中国の文化② (中国の文化①へ

1.     中国と日本教について

2.     陰陽五

3.     中国1年代の美術について

4.     現代の国の美容について

5.     中国の

6.     三国志につ

7.     日本と中国の食化について

8.     中国茶につ

9.     中国の姓と名つ

10.  中国の三国につ

11.  中国の家族と日本の族の違い

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中国と日本の宗教について

―仏教を中心に

経営学部国際経営学科1年 村田佳也

キーワード:  日中の宗教関係 浄土教

1.      はじめに

仏教伝来(正式伝来で民間ではそれ以前から入って来たであろう)は欽明朝である。 欽明十三年(552年)に百済の聖明王から仏像と経典が献上された事に始まる。この時、朝廷はさぞ困ったであろう。 仏教に関する知識もないので、仏像にしても経典にしてもどのように取り扱ったものか戸惑ったことだと思う。 蘇我氏は「中国ではみんな信仰している。御利益もある。」という認識である。 翻って物部・中臣は新たな神を信仰するのに難色を示す。元々、日本で言う「神」は各氏族の先祖なのである。その神を祭る事により、一族に繁栄をもたらすと考えていたわけである。 しかし、仏教の当初の理解では、聖明王が「信じるものには誰にでも御利益がある。」と言うところであろう。 つまり、「誰にでも御利益を与える神」という認識である。それは「蕃神」と表現されるところからも判るように、 「客神」の一つという認識である。「誰にでも御利益がある」と言う違いが有るが、祭り鎮める対象であると理解したのだろう。 この意識が、その後も日本人の意識に連綿と受け継がれていく事になる。当時、疫病に対する有効な解決手段がない状態では、「祟る」と言うことが強烈に意識に作用する。 科学の発展した現在でも「祟る」と言う言葉は死語ではない。そこからもわかるように、祟らせないためには祭るのが一番良く、 祭れば御利益を与えてくれるなら、祭らなければ祟ると言う認識を抱いたろう事は想像に難くない。

2.     浄土教

中国での起源 中国では2世紀後半から浄土教関係の経典が伝えられ、5世紀の初めには廬山の慧遠(えおん)(334 - 416)が般舟三昧経 にもとづいて白蓮社(びゃくれんしゃ)という念仏結社を作った。やがて浄土三部経を根本経典として、山西省の玄中寺を中心とした曇鸞(どんらん)(476年頃 - 542年頃)が『浄土論註 (往生論註 )、道綽(どうしゃく)(562 - 645)が『安楽集 』、善導(613 - 681)が『観無量寿経疏 』を著し、五濁悪世の末法の世に適した称名念仏を中心とする浄土教が確立された。善導は活動拠点を都の長安に移し、龍門の奉先寺の大仏造営に参画している。のちに慧日(680-748)や五会念仏の法照(? - 777年頃)らが出て浄土教を禅などの諸宗と融合する傾向が助長された。

3.     日本でのその後

日本では7世紀前半に浄土教(浄土思想)が伝えられたが、9世紀前半に円仁(794-864)が中国五台山の念仏三昧法を比叡山に伝えた。やがて良源(912-985)が極楽浄土九品往生義、源信(942-1017)が『往生要集』を著して、天台浄土教が盛行するにいたった。藤原頼通が築いた平等院も浄土思想に基づくもの。

平安時代の浄土思想は、主に京都の貴族の信仰であったが、空也(903-972年)は庶民に対しても浄土教を広め、市の聖と呼ばれた。「一人の念仏が万人の念仏と融合する」という融通念仏(大念仏)を説いた良忍(1072-1132)は融通念仏宗の祖となった。天台以外でも三論宗の永観(ようかん)(1033-1111)や真言宗の覚鑁(かくばん、1095-1143)のような念仏者が輩出した。

平安末期から鎌倉時代に入ると、法然(1133-1212)が『選択本願念仏集 (選択集)を著して浄土宗を開創し、『無量寿経 』『観無量寿経 』『阿弥陀経 』を根本経典と制定した。これを「浄土三部経」と称する。弟子の親鸞(1173-1262)は『教行信証 』等を著して浄土真宗の祖となり、一遍(1239-1289)は諸国を遊行して時宗を開いた。

そして現在まで、様々な年中行事として色々な事が生活の中にしんとうしている。

4.     まとめ

浄土教が日本に中国から日本に入ってきた事によってその後の日本の歴史に大きな影響をもたらしている。例えば、前述のような建築物を建てたり。現在も仏教政党があったりで宗教の日本伝来は大きな影響をもたらしたいる。そして普段宗教などをあまり、意識していない人も知らない間に宗教行事を行なっているということを再確認した。

参考文献

1.愛知大学現代中国学部 2006.4.「ハンドブック 現代中国語 第二版」あるむ

2.出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E6%95%99

3.朝日新聞

4.愛知学院大学宗教研究会 2004419日 「宗教と人間」 大東出版社 

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陰陽五行説

―占いの元について

経営学部経営学科1年 福井章央

キーワード:  陰陽五行説 陰陽(いんよう)説 五行説 太極図

1.はじめに

『陰陽五行説』という言葉は、『陰陽(いんよう)説』と『五行説』とが組み合わされたものですが、二つの説が別々に論じられないほど混り合ってしまったので、現在では陰陽五行説として一つに考えられています。

2.陰陽説について

 『陰陽説』は、日本に伝来して陰陽道(おんみょうどう)と呼ばれていますが、もともとは中国最古の王とされる伏羲(ふくぎ)がつくったといわれています。

 これは、世のなかの事象がすべて、それだけ独立してあるのではなく、陰と陽という対立しました形で世界ができあがっていますと考える原理です。そして、陰と陽はおたがいに消長をくりかえし、陽が極まれば陰が萌(きざ)してくるというようにして新たな発展を生むという考え方です。

 要するに、世界というものは、明暗、火水、天地、表裏、上下、凸凹、男女、剛柔、善悪、吉凶などの一対から成り立っていますと考え、たとえば人間の精神は天の気、つまり陽で、肉体は地の気、つまり陰だということになり、生はその精神と肉体との結合、死は両者の分離と説いています。

3.五行説について

『五行説』というのは、夏の国の聖王、禹がつくったといわれ、禹の治世のときに洛水からはい上ってきた一ぴきの亀の甲羅に書かれた文様(洛書)から五という数を悟り、国を治めるのに五つの基本原理を思いついたというのです。

 禹が定めた五行というのは、

「水は土地を潤おし、穀物を養い、集まって川となって流れ、海に入って鹹(かん:しお)となる。火は上に燃えあがり、焦げて苦くなる。木は曲ったものも真直ぐなものもあり、その実は酸っぱい。金は形を変えて刀や鍬となり、味は辛い。土は種を実らせ、その実は甘い」

 というもので、禹はこのように、『木火土金水』と五つの『味』、五行五味の調和を政治のプリンシプルとしました。

この考えかたが、のちに斉国の陰陽家鄒衍(すうえん)によって、五つの惑星と結びつけられ、さらにまた万物に当てはめられて、観念的な五行説として完成したのです。

   次に五行(五気)についてまとめると次のようになります。

(木気)

木が持つ形態や性質を観念化したものです。一例として曲がったり真っ直ぐになったりすることがあげられます(樹木が生長する様子)。春を象徴します。

 

(火気)

火が持つ形態や性質を観念化したものです。一例として明るく熱く燃え上がることがあげられます。夏を象徴します。

 

(土気)

土が持つ形態や性質を観念化したものです。一例として実のあるものを持つことや作物を植えたり取り入れたりすることがあげられます。季節間の推移を象徴します。

 

(金気)

金属が持つ形態や性質を観念化したものです。一例として冷たく硬いことがあげられます。秋を象徴します。

 

(水気)

水が持つ形態や性質を観念化したものです。一例として冷たく潤いがあり流れ下ることがあげられます。冬を象徴します。

   さて、先に五行(五気)は循環すると言いましたが、この循環の仕方に三種類あります。相生と相剋と比和です。相生と相剋については別に詳しく説明いたしますがそれぞれについて簡単に説明すると次のようになります

相生

相順応する関係です。今流の言葉で言えば「相性がよい」関係です。

 

相剋

相手を剋する関係です。今流の言葉で言えば「相性が悪い」関係です。

 

比和

同気が重なる関係です。そのためにその気がますます盛んになります。それが良い方になる場合にはますます良くなり、悪い方になる場合にはますます悪くなります。

五行とはこの世の森羅万象を五つの観念化したグループに分類したものと言えます。陰陽五行説とは古代中国で別々に成立した陰陽説と五行説は結びつき、宇宙生成原理はもちろん人間の生き方(道徳)をも含むものに発展しました。陰陽五行は初めは四季の変化を説明するのに使われたようです。それによると、 この世の初めは何も区別できない混沌とした状態(太極)だったが、その中から軽く澄んで暖かい気((陽気)が上昇して「天」に、重く濁って寒い気(陰気)が下降して「地」になり、この陰陽二気は一年という周期をもって消長し、その間に木・火・土・金・水という五つの気が生じ、これらも消長することで四季の別ができる、と考えたようです。 宇宙に存在する森羅万象を陰陽二気の働きによって説明し、次に五行による運行により判断を下すという思考スタイルと言うことができます。

4.太極図勾玉型の白い部分が「陽」を、黒い部分が「陰」を表します。上昇する「地(陰)」の気と下降する「天(陽)」の気が象徴されており、この流動が万物を生じます。

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5.まとめ

  僕はシャーマンキングという、漫画を読んでこのことに興味を持ちました。この世界のものは実際に「五行」によって成り立っていると思うし、それを考えた人もすごいと思いました。

 火と水がまったく逆というわけではないけど、水は火を消せるし、火は水を蒸発させられる。それによってまた新たなものが生まれるのはとても不思議な感じがした。

参考文献

1.     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD%E9%81%93

2.     http://homepage1.nifty.com/haruakira/onmyoudou/f_02.html#陰陽五行説

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中国1990年代の美術について

―絵画を中心に

経営学部国際経営学科1年 木村英生

キーワード:  六四天安門事件 方力均 徐氷 陳丹青

1.六四天安門事件について

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、

1989年4月に始まった中国の民主化運動は「六四天安門事件」の悲劇に終わった。

六四天安門事件とは1989年6月4日に中華人民共和国の北京市において、天安門広場に集結していたデモ隊が人民解放軍によって殺傷された事件、あるいは、この事件に先立ってなされた学生や知識人らに民主化を求めるデモ活動を包括していう。この事件のあと美術家たちの中には、自己を政治や社会問題から意識的に隔離して、より個人的な内面の追及に向かっていったものもいた。その代表に方力鈞がいる。

ここで方力均の作品を少し紹介します。

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彼の画く『顔』は、静寂の中に人間の喜怒哀楽を表現し、

いつも強烈なイメージを残します。

図:http://blog.mjjq.com/archives/713.html 

2.方力均について

「現代中国の文化」によると、方力均は河北省邯鄲(かんたん)に生まれた。1985年、中央美術学院版画系に入学する。彼が大学を卒業した89年は「天安門事件」がおきた年で、彼は学生としてこの事件を北京で体験した。版画から転じて油彩画の製作を開始し、92年以降、海外開催の中国展や重要な国際展に出品し、欧米の藝術関係者から注目を集めた。日本では、94~95年の第4回アジア美術展で初めて紹介された。その後、96年に新作を含む回顧展「方力均―物語のなき時代の人間像」(東京)が開催されている。

北京に在住し、ヨーロッパの夫人がマネージメントを行っている彼の作品は、国内よりむしろ国外市場を意識してつくられているともいえよう。1990年代は天安門事件以降の政治的な空白期で多くの若者が無力感や倦怠感にとらわれていた。こうした時代状況を巧みにとらえた、社会を冷ややかに観察する「シニカル・リアリズム」が現代中国における美術潮流の一支脈をなし、また海外で新しい中国美術として興味をもって迎えられた。

彼の他にも活躍した画家に徐氷や陳丹青がいる。

3.徐氷について

「現代中国の文化」によると徐氷は、四川省重慶の知識人の家庭に生まれた。知識青年として農村に下放された。その後中央美術学院に合格、古元から木版画を学んだ。卒業後は版画教師となる。1988年10月に中央美術館で開かれた「天書―析世鑑」(インスタレーション作品)は版画から一転して立体物に転じた徐氷の鮮烈なデビューとなった。天安門事件後の1990年にアメリカにわたり、以来アメリカで作家活動を続けている。4000余の「偽漢字」を木活字で製作した「天書」、アルファベットを漢字の表記体系に変換する作品のシリーズなどで注目を集めている。東京画廊での個展(1991、1997)、NTTICC「バベルの図書文字・書物・メディア」(1998)、福岡アジア美術館「第1回福岡トリエンナーレ」(1999)に出品するなど日本や欧米で活躍している。

 代表作の「天書―析世鑑」は、存在架空の漢字による、天からの警告ともいわれる。混乱した中国の文明社会(すなわち「偽」の漢字の氾濫)へむけて、この作品によって問題提起したとも読み取れるだろう徐氷自身によれば、「ふつう(字)は、妨げたり破壊したり混同させることによって人の思考に影響を与える・・・・・・」という。

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図:http://faam.city.fukuoka.jp/cgi-bin/exhibition/exhibition.cgi?eid=10048 

4.陳丹青について。

「現代中国の文化」によると、陳丹青は、広東省に生まれた。小学校卒業時期は「文化大革命」にあたり、江西省農村に下放され、ポスター・広告などを描いた。1978年に中央美術学院油絵系研究生班に合格、卒業制作ではチベットに現地取材し、「西蔵(チベット組絵)」を製作した。夫婦が乳飲み子を背負って街に出かける様子、敬虔なラマ教の信者が聖地に向かって礼拝を行う姿などを、高い技術などを駆使して油絵に描いている。それまでチベット族の生活をこれほどリアルに描いた作品は少なく、展覧されるとはたしてセンセーションを巻き起こした。厳しい風土の中で生きるチベット族の普段気付かない日常生活のなかの真実をとらえて、「郷土現実主義」と呼ばれた。

 陳丹青は、文革中に表現された「リアリティー」と異なるもう1つの「精神的真実のリアリズム」を表現したいと述べている。「西蔵組画」は、文革以来の教条主義を否定して、人間生活の真実や人道的な主題を追及した作品であり、彼の代表作となった。1982年、アメリカに渡ったが、90年代末になって海外生活を終えて帰国し清華大学美術学院教授に迎えられた。

5.まとめ

中国の文化はいろいろな背景によって制限されていたらしい。しかし、その中からも新たな文化が誕生した。僕の調べた方力均や徐氷などがその代表であるらしい。彼らの作品は今までにない斬新なものばかりで、素人の僕から見ても何か作品に引き込まれていくような感じがした。彼らを調べていて1つ気付いたのは、彼らが全員小さなころからその才能をみせていたことだ。やはり芸術系は努力もだが、生まれつきの才能も必要であるように感じた。

僕は今まで自分の国の文化にすら関心が薄かったので、外国の文化に興味を持つことなどまったくなかった。でも、今回中国文化事情の授業を受けレポートを作成するにあたっていろいろな文化人を調べて以前よりは文化とゆうものに対して少し興味が持てた気がする。

参考文献

1.孫玄齢 潘世聖 陸偉栄 魯大鳴 2005年 「現代中国の文化」

2.天安門事件 - Wikipedia 別ウィンドウで表示

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E5%AE%89%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6 

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                現代の中国の美容について

経営学部国際経営学科 永野裕也

キーワード   美容院、男性化粧品、ファッション、

1、はじめに

日本では大学生が美容院に行ったり、化粧品を購入したり、することはごく普通の事であるが、中国では学生がフャッションに夢中になるのはあまり好ましくないとされ、学生自身もこれまで美容に気を遣うことはそう多くはなかった。だが最近では化粧品や美容関連の消費において、低年齢化が急速に進んでいる。化粧品や美容関連の消費に見られる低年齢化は注目すべき点である。上海のような大都市でも以前は大学周辺には本屋ばかりが並んでいたが、ここ1、2年の間に学生を目当てにしたファッション関係の店が姿を現すようになった。美容院のカット代や販売されている化粧品の価格は学生向けとはいえそれほど安くはない。これらの店を利用する学生は家庭の経済的条件が恵まれている層や、アルバイトで収入を得ている層であると考えられている。ある美容院の顧客リストによると、1000人を超える利用者の年齢層は18歳から60歳と幅広く、毎月一人あたりの平均消費額は400元(約5500円)前後に達している。40歳から50歳代の高年齢層向けのスキンケア関連の需要も伸びており、中国でも「美肌」はもはや若い女性だけの関心事ではなくなっている。上海などの地域では男性化粧品も出回り始め、美容が男性の注目をも集めるようになった。沿海部の大都市を中心に化粧品や美容にお金をかけることが一般市民の生活に広く受け入れられるようになったといえる。一人あたりの消費額の増加と消費層の広がりは中国美容市場、化粧品市場の規模を、今後も拡大していくと考えられる。商品別に見ると、市場に出回る化粧品の種類が年々多彩になってゆく中で比較的品数の少ないのが、メイク落としなどのクレイジング用品である。店頭に目にするものは、そのほとんどが日本からの高額の輸入品である。また、消費者の間でも、メイク落としを使わずに、洗顔フォームのみで済ませるのが、一般的な習慣になっており、メイク落としは、その使用方法すらまだあまり知られていないのが現状である。メイク落としの効果や使用方法を効果的に宣伝し、適正な価格で市場に広く普及させることができれば、今後この商品を市場に広く普及させることができると考えられます。

2、美容院 

旅行者も体験する裏ビジネスというと1980年代はやっぱりチェンジマネー、日本円やドルを人民元に換えたりするもの、だましも多いが旅行者にとってはありがたいものもあることを確かだった。1990年代からはバッタもの、コピー商品。テープやCDは堂々とコピー商品が売られていたし、安いし助かった。最近では、パソコン関連のものが外見洋服屋の中から出てきたりするらしい。コピー商品については中国政府も先進国のモラルとして取締りが厳しくなっているが、やっぱり安いので安全に買えたらうれしい。外見と中身が違うといえば、1996年に中国に行ったときにやたらと美容院が増えていた。美容院通りのように乱立している場所もあり、しかも夜になるとネオンがチカチカして、遅くまでやっている様子だった。確かにそこは美容院で洗髪する客も多いが、副業か本業か知らないがセックス産業の店であるケースも多いらしい。

3、男性化粧品

中国で生産許可証を取得している化粧品企業は2004年末時点で約3140社である。年間売上高は約850億元(約11050億円)、15000種類あまりの製品がある。化粧品の生産割合としては、スキンケア商品38%、ヘアケア商品30%、となっている。現在中国人男性の中で化粧品を使用している人は、全体のわずか12%で、そのほとんどが都市部に集中しており、都市部では約60%の男性が化粧品を使用しているという。しかし、現在男性が一般的に使用している化粧品とは、女性が使用しているようなファンデーションやメイクアップ商品ではなく、主にシェービング洗顔フォーム、コロンなどである。中国のある化粧品関連協会の話によると、2005年の男性用化粧品売上高は100億円に達すると見られている。さらに今後5年間は毎年96%の割合で成長を続けるという。

4、ファッション

中国の服といえば人民服。というのはもうはるか昔の話となってしまった。10代や20代の、特に女の子はファッションに気を使っているようだ。テレビを見ていても、そのまま日本にきても十分通用するような活躍している。中国は日本に以上に貧富の差が大きい。それは、貧しい人は日本人が想像もできないほど貧しいことを意味するが、豊かな人は一般に日本以上に豊かということも意味する。たとえば、大学に通うからといってみんなお金があるというわけでなく、日本以上の学歴社会の中国では大学に入るために借金をすることもあるという。つまり、大学にいけるかどうかは、貧しいままか、豊かになれるのかの分岐点のひとつでもあるのだ。大学のキャンパスを歩いていると、中国風のおしゃれな服装をした学生が大勢いる。町を歩いていても、おしゃれな服を着た女性は大勢いる。だからといって、彼女や彼らはお金持ちかというと、必ずしもそうではないという。中国人は、洋服にお金をかける傾向が強いようで、見た目は日本人と同じような服を着ていても、住んでいるところはそうではない、ということも多いらしい。

4、感想

今回、中国のファッションと美容について調べてみて、今分かることは中国人はとてもオシャレであることが分かった。僕の今までの中国のイメージとしては、発展途上国なので国民は洋服やなんかにお金をかけていられず、生活していくのに精一杯の生活をしているかと思っていた。が、違った。もしかしたら日本よりも洋服代は多いのかもしれない。しかし、決してどの家庭も洋服が買えるからといって裕福である訳ではなかった。やっぱり日本よりも貧しい。だけど、これからも美容やファッションに興味をもってもらって、中国=美容と成り立つような国になってもらいたいと思った。

参考サイト

    http://www.ne.jp/asahi/salaam/niki/tx/chongguo3.html 

    http://www2s.biglobe.ne.jp/~shuilong/m/sndn/sndn34.html

   http://research.rakuten.co.jp/china/report/20050601_03/

    http://research.rakuten.co.jp/china/report/20041129/

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中国のお茶

―ジャスミンティーを中心に

経営学部経営学科 森 俊郎

キーワード ジャスミン茶の良さ,ジャスミン茶の葉の写真,ジャスミン,飲むジャスミンの花 

1はじめに

 ジャスミンティーは体に良いとよく聞くが、果たして本当に良いのか?また、良いので

 あればどのような効果を得ることが出来るのかを調べて見ました。

2ジャスミンを中国語では?

 ジャスミンはアラビア語で、中国語では茉莉花茶(ムーリーホワチャ)あるいは香片茶(シャンピェンチャ)といいます。

3ジャスミンとは?

ジャスミンティーで知られているジャスミンですが、モクセイ科の植物です。モクセイ科の植物には、キンモクセイやライラックなど良い香りで知られている植物があります。ジャスミンも同様に花からいい匂いがすることで、昔から愛されてきた植物です。ジャスミンの花の見た目は、キンモクセイのようで色も白か黄色がほとんどです。どちらかというと花を見て楽しむのではなく、花からとれる油をアロマとして使ったり、花をお茶に入れて香りを楽しんで飲んだりすることに使われています。ジャスミンの花はからアロマ用の精油を採るには、かなりの花を必要とするために貴重です。また、ジャスミンという花の種類はたくさんあり、アロマや香水として使われる品種は「ソケイ」で、ジャスミンティーで使われている品種は「マツリカ」と用途によって品種を使い分けているんですよ。

参考引用:ジャスミン  http://www.oisi-syokuzai.com/ 

4ジャスミンの種類

参考引用:ウィキペディア フリー百貨辞典

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%B3   

5ジャスミンティーの成分

基本的に中国茶と同じです。ジャスミンの香り成分としてベンゼンアセテートなどの芳香性精油成分が含まれています。

6ジャスミンティーの作用

神経を刺激し、胃腸の働きを盛んにしたり、脂肪溶解、殺菌、アルコールの解毒、覚醒、リラックス作用があります。

7ジャスミンティーがもたらす効果

食欲不振、お酒を飲んだ後によく、にんにく入りの油っこい中国料理に最適です。自律神経の緊張を和らげリラックスし集中力を高める効果があります。目覚めの悪い                              時、ぼーとして集中できない時や仕事などで疲れた時などに良いです。 ジャスミンの香りには好き嫌いがあります。快感が得られない、いわゆる不快に感じる方にはリラックス効果は得られません。

 参考引用

ジャスミンティー    http://healthtea.hp.infoseek.co.jp/jasumin.html 

 leaf.jpg針状の茶葉ですリラックスする香り

参考写真:飲むジャスミンの花の画像 

http://image-search.yahoo.co.jp/detail?p=%e9%a3%b2%e3%82%80%e3%82%b8e383a3e382b9e3839fe383b3e381aee88a%b1&cop=&ib=0

:中国茶・台湾茶販売 倭倖   http://wakou.cc/jas_m/jas_m.html

8健康食品辞典より

加湿した中国緑茶やウーロン茶に様々な花を加えて香りづけをし、そのあとに花を除いて乾燥させたお茶を花茶と呼ぶが、ジャスミン茶(中国名・茉莉花茶)はその一つで、花茶の中では最もよく知られている。

中国のジャスミンティーの産地は、福建の他に、蘇州、江西、金華、雲南、安徽などと多くを数え、産地によって使われる茶の発酵度が異なるが、緑茶とウーロン茶の中間に当たる1/3発酵程度の場合が多いようである。ベースとなる茶には最上級のものが用いられ、その加工工程で花の香りを茶に吸着させるが、この加工のポイントは茶の吸香性と、花の吐香性のバランスを微妙にコントロールするところにある。ジャスミン茶に使われるジャスミンはモクレン科の花であるが、非常に種類が多い。日本で栽培されるマツリカやソケイもその一種だが、中国でジャスミンティーに用いられるのは別種の半蔓性で白い八重咲きの種類である。

ジャスミンティーは茶の中に花を混ぜ込むのではなく、その芳香だけを移す。そのため、もっとも香気の強い半開の花蕾を軽く干したものを用いる。精選した茶を15cmほど敷きつけた上にこの華を透き間なく撒き、その上に茶、さらに花と、三重、四重に積み重ねる。一夜置いて花と茶をふるい分け、新しい花に替えてまた積み重ねるという作業を繰り返していく。この香つけの回数が多いほど芳しくなるわけだが、工程の途中で花から出た水分を除くために温度を加えたり、逆に放熱のために広げたりと非常な手間をかけるのである。福建省の茉莉大白毫という最上級品では、それを7回も繰り返すといわれている。

愛媛大学医学部の奥田拓道らの研究によると、高脂肪食の長期間摂取によるマウスの体重増加がジャスミンティー投与によって抑制されることが認められ、その作用として脂肪分解促進作用と脂質吸収抑制作用(膵臓リパーゼ抑制)が明らかにされている。

福建省にはまた、ジャスミンティーだけでなく、包種茶と呼ばれる花茶もある。これは緑茶に近い茶をベースに、ミカン(桔花)、ハナマス、モクセイ(木犀)、クチナシ(梔子花)などが香づけに用いられている。

このほか、中国独特の茶として白茶がある。大白、小白、水仙白といった特別な茶樹の銀白色の産毛に覆われた若芽を摘んで作られる茶で、これも福建省の名産茶の一つ。銀針白毫や白牡丹などはよく知られ、点てた茶は色が淡く、香や刺激性も強くない。古くから不老長寿の妙薬として愛飲されたが、ストレス、夏バテ、二日酔い、頭のもやもやなどに良く効く。

参考引用

健康食品辞典  http://tanalog.com/taiseidrug/2006/02/11/1139653962993.html

9まとめ

ジャスミンティーを飲んでダイエットすることが出来ると周りの人からこれまでよく聞いて来ましたが、なぜダイエット効果へ繋がるのであるかがとても不思議でした。しかし、この授業を通してなぜダイエット効果が得られるのかがよくわかった。ジャスミンは、腸の働きを活発にさせ、また脂肪分解をしてくれる効果をもたらしてくれるからであると。なので中国の人があれまで油をよく使った料理を食べても太らない理由も同時にわかりました。また気持ちをリラックスさせてくれたり、集中力のアップをさせてくれるなど私たちの体にとってとてもいいのです。テストの時にジャスミンティーを飲みながら頑張ろうと思っている。ジャスミンティーはまだまだ私たちに色々な効果をもたらしてくれる。

例えば、お酒を飲んだ後にジャスミンティーを飲めばアルコールの解毒になるので二日酔いをしにくくさせてくれる。だから酒飲みの人にもお勧めである。そして食欲不振の人にもいいそうです。この他にも、目覚めをよくしてくれたり、殺菌作用があったりなどなどいいことだらけです。なので、是非色んな方々に飲んで欲しいです。だが、妊娠中の人には良くないそうなので注意して下さい。また。飲んではいけない体調の時があったりすると思うので事前に調べてから飲んでください。

参考文献

1、ハンドブック 現代中国 第二版 200641日 第1刷発行

愛知大学現代中国学部  株式会社あるむ

参考引用

1、ジャスミン  http://www.oisi-syokuzai.com/

2、ウィキペディア フリー百貨辞典

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%B3

3、ジャスミンティー    http://healthtea.hp.infoseek.co.jp/jasumin.html

4、健康食品辞典  http://tanalog.com/taiseidrug/2006/02/11/1139653962993.html

参考写真

1、飲むジャスミンの花の画像 

http://image-search.yahoo.co.jp/detail?p=%e9%a3%b2%e3%82%80%e3%82%b8e383a3e382b9e3839fe383b3e381aee88a%b1&cop=&ib=0

2、中国茶・台湾茶販売 倭倖   http://wakou.cc/jas_m/jas_m.html

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三国志について

経営学部国際経営学科1年 岡田篤人

キーワード:魏  呉  蜀

1.  はじめに

三国志(さんごくし)は中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃~280年頃)の興亡史の通称である。この時代の歴史物語が三国志と呼ばれるのは、ほぼ同時代の歴史家の陳寿(233年~297年)がこの時代の出来事について記録した歴史書の書名が『三国志』であることにちなむ。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/e/ed/Sanguo_map.jpg三国志は名の通り、魏・呉・蜀の三国の興亡を中心とする筋とし、三国の名を冠する作品は歴史書であれ物語であれ、そこに違いはないが一般に『三国志』として理解されている『三国演義』の逸話の多くは、講談や小説の作者の創作を盛り込んだ物語を含み、これを歴史事実として受け取ることはできない。

2.  魏について

厳密にいえば、曹丕が、禅譲を受けて皇帝になった220年を魏(220年~265年)の成立とするべきである。しかしながら、曹操の存命中も事実上曹操が皇帝のように君臨して万事を動かしていたのだから、曹操が権力を手に入れてからを事実上の魏王朝の成立と見たほうがよいこともある。その場合、次のような時期が事実上の魏王朝の成立と捉えられる。

     1.200年、曹操軍、官渡の戦いに勝利して中国北部の派遣を獲得

     2.207年、曹操、後漢の丞相となる

     3.213年、曹操、魏公となる

     4.216年、曹操、魏王となる

また、文学史的にいえば、後漢の建安年間(196年~220年)は曹操を中心とした文学サロンが形成され、新しい文学の形を作っていた(建安文学)。この建安文学の流れが、魏の時代のみならず、魏晋南北朝時代全体にわたって続いていく。それゆえに建安年間も魏の一時期と考えた方が、文学史的にはわかりやすいと言える。

3.  呉について

呉は、中国三国時代に孫権が長江流域に立てた王朝のひとつ。姓は孫氏で、首都は建業(現在の南京付近)。東呉、孫呉、孫氏呉とも呼ばれる。国名を呉と称しているが、春秋戦国次第の呉とは無関係。

222年と言うのはそれまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年であり、呉の建国としては他に孫権が皇帝に即位した229年をとる場合もある。しかし孫権が勢力を張ったのは父孫堅・兄孫策の残した物を継いでのことである。

4.  蜀について

王朝としての蜀(221年~263年)は、魏、呉と共に三国時代を形成した一国である。巴蜀(現在の四川省・湖北省一帯)を領土とし、成都を都に定めた。実際には魏の文帝曹丕が後漢を滅ぼして即位したときに、漢の正統を継ぐものとしたため漢が正式な国号である。蜀あるいは蜀漢という呼称は後世の人々が統一王朝であった漢との区別のため便宜上つけたものである。また、李漢(李は末っ子の意味)と称することもあった。

蜀は中山靖王劉勝の子孫とされている劉備によって建国された。多くの『三国志演義』関連の創作において主人公格である劉備が建国したことや、群臣に諸葛亮、関羽、張飛、趙雲、馬超などの人気の高い武将が集まっていることから、特別視されることも多いが、実際には三国の中で最も弱い勢力であった。

5.  まとめ

私はゲームや本などで三国志のことは少し知っていましたが、いざ調べてみるとかなり奥が深くて驚きました。私が調べていたサイトでは三国時代に活躍していた武将なども検索することができるのですが、あまりの武将の数の多さに自分の調べたい武将の名前を見つけるのに一苦労でした。

また、三国志を調べていって歴史とゲームなどのちがいを知ることができました。ゲームでは、魏の総大将が曹操、呉の総大将が遜堅、蜀の総大将が劉備なのですが、歴史上だと魏が建国されたときには総大将は丕であるし、呉が建国されたときには総大将は遜権でした。これからはゲームと本当の歴史を間違わず、その違いを踏まえた上で三国志を楽しんでいきたいと思います。

参考文献

.株式会社 あるむ

ハンドブック現代中国語第二版

 愛知大学現代中国学部編

 200641日 第1刷発行

. 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97  

写真の引用先も上に同じ

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               日本と中国の食文化について

             経営学部経営学科1年 次郎坊祐介

 

             キーワード: 食生活 珍味

1.はじめに

中国の食生活は日本とどんな違いがあるか。また、珍味について調べようと思いました。

2食生活

今日本と中国はとても豊な食生活をおくっている。その一方で両国、肥満や成人病を増加させている。その理由としては両国では、インスタント食品や加工食品の増加。また洋食生活が増えたり、ファミリーレストランなど言った外食の風習が増えているからだ。

そのため今健康を求める食生活に変わっている。日本では今納豆が爆発的に売れている。その理由としては、「手軽にできる」「安価」「つらくない」の3つ全の条件を、満たしてくれるのが、納豆である。納豆にはダイエット効果は驚くほど。と、テレビでも大きく取り上げられた。すなわち今日本人には納豆が欠かせない食生活である。

これに対し中国は、三快三多現象が見られる。三快とは、雑穀は精米より早く売れ、豆腐は肉より早く売れ、山菜は栽培野菜より早く売れることであり、三多とは、加工食品や外食の利用者が増え、健康飲料が白酒より多く売れることを言う。

すなわち日本は簡単健康食生活であり、中国は、健康で便利さを求める食生活である。

3.珍味

 みなさんは、世界の三大珍味を知っているだろうか?そう、フォワ・グラ、トリュフ、キャビアの三つである。では、日本と中国の三大珍味を知っているだろうか?日本では、ウニ、カラスミ、この三つである。中国では、フカヒレ、アワビ、ツバメの巣、である。みなさんは、この中で一品でもいいから食べたことありますか?ちなみに、私はないです。

しかしただ普通の珍味を紹介してもつまらないので、中国の一見変わった珍味を紹介したいと思う。なんと中国では、犬、蛇、蛙、ラクダ、サソリ、カイコ、虫である。蛇とラクダは中国南部で主に食べられている。日本では昔、空腹しのぎで蛙を食べていたとは聞いて事はあるが、中国では珍味とは驚きである。また、日本ではイナゴを食べていた。しかし中国では、幼虫などといったレベルである。もし、私が中国に留学したら食べることになるだろう。その時はそうとうな覚悟が必要だな。と、思った。

                                

フカヒレ        ツバメの巣          アワビ

これが中国三大珍味である。 

4.まとめ

今回私はこれらを調べる前までは、「食」というものはただ食べるだけしか興味がなかったが、これらを調べたことで中国での食事のマナーなどといった礼儀などにも興味を持てるようになった。ただ美味しくいただくのではなく、礼儀を知った上で美味しくいただきたいと思った。また、中国でも肥満や成人病に悩まされてる人が増加していることに驚きました。こうして考えてみると中国は食だけでなく、経済的にも発展してきたのかなと感じた。日本にある美味しさ、中国にある美味しさ。その美味しさは古代から伝わるものなんだと思うと、食文化というものは奥の深いものだと思った。

5.参考文献

1.愛知学院現代中国学部編 「ハンドブック現代中国第二版」 あるむ 2006年4月1日出版 

2.中国で食べれる珍味

http://www2.crosstalk.or.jp/ryugaku/qa/lf16.htm

3.フカヒレ(写真)

http://www.ikechang.com/pot/10th/nabe10.html

4.ツバメの巣(写真)

http://www.europe-z.com/misolin/hk02n.html

5.アワビ(写真)

http://shinshu.fm/MHz/11.21/archives/0000100705.html

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中国茶について

経営学部経営学科1年 竹田美幸

1.     はじめに

 私は静岡の出身です。静岡はお茶が名産です。ですから私も日常的にお茶を飲み、お茶が大好きです。そこで、今回中国のお茶について興味を持ったので調べてみることにしました。

2.     中国茶の歴史

 中国の伝説では、神農の時代から茶が飲まれてきたと言われている。漢の時代に書かれた詩に茶を表す文字が見られ、それが最古の文献と言われている。当時は嗜好品というより、薬としての役割が強かった。隋の時代には、茶を火にかけ煮出す方法や、抹茶、煎茶など、さまざまな楽しみ方がされ、同時に茶器の原型といわれるものが多数考案された。宋の時代に入って、茶の新しい製法が次々に考案され、茶の種類が爆発的に増えた。この時代、闘茶などの遊びも考案された。茶が主要な輸出品となった。清の時代、茶器が現在使われている茶器とほぼ同じ物になった。

 もともと中国には、日本のようなお点前はなく、茶芸は80年代初めごろ台湾で出来たものである。茶葉の消費拡大を狙った台湾の大手茶業者が、日本の茶道を参考に様式化したものが始まりである。それが、経済成長下の中国大陸に入り、やがて韓国にも広がっていった。明代から清代の初めにかけて、福建省の南部で生まれたとされるウーロン茶の飲み方「工夫茶」が原型になってはいるものの、当時の記録にお茶の入れ方、動作については触れられておらず、もっと手順が簡単だったと見られる。現在の茶芸の茶巾をたたむという所作は、日本の茶道の影響の表れであるといえる。基本的には「日本の茶文化とは、客をもてなす事。中国は美味しいお茶を楽しむ事」と認識される。

3.     中国茶の種類

現在、中国茶として飲まれているものを詳細に分類すると数千種にも及ぶとされるが、茶葉の醗酵のさせかた、および製法方法によって大別して6種類に分けられ、これを六大茶類と呼ぶ。

①緑茶・・・茶葉を摘み取ったあとに加熱処理を行い、酸化醗酵を止めてしまったもの。無醗酵茶。中国においても、もっともポヒュラーなお茶である。日本茶とは対照的に、過熱の際に茶葉を蒸さずに釜炒りする方法が主流である。中国において、茶全体の消費量の7~8割が緑茶であるといわれる。

②白茶・・・茶葉の若葉、もしくは芽を選んで摘み、これらを乾燥させてわずかに醗酵を進めたところで加熱処理したもの。揉みこむ工程がないため、醗酵はゆっくり進む。その若葉の産毛が白く見えるところから白茶と呼ばれている。一芯一葉で摘まれることがほとんどであり、白茶は高級品が多い。

③黄茶・・・君山銀針のち茶葉。全体的に黄色い。茶葉の芽を摘み、緑茶と同じように加熱処理を行ってから、わずかに後醗酵させたもの。黄茶も揉みこみの工程がないため、茶葉そのままの姿で淹れられる。茶葉と水色が淡い黄色であるために黄茶と呼ばれる。製造量は年に数百キロにすぎず、六大茶類のなかでももっとも貴重品。清の皇帝も好んで飲んだという。

④青茶・・・ある程度醗酵を進ませてから加熱処理を行ったもの。半醗酵茶とも言われる。ただし、茶の種類によって醗酵度合は2080%と大きく異なる。茶葉が醗酵過程で銀青色になるため「青茶」と呼ばれる。烏龍茶ともいう。よく揉みこまれているため、茶葉のひとつひとつが球状、もしくは曲がりくねって棒状になっている。烏龍茶と呼ばれる理由は、色が鳥のように黒く、揉みこまれた茶葉の形状が竜の姿に似ているからともいわれる。

⑤紅茶・・・茶葉を乾燥させ、徹底的に揉みこむことによって酸化醗酵を最後まで行わせたもの。紅茶と呼ばれるのはその水色の赤さから。中国で製造される紅茶は煙で燻したかのような香りをすることが多く、実際に松葉で燻すものもある。

⑥黒茶・・・緑茶と同じように加熱処理を行ってから、コウジカビによる後醗酵を行わせたもの。他の茶とは異なり、新鮮なものではなく長時間に渡って醗酵させたものが珍重せれる。保存期間は長いもので数十年にも及び、ワイン並みのビンテージものが存在する。後醗酵を行うため、独特の風味がある。プーアル茶が黒茶の代表格である。

 これら六大茶類に花弁に香りを緑茶に移した花茶をあわせて七大茶とする分類がポピュラーである。なお、この他に茶外茶と呼ばれる分類がある。菓子のような八宝茶や、木の根などを使用して茶葉を使わない漢方茶の類もこの茶外茶に分類される。

4.     中国茶の淹れ方

 前述したように中国茶といっても醗酵度、製法によって大きく異なり、淹れかたも一様ではない。基本的な注意点は、()事前に茶器を暖めておく。()茶葉を冷蔵保存していた場合は常温に戻るまで淹れるのを待つ。

基本的には醗酵度が高くなるほど高い温度のお湯を用いる。中国では旨みよりも香りを珍重するため、湯温は比較的高めにして淹れられることが多い。逆にアミノ酸をはじめとする茶の旨みを楽しみたい場合は、やや低めにして使うとよい。また、安めのお茶は温度を高く、高めのお茶は温度を低めにするのは日本茶と同様だが、これも茶の種類によって異なる。

 また淹れるお湯の温度が重要となる。緑茶は6075度、白茶・黄茶は7080度、青茶80100度、紅茶・黒茶90100度となっている。

なお、花茶に関しては香りを吸収させた茶の種類に準じるが、花茶はほとんど緑茶であるので緑茶と同様に淹れてしまって構わない。

また、湯温や淹れかたに関しても基本的にこういうものとされているだけのものであり、各自がそれぞれのお茶において好みの淹れかたを見つけることがもっとも大事なコツであるといえる。

5.     まとめ

 一口に中国茶といっても様々な種類があり、また種類によって淹れ方が違うことに驚きました。またさすが中国ということもあり、歴史が古く、同じお茶でも日本のお茶とは大きな違いがあることがわかりました。

参考文献

フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%8C%B6 

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中国の姓と名ついて

経営学部経営学科1年 湯浅陽介

キーワード:  姓  名  同姓不婚 

1.はじめに

漢民族の名前の基本は、姓+名である。「姓」は家の名で、先祖代々受け継がれる名前で「苗字」と同じ、「名」は特定の個人名である。姓が先にきて、名が後に称される。

通常の会話において、この「姓+名」で呼びかけあうようなことは近代以前の中国ではあまりない。例えば、曹操のことを直接に曹操と呼びかけるという表現には他意を含むことになる。つまり日本語の呼び捨てよりさらにキツい、格下意識、あるいは軽蔑を含んだ表現になる。文章とか格式ばった文言では「姓+名」が用いられるが、それ以外の口語では別の呼び名をつかうのが対等な人間関係の通常のありかたである。

2.姓について

漢民族の姓は基本的にひとつである。姓には単姓という一文字の姓と、複姓という二文字の姓があるが、単姓が圧倒的に多い。 三文字以上の姓もあるが、これは漢民族以外の少数民族の姓である。

中国の重要度の高い姓はおよそ三〇〇ほどである。時代によって変動があるが

趙・銭・孫・李・周・呉・鄭・劉・王・馮・陳・衛・蒋・陸・沈・韓・楊・朱・秦・尤・許・何・呂・施・張・孔・曹・厳・華・金・魏・陶・謝・鄒・柏・竇・章・蘇・潘・葛・奚・範・彭・郎・魯・韋・昌・馬・苗・鳳・花・方・兪・任・袁・柳・鮑・史・唐・費・廉・岑・薛・雷・賀・倪・湯・滕・殷・羅・畢・安・常・楽・皮・卞・斉・康・伍・余・元・顧・孟・黄・和・穆・蕭・尹・姚・邵・汪・毛・狄・米・貝・明・臧・伏・成・戴・談・宋・茅・熊・紀・舒・屈・項・祝・董・梁・杜・阮・藍・賈・路・婁・江・童・鄭・顔・郭・梅・盛・林・鍾・徐・駱・高・夏・蔡・田・樊・胡・霍・虞・万・管・盧・房・丁・白・司馬・欧陽・諸葛・公孫などが多い。その中でも、とくに李・王・張・趙・劉の五姓の人間が多く、現在、漢民族のおよそ三分の一は、この五大姓のどれかを名乗っていると言われている。

地方差もあって、広東では梁・羅・頼姓が多く、江蘇では徐・朱姓が多く、福建では林姓の人間が多いなどの差異もある。
 ほかの漢民族の少数姓や少数民族の姓を合わせると、現在三〇〇〇程度と言われている。

3.名について

漢民族の名は、現在は二文字が圧倒的に多い。三文字以上の名は、まず少数民族から出たものと考えてよい。
 古くは漢民族の名は一文字が基本であった。しかし、人口が増えてくると、同姓同名の弊害が出てきた。これを区別する必要から、前漢の中期ごろには二文字の名が増えてきた。しかし、新の王莽がその復古主義的信念から「二名の禁」を発布したため、二文字の名はいったん禁絶された。南北朝時代になって、また再び二文字の名の傾向が現れた。隋唐を経て、宋代あたりになると、二文字の名のほうが主流となった。

漢民族の名に特徴的なことをいくつか挙げてみる。

(). 親子間の一字継承はない

日本では、産まれた子供に親の名の一文字を付けるといったことがよくあるが、漢民族ではこれはタブーである。むしろ先祖代々まで遡って、同じ漢字を使った人物がいないことが調べられた上で名づけられるほどである。ただし、姓と宗族を同じくした同世代に属する兄弟や従兄弟や又従兄弟たちの間では、積極的に共通の一文字を用いて名づけられるということがある。

(). 君主の諱を避ける
中国では、皇帝や王といった君主の諱に使われた文字は、新しく生まれた子供の命名に使うことを避ける。また、新しい君主が登場したとき、臣下は君主の諱を避けるため改名するといったこともある。

(). 名に数字が使われることがある。
とくに庶民の名に多いが、名に数字が使われることがある。これは(男の)兄弟順を表していることもあるし、父母の年齢とかいう例もあるが、だいたいは「輩行」の数を表している。輩行とは、姓と宗族を同じくした男の兄弟や従兄弟や又従兄弟たちによる同世代集団の年齢順序を表す数である。

(). 女性の名
漢民族の名には男女間の差が比較的少ない。女性らしい名というのもあるにはあるが、男性名と思えるような名を女性がつけていることもある。

4.同姓不婚について

同姓不婚とは、同じ姓を持つ男女が婚姻することはタブーということ。中国では苗字が同じということは親戚関係を意味しており、姓が同じなら先祖も同じである可能性が高いということで近親婚を避けるための手段として定められた。この同姓不婚の原則は、現在の中国でも守られている。

また、中国では夫婦別姓で、結婚しても女の人の名前は変わらない。

5.まとめ

中国では、名前をつけるのにいろいろなルールがあること、李・王・張・趙・劉の五姓の人間が多いこと、同姓不婚という原則があることなどが分かった。

中国では、子供の名前をつけるのに、先祖代々の名前を調べたり、皇帝や王に使われた文字は、新しく生まれた子供の命名に使うことを避けるといった文化があるが、日本では親の名前の一字や偉人の名前を子供につけたりすることが多いので、意外な感じがした。

李・王・張・趙・劉の五姓だけで漢民族の人口の三分の一をしめていることからもわかるように、同じ名字の多い中国で、同姓不婚いう原則があっては、本当に好きな人と結婚できないということもあるのではないかと思った。

参考文献

1.     中国の歴史人物の呼び名について http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/column05.html

2.     日中比較文化講座 http://www.silkroad.ne.jp/tianjin/bijiao/lp.htm

3.     愛知大学現代中国学部 編 「ハンドブック現代中国 第二版」

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中国の三国志について

―各勢力の軍師を中心に

法学部法律学科1年 鈴木友章

キーワード:  司馬懿  諸葛亮  陸遜

1.はじめに

私がこのテーマを選んだ理由は、三国志は中国の戦争であるが日本でも物語やゲームになるほど有名な戦争であり、この戦争の中では軍師が非常に重要な役割を果たしていたと考え、その軍師がどのような人物だったのか気になったからである。

2.司馬懿について

司馬懿は中国三国時代に魏に仕えた武将、軍師、政治家で西晋の礎を築いた人物であり、字は仲達(ちゅうたつ)といった。晋書・宣帝懿紀によると、苛烈な性格であったが感情を隠すのがうまく、内に激しい怒りを抱いているときも、表面では穏やかにふるまうことができたといわれていた。司馬懿は河内郡温県孝敬里の名門の出で、司馬防の子。司馬家の八人の男子は字にすべて「達」が付くことから司馬八達と呼ばれ、司馬懿は次男である。兄に同じく魏に出仕した、司馬朗が居る。弟に司馬孚、司馬馗、司馬恂、司馬進、司馬通、司馬敏がいる。『史記』の著者司馬遷とは、同族にあたるが遠縁であり、楚漢戦争での際に殷王を名乗っていた司馬卬の直結の一族である。 司馬師、司馬昭、司馬幹、司馬伷、司馬亮、司馬京、司馬駿、司馬榦、司馬肜、司馬倫などの父親でもある。司馬懿は司馬懿の才能を聞いた曹操によって度々出仕を命じられた。しかし、司馬懿は曹氏の濁流的な出自や、曹操の気性を厭い、その度に断っていた。それでも曹操は、捕らえてでも連れてくるように、と命令したため、最後にはやむを得ず出仕したのである。『魏略』という書物によると、曹洪に交際を求められた司馬懿は、訪ねて行くのを恥に思い、仮病を使い杖をついたのである。恨みに思った曹洪は曹操に告げ口すると、曹操に出仕を求められ、杖を投げ捨て応じたとされている。

3.諸葛亮について

諸葛亮は、中国後漢末期から三国時代の蜀の政治家・軍略家である。字は孔明(こうめい)といった。司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。蜀の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅を丞相としてよく補佐した。また初めて中華まんを作った人とされている。伏竜、臥龍とも呼ばれる。三国時代の諸葛亮が劉備に説いた有名な戦略が天下三分の計である。この策略は圧倒的に強い曹操に対抗するために諸葛亮が劉備に献策した計である。荊州と益州(四川省)を領有し、劉備、曹操、孫権とで中国を大きく三分割して、孫権と結んで曹操に当たり天下に変事があった際、部下に荊州の軍勢を率いて宛・洛陽に向かわせ、劉備自らは益州の軍勢を率いて秦川に出撃することにより覇業が成就され漢王朝を再興できる、というものである。今も成都には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。妻は黄夫人、子には蜀漢に仕え成都付近で戦死した諸葛瞻、同母兄に呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪や同母弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、従父(叔父)に豫章太守の諸葛玄。一族には、魏に仕えた諸葛誕・諸葛緒・諸葛璋・諸葛虔・諸葛原がいる。彼の孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。また、裴松之が注に引く『襄陽記』によると、諸葛瞻以外に諸葛懐という息子と諸葛果という娘がいたとされる。なお、諸葛八卦村という村の住民は諸葛亮の子孫を自称しているほどである。三国時代の諸葛亮が劉備に説いた有名な戦略が天下三分の計である。この策略は圧倒的に強い曹操に対抗するために諸葛亮が劉備に献策した計である。荊州と益州(四川省)を領有し、劉備、曹操、孫権とで中国を大きく三分割して、孫権と結んで曹操に当たり天下に変事があった際、部下に荊州の軍勢を率いて宛・洛陽に向かわせ、劉備自らは益州の軍勢を率いて秦川に出撃することにより覇業が成就され漢王朝を再興できる、というものである。

4.陸遜について

陸遜は、中国三国時代の呉の武将。本名は陸議。字は伯言(はくげん)といった。陸続の玄孫、陸襃の曾孫、城門校尉陸紆の孫、九江郡都尉陸駿の子、陸瑁の兄、陸延・陸抗の父、陸機・陸雲の祖父である。呉郡呉の人で陸氏は呉郡の四姓と呼ばれる有力豪族であり、陸遜はその傍系として生まれた。『三国志演義』によれば「身長八尺、面如美玉」と体躯堂々たる美男として描写された。孫権が彼と一緒に周瑜らを論じた時、周瑜の気宇の大きさを継いでいると評したところから、この様な描写になったとされる。ところが本家筋の陸康(陸遜の従祖父)が建安初年に後漢王朝の役人として盧江郡の太守であった際に、独立勢力となっていた袁術の命を受けた孫策の攻撃を受けた。陸康はまだ幼かった末子の陸績を陸遜に委ね、あわせて陸遜を一族の長とし、本籍である呉郡に逃がした。その後、呉郡は袁術から独立した孫策の所領となったが、こうした経緯もあって陸氏と孫氏とは対立関係が続いていた。そこで陸遜は孫策の死後に後を継いだ孫権と手打ちを行って幕下に加わり、孫権はこれに応えて孫策の娘を妻として与えた。その後は非漢民族である山越との戦いで功績を立てた。

5.まとめ

いくら中国の領土を三つに分けたとしても、一つの領土は非常に広いものであり、その領土をまとめていくには軍師の力はとても大きいものであった。調べた軍師は多くの功績を残したとされており、国をまとめる手助けをした人がどのような人物だったのか知ることができた。戦争は決して良いものではないが、歴史の一つとしてこの先もずっと伝えていかなくてはいけない出来事だと思う。

参考文献

1. ウィキペディア(Wikipedia

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E6%87%BF 

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E8%91%9B%E4%BA%AE 

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E9%81%9C 

2.愛知大学現代中国学部編、ハンドブック現代中国第二版、あるむ

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           中国の家族と日本の家族の違い

法学部法律学科1年三浦智也

1.はじめに

家族形態

{中国}

  単一家庭・・・父母と未婚の子女からなる家庭。(核家族)

  主幹家庭・・・父母と1組の既婚の子女とその子供からなる。(直系家族)

  聯合家庭・・・父母と2組以上の既婚の子女からなる。(拡大家族)

{日本}

  核家族と直径家族

中国は伝統的な観念では、家族理想は大家族(拡大家族)である。

“四世同堂”(四世代同居)や“五世同党”が家族繁栄の象徴である。

2.家族の上下関係

    {中国}

(ア)  父母への孝は絶対

(イ)  家長(おじいさん)の権威は絶大で家族経済、家族の結婚、仕事などの決定権を持っている

(ウ)  夫婦平等

{日本}

(エ)  夫婦平等

(オ)  家長(おじいさん)の権限はなし

*「中国」は家族での上下関係はとても重視している特に家長には自分たちよりはるかに上の存在である。と重んじている。

*「日本」は家族での上下関係はあまり重視していない さらに自分の家の家長であっても自分たち同じそれ以下と思われている。

@先生から聞いた実際の話

「ある日のことだ、私が細い道を歩いていると前に老人がいてその老人が道を私に譲った。

私はとてもショックを受けた。」日本ではよくあることだ。若者がいると老人は自分の物などを譲ろうとする。私は関りたくない。若者に何かいうと殺されるかもしれないなど自分は弱い者だと思っている。「私の国(中国)ではこのように道を譲るのは老人ではなく私たちだ!!」中国では老人はとても大切にされており、老人は自分たちよりか遥かに上の存在だと言うことがわかる。

「中国の親への思い」

ある学校で「私が尊敬している人」という作文を書かせたら、その作文の60%は尊敬する人に親を挙げ、「親を尊敬しています」と書く人が多いのは日本の高校生でも同じです。ところが、中国の生徒の作文のほとんどは「親は私を生んでくれた人です」「苦労して私を育ててくれました」「だから尊敬しています」と書いてあるだけなのです。

3.中国と日本の教育

{日本}

親はこどもの勉強を見ることは無いし、さらに子供は学校では無く塾で勉強をやっている。 子供が学校で何かあると親がすぐに学校に来て学校の先生に怒って子供には何も言わないしかも何も怒らない(最近日本では子供が親を殺す事件が起こっているのでなかなか怒れないのかもしれない)。日本のひとは子供に何もできない状態なのである。

{中国}

子供の勉強を親が最後まで見る(大学生になっても)。さらに中国では親が学校へ行き先生が子供に対しての問題点を言う。そして問題点を言われた親は子供に注意する。そしてしかる。中国の親は人まかせではなくて最後までつきあう形をとっている。中国は親たちでも話し合うそうすれば悪いところもはっきりとする。

4.中国と日本の教育

中国では上にできる子どもだけが選ばれ参加する。そして、選ばれなかった生徒は応援する側にまわる。それに対し、日本の小学校では、運動会での学芸会でも生徒全員が参加するのが決まりである。みんなが元気を出して、一生懸命頑張る。また、全員の子どもが、自分で考えて作成した図工の作品や遠足の感想文を、教室や掲示に飾られる。つまり、子どもたちはみな一人一人よいところを評価されるので、どんな子どもも自分に自信を持つことができるのである。次に、クラスの中における人間関係の違いがある。中国では小学校6 年間はクラス替えをしないので、先生や友達との関係が親密になる。そのため、たがいに家族のように助け合うことも多い。それに対し、日本の小学校では2 年に1 度クラス替えをすることになっている。クラス替えでは担任の先生もクラスメートもみんな替わる。そのため、中国のクラスのような家族的な関係ができない反面日本の子どもたちは小学校の6 年間で新しい友達ができることになる。その結果、新しい人間関係を自分で構築する能力が育てられるのではないだろうか。

中国と日本の家族に対しての政策

中国では子供の数を制限される「一人っ子政策」がとられているこの政策は子供が一人生まれると保育、入学、進学、などが国から金が出るしかし二人目が生まれるとその金を自分で負担することになる 日本ではその反対で子供が多いとそれだけお金が国から支給される制度をとっている。

5.まとめ

日本は家族に対しての考えが昔に比べてかなり低下しているのがわかる一方中国は家族への考えはとても高いと言うことがわかるそして日本は家族大事さがまるで無いことがわかるしかし中国は一人に集中する形をとり日本ではたくさんの子供対して政策をとっている

私が思うに日本は中国の教育、考え方を目指せば家族の絆が高まると考えました。

参考文献

愛知大学現代社会中国学部編 2006年 「ハンドブック現代中国第二部」あるむ

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