものが入っていて、エキスも一緒に抽出して飲む菊花のようなものがあります。

3.        中国茶の淹れ方

中国茶には何通りもの淹れ方があります。それぞれの茶葉が個々の特徴をもつ中国茶には、その茶葉の特徴に合った茶器や淹れ方があるのです。

〇青茶・黒茶‥‥素焼きの茶器が向いています。素焼きの器は香り移りがしやすいので、本来は茶葉ごとに専用茶器を用意します。香りは聞香杯を使って楽しみます。

〇白茶・黄茶・紅茶‥‥香りの高いこれらのお茶は素焼きよりも香りを吸収しにくい陶器が向いています。

〇白茶・黄茶・花茶‥‥葉茶の形や動きを楽しむ茶葉はガラス製の茶器が向いています。

◎また、中国茶をおいしく淹れるために重要なのは、湯の温度。湯の温度が合わないと味も変わってしまいます。緑茶・白茶・黄茶は75~85度、青茶は85~95度、黒茶・紅茶は100度を目安とします。 

まとめ:私は以前から紅茶が好きで、その紅茶の起源が中国にあると知り、興味を持ったので中国のお茶について調べてみようと思いました。調べてみると、豊富な茶葉の種類だけでなく茶器や茶葉の淹れ方にまで大変多くの種類があり、中国の食文化の深さを感じました。また、味だけでなく香りや見た目の美しさへのこだわりが中国茶の楽しみだな、と思いました。

参考文献:「香りを楽しむ中国茶の辞典」成美堂出版

「中国茶の世界」http://www.tea-jp.com/tea/   

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中日の歴史認識について

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