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友誼の章


二胡情縁二胡少年の夢
趙寒陽
著/朱新建・陳恵明翻譯

第一章   

父亲赵君行,19261114日出生于江苏省常州市一个贫困家庭。生父是一纨绔子弟,因患肺病而早逝,自幼为其姑母所收养,她就是我的祖母赵嬿。那个年代妇女一旦嫁人,就要随夫家之姓。而父亲又是赵家留下唯一的一个男孩,祖母为了维系住赵家的香火,竟是终身不嫁。

父亲从小生得虎背熊腰,一身结实的肌肉,力大如牛,所以另有一个绰号叫“赵牛”。那年月孩子们读的还是私塾,我这牛爸小时候偏偏不爱读书,只要一读到书,他就犯困,为此没少挨了祖母的责打。祖母也是望子成龙,每天拿着小尺子逼着父亲读书、练字。父亲由此真就练出了一手的好字,日后令我汗颜不已。

家中清贫,主要靠祖母给人做针线活维持生计。家中的力气活,自然不用祖母操心,因为父亲是宁可干活,也不愿读书的。恨不得天天只干活,不读书。但祖母却不放过他,到了晚上,点起煤油灯,就开始逼着父亲温书、写字,自己在旁边一面做针线,一面监督。一见到书,父亲立马没了精神,读着读着,就趴在桌上睡着了。祖母见此情景,心中生气,拿着针的手顺手就一针扎过去。父亲一哆嗦醒来,迷迷糊糊地继续读书。读着读着,又睡着了,自然紧接着又挨了祖母一针。如此反复几次,祖母也没了脾气,叹了口气,说道:你这个没出息的,睡去吧。父亲象是得了特赦令,一轱碌跳下凳子,以飞快的动作收好书本,爬上床睡觉去了。而祖母总要在灯下做活到深夜,不然日子可怎么过呀!

有一天早晨,父亲清早起来一开门,发现门口地上放着一个竹筐,大概是有人特意放在家门口的。走近一看,天哪!是个婴儿啊。父亲一溜烟跑回屋里,叫着:妈!妈!门口有个小孩。祖母赶紧穿上衣服跑出来一看,可不是吗,一个还未满月的婴儿,胖乎乎的小脸挺可爱的。一向信佛的祖母一边念着“阿弥陀佛,罪过,罪过”,一边将婴儿抱回屋内。解开蜡烛包,里面有孩子的出生日期,还有两块大洋,是个女婴,身上还长着疥疮。祖母想想,自己收了一个儿子,还没有女儿,就再收一个女儿吧。一儿一女,以后老了也可有个依靠。就对父亲说:这就算是老天送给你的一个妹妹,养着吧。父亲挺高兴,本来家里也没有人玩,有个妹妹做伴,那多好啊。祖母请来医生给小婴儿治病,又请了一个奶妈,给她喂奶。这个婴儿从小体弱多病,祖母和父亲费尽了心血,才使她闯过了难关,得以存活下来。祖母原先给她取了个名字叫:赵涟漪,直到长大后踏上社会才改了一个与父亲排名的名字:赵君萍。她就是我的姑妈,1931年出生。

1938年,日寇打到常州,飞机常来扔炸弹,一家人整天胆战心惊,夜里将被子铺在桌子上面,人只敢睡在桌子底下。后来城里实在呆不下去了,全家人就逃难到了距城大约十公里的王下村,投靠在一个远亲家中。一家三口住在亲戚家里,要吃要用,一二天还可以,时间长了,人家心中难免有些不快,何况是远亲,平时又从没有什么来往的。再说逃难就是逃命,哪还顾得上带什么东西,不过是一个小小包袱,包点日常换洗衣服,带来仅有的几吊钱能维持几天啊。最要命的是这个灾难不知道还要持续多久,哪一天能回家谁也说不准。远亲家中的人心里不痛快,嘴上免不了要说些指桑骂槐的话。父亲是个硬汉子,别看那时才是一个十二岁的孩子,可长得敦敦实实的,也是个棒小伙子了。那些剌耳的话哪能听得进去?一气之下,不辞而别,回到了常州,差点没把祖母给急死。

进了常州城,满目疮痍,一片焦土,许多房屋仍在冒着黑烟。回到家中,虽然房子还在,但室内已是狼籍一片,稍好的东西都被抢劫一空了。剩下的不过是些桌椅板凳,粗重家什而已。好在房子没被烧掉,就算还有个栖身之处,不至于流落街头。当时房东家的老先生也回来了,整条巷子里就这一老一少两个人。房东老先生从乡下带了些米来,父亲看到满街都是因火烧而倒塌的房屋,粗大的木梁还在冒着烟,就一条胳膊夹一根,拖回家中,找了一把斧子,劈开了当柴烧。两个人熬了点粥喝下,先睡一觉再说。

第二天,房东老先生又下乡设法弄来些鸡蛋、旱烟之类的东西,叫父亲上街去叫卖,以此挣几个小钱度日。

有一天,一个陌生人买了父亲一包烟,说:小孩,想挣钱吗?父亲问:怎么个挣法?那人说:你跟我来。他将父亲引到一个没人之处,说:给我们运点盐进山,我多给你钱。但是要过日本鬼子的封锁线,你敢不敢?父亲是初生的牛犊,浑身是胆,连老虎都不怕,还怕封锁线吗?一拍胸脯,说:行!那人领着父亲进了一家店铺,将父亲身上穿的棉袄脱下,把里面的棉花掏出来,装上盐,又缝好了,让父亲重新穿上,外面用草绳一结,仔细看看,没有破绽。那人说:小孩,你拎着你的小货筐,大大方方地过一号桥,(那就是一个日本鬼子的封锁线),到了湖圹桥,我们的人会在那儿接应你。就这样,父亲经常给那些人运盐,挣点钱,后来才知道那些人是共产党领导的一支抗日游击队。由于父亲是个小孩子,本不惹人注目,加上他人又机灵,因此从没有出过意外。后来,游击队的人都喜欢上了这个虎头虎脑、敦敦实实的孩子,说:你跟我们走吧,保证你有饭吃。父亲一摇头,说:不行,我家里还有妈妈和妹妹要我养活呢。

过了几个月,待日寇烧杀抢掠的高潮过去后,父亲才去乡下将祖母和姑妈接回来。在路上为了防止日本兵抢花姑娘,祖母和姑妈还特意用锅底灰将脸抹黑了。一到家,好几年都不敢出大门,一家人全靠父亲拎着竹筐做小买卖挣几个钱养活。那时候米只卖十六个铜板(差不多合五分钱多一点)一升(一市斤半),再买点青菜、豆腐,每天只要挣到一角多钱就能混日子了。当然,那是最苦的日子了。

父亲十六岁时,去了大成一厂打包间做小工,打小纱包,一天要干十二个小时,基本上是两头摸黑。每星期只能回家一次,出门还要开门票。后来因日本人垄断棉纱供应,大成一厂开不下去了。父亲经熟人介绍,又去了协盛布厂引擎间当小工。

那时候织布机的动力还是用木炭作为燃料的,清晨一大早赶在工人上班前就要将引擎发动起来。发动这种引擎,就象过去人们每天做饭要生炉子一样,在一个大炉子中,用纸引燃木柴,再关上炉门,使柴火闷住,将烟气(瓦斯)引入引擎中。然后用手盘动一个大飞轮,直至机器能自己转动起来。

引擎间就一个姓杜的师傅和父亲两个人,要负责全厂八十多台布机的动力。力气活当然都是由父亲干的,师傅只是负责技术活儿。一天下来,满身满脸的黑灰,只露出两只眼睛是白的。就这样干一个月的工资才八斗米,每个月的房租倒要付掉五斗米。剩三斗米一个月日子怎么过呢?只得下了班再去推车运布。当时用的车是木制的独轮车,推起来“吱嘎吱嘎”地响,全靠腰上一把子力气维持平衡。每天从协盛布厂装四十匹布,推过高高的御史桥,送到南大街的商行中,回程的时候再装上四十包洋纱运回厂里。这一来一回能挣一二角钱,可不论多少,也总能贴补些家用啊。加上祖母和姑妈在家中做针钱,或给人绣花,总算一家人不至于冻饿。三个人相依为命,勉强度日。父亲与姑妈自小到大从未发生过口角。直到后来两人都已年过七旬,通电话时还是“妹子”、“阿哥” 亲亲热热地叫着。

19458月,经过八年抗战,中国人民终于盼来了胜利的一天。老百姓兴高采烈,都涌到街上庆祝胜利,认为这下天下太平,能过好日子了。

那天,祖母特地拿出二三十个铜板,叫父亲上街买了点肉和菜,算是开了荤。一家人特别高兴,晚上睡觉也觉得安稳了。

谁知外患刚除,内战又起,人民仍然生活在水深火热之中。城门口的日本兵不见了,换了国民党兵把守。这些国民党兵比日本兵也好不到哪里去,照样搜刮钱财,欺压百姓。最可恨的是那些保长、甲长,专干那仗势欺人、鱼肉乡里、敲骨吸髓的勾当。那时的居民十户为一甲,设甲长一人;十甲为一保,设保长一人。随着人民解放战争的节节胜利,这些人明白国民党统治的时日不多了,就越发加紧了对百姓们的盘剥。

当时有个保长叫蒋干大,有一天他跑来找我祖母,说最近手头有点紧,要借五块钱用用。祖母就说蒋保长啊,你也不是不知道,我家全靠鑫鑫(父亲小名)一个人在厂里干活养家糊口,哪有钱借给你啊。不料这个蒋干大眼睛一瞪,从牙缝挤出一句:不借?那你可别后悔。慌得祖母连连赔着笑脸,说:蒋保长啊,不是我不借,实在是没有哇。蒋干大“哼”了一声,扭头就走了。

祖母知道这下惹了祸了,也不知他会怎样来报复,姑妈也急得眼泪汪汪的。父亲到底是一条汉子,桌子一拍站起来说:

“妈,妹妹,别怕,他敢对我们怎么样?我也不是好惹的。我可听说共产党的部队就快来了,那可是咱穷人自己的部队,世道也该变变了。”

没过几天,蒋干大又来了,对祖母说:你家鑫鑫被抽上壮丁了,准备一下吧,过两天部队就来带人。祖母忙说:蒋保长啊,你行行好吧,把我儿子抽去了,剩下我们母女两个怎么活呀,不是有规定独子是不抽壮丁的吗?蒋干大冷笑了一声,说:现在是非常时期,哪还有那么多讲究。上面抽到了,就得去。祖母明知就是为了那五块钱的事,但孤儿寡母的,胳膊拧不过大腿,有什么法子哟。

晚上,一家人坐在一起,唉声叹气,眼泪汪汪地商量着对策。祖母和姑妈女人家家的,有什么主意啊。父亲沉思了半晌,说:

“我还是先出去躲几天,他们来带人,就说不知去哪儿了,谅他们也不能把你们女人家怎么样。等风头一过,我再回来。”

看来也只能这样了,祖母当即找出一个包袱来,包上几件换洗的衣服,准备等天亮了就送父亲走。

这一夜,一家人哪里还能睡得着觉啊,祖母唠唠叨叨地嘱咐个没完,姑妈只知道哭,真好像生离死别一般。直到天快亮了,大家才迷迷糊糊地打了个盹。

早晨天一亮,父亲一咕碌爬起身来,拎了两只热水瓶出去打开水。父亲想打好开水再将家中水缸挑满,把煤炉生上,烧点早饭,吃了就上路。没想到一出巷口,眼前的情景惊得父亲张着嘴半天合不拢。只见城门大开,往日把守的国民党兵一个也不见了;街上静悄悄的,房檐下坐满了解放军战士。父亲也顾不得去打开水了,一溜烟跑回家,兴奋地说:

“妈,妹妹,解放啦!我们得救了,我也不用走啦!”

祖母一听,一下子坐起来,眼里满含着热泪,一个劲地念着:

“阿弥陀佛,菩萨保佑,菩萨睁眼啦,好人终有好报啊。”

姑妈也立刻穿上衣服,拉着父亲的手说:

“哥,我们快去看看吧。

他们兄妹俩再次来到街上,看到一些老百姓拿出家中的鸡蛋、面饼等送到解放军战士的手边,但战士们没有一个人伸手去拿。他们都笑着说:“大爷、大娘,我们是人民的子弟兵,有纪律,不拿群众一针一线。”

这是老百姓真正翻身的日子,父亲对这一天的情景记忆犹新、终身难忘。

这一天是1949423日,星期六,常州解放。如果不是共产党、解放军及时地解放了常州城,父亲就免不了要上演一出中国改革开放后,台湾老兵回大陆寻亲的悲喜剧了。


第1楽章  父親

父の趙 君行(チョー ジュンシン)は、19261114日に江蘇省常州市のある貧しい家庭に生まれた。祖父は金持ちの坊やとして生まれたが、肺病に患って早死にしため、父は幼少から叔母さんに引き取られて育ってきた。この叔母さんは今の私の祖母趙嬿だ。その年代の女性はひとたび嫁ぐと、夫の姓に変えて名乗らなければならない。父は趙家唯一の息子で、祖母は趙家の後継ぎを守るために終身結婚することはなかった。

父は幼い頃から体格がよく、がっちりしていて、牛のように力が強い。それゆえ綽名は「趙牛」(チョー ニュ)だったという。あの時代は子供達がまだ私塾にかよっていた時代だった。私のこの牛親父は生憎、子供時代は読み書きが好きではなかった。本を手にすると眠くなるという。そのため祖母によくお仕置きされたらしい。祖母も息子の出世を願うあまりに、毎日小さな一尺の物差しを持って父に読み書きをさせていた。その甲斐あって父は奇麗な書が書けるようになったものだから、後日私が汗顔するところになった。

家中は清貧で、生計は主に祖母が内職の針仕事をすることに頼っていた。家の力仕事は、言うまでもないが、祖母の心配もなく父の出番だ。父は読み書きよりも力仕事の方が性に合うようだ。父にしては、読み書きせずに毎日働いたほうがよいのだ。しかし、祖母はそうはいかない。夜になると石油ランプを点け、父に宿題と習字をさせながら監督傍らそばで針仕事をはじめる。父はもう本を開くと元気がなくなるわけだから、読んでいるうちにそのまま机に俯いて寝てしまう。祖母はこの有様を目にすると腹を立て、手にしている針をそのまま刺してしまう。父はハッと目が覚めて、またうつらうつらと本を読むが、そのうちまた寝てしまう。また刺される。何回か繰り返すと、祖母も怒る気をなくし、ため息をついて言う。「この馬鹿息子が!早く寝なさい!」これを聞くと父は特赦されたように腰掛けから飛び降りて手早く書物を片つけてベッドに入る。しかし、祖母はいつもランプの明かりで深夜まで内職を続け、生活がかかっているからだ。

ある日の朝、父は早起きして玄関を開けたら玄関口には竹かごが置いてあるのに気づいた。誰かがわざと置いていったようだ。近付いて見ると、あらまあ、赤ん坊だ。父は早足で奥に戻って叫んだ:「お母さん!お母さん!玄関に赤ちゃんがいるよぉ。」祖母は急いで服を着て出てきて見ると、本当だ、まだ生後1か月未満の赤ちゃんだ。丸い小さな顔はとてもかわいい。仏教徒の祖母は「阿弥陀仏、阿弥陀仏、罪よ、罪よ」と唱えながら、赤ちゃんを抱いて家の中に入った。おくるみを解いて、中に子供の生年月日が書いてあって、2枚の銀貨も入っていた。赤ちゃんは女の子で、体には疥癬が生えていた。祖母は考えた。息子を一人引き取ったが、まだ娘がいない。いっそう、この娘を引き取ろう。息子一人と娘一人で、老後も安心だ。そこで祖母は父に言った。「これは神様がおまえに妹をプレゼントしたんだ。もらっておきなさい。」父はとてもうれしかった。もともと家には一緒に遊ぶ相手もいないので、妹がいてくれると、ありがたいもんだ。祖母は医者を呼んできて赤ちゃんに病気を治療してもらい、また乳母を頼んで、おっぱいを飲ませた。この赤ちゃんは小さいときから体が弱く病気がちで、祖母と父は一生懸命面倒を見て、やっと彼女は難関を乗り越えて生き残ることができた。祖母は、最初は彼女に「趙漣漪」(チョー レンイ)という名前を付けたが、彼女が大きくなって社会人になってからは父の名前に並んで「趙君萍」(チョー ジュンピン)と改名した。彼女はつまり私の叔母だ。1931年の生まれだ。

1938年、日本軍が常州に侵攻して来た。日本軍機は頻りに空爆するから、一家は日々恐怖に包まれていた。夜は掛け布団をテーブルの上に敷いておいて、そのテーブルの下が寝床だったのである。のちに、もうこれ以上市内に居られないので、一家は市内から約10キロほど離れた王下村に疎開して来た。遠い親戚がいるので、その家に避難して来たのだ。一家三人で親戚の家に居候しているが、23日ならいいけど、時間が長くなると、いろいろと、親戚も内心では面白くないわけである。ちなみに遠い親戚だし、普段はほとんどお付き合いをしていないのだ。そして、避難も命拾いしたようなもので、何も持ち出さず、小さな風呂敷に簡単な着替えを入れただけで、持ってきたわずかな小銭は何日も持ちきれない。いつになったら戻れるか誰もわからない。遠い親戚の家の者は当てこすりを言うのも仕方がない。しかし、父は熱血漢で、まだ12歳の子供とはいえ、がっちりしていて、立派な若者だ。耳を刺すような当てこすりを黙って聞いていられないわけだ。頭にきて、何も言わずに常州に帰ってしまい、祖母は気絶するぐらい心配だった。

常州城に戻ったら目に見えたのは満目創痍で、あっちこっち焦土に化し、まだ黒煙をだしている家屋は点在している。家に辿りついて見ると、建物は残っているが、室内は狼籍を働かれた後で、少しでも良いものは物色されて、残されたものは重たい家具類の食卓や長椅子と腰掛けぐらいだった。幸いなことに家は火に焼かれていなかった。それで身を寄せる所があって、街頭を放浪しなくて済んだのだ。そのときは年配の大家さんも帰っていて、この路地中にはただこの老若の二人だけだった。大家さんは田舎から少しお米を持って来ていたので、父は町中燃え崩した家屋から、まだ煙を出している太い梁を両腕1本ずつ挟んで持ち帰り、斧を見つけて割って薪にした。とりあえず二人はお粥を作って食べて、寝ることにした。

翌日、大家さんはまた田舎からなんとか少し卵や刻みたばこ等を調達してきて、それを父に街へ呼び売りしてもらい、小銭を稼いで過ごしていた。

ある日、一人の男がたばこを一個買った時、父にこう言った。「ぼく、金を稼ぎたくないかい?」父は「どうやって?」男は、「ついて来い。」男は父を誰もいないところに連れて行ってこう言った。「我らのために塩を山の方に運んでくれないか。お金はやるぞ。ただ日本軍の封鎖線を通過しないといけない。やれるかい?」父は生まれたばかりの牛の子虎知らずで、やる気満々だ。虎も怖がらないから封鎖線はなんのその。胸をたたいて、「やる!」の一言。男は父を一軒の店に連れて行った。彼は父が着ている綿入れの上着を脱がせ、中から綿を取り出して、塩を入れた。縫い合せてからまた着せた。外は藁縄で結んだ。よく見てみても分からない。男は言った。「ぼく、君は自分の小かごを提げて、堂々と一号橋(そこは日本軍の封鎖線でもあった)を渡りなさい。湖壙橋に着いたら、こちらの仲間が待っているから」。それで、父はよく彼らに頼まれて塩を運び、少し稼いでいた。後に分かったことだが、彼らは共産党所属の抗日ゲリラだった。父は子供だったため、人の目につかないうえに機敏だから、意外何も起きなかった。そのうちにゲリラの兄ちゃんたちはみなこのがっちりした勇気のある子が好きになり、口癖に言った。おれたちについてこい。食うものなら心配ないぞ。しかし父は頭を横に振りながら言った。無理だよ。家にはおかと妹が待っているから。

数ヶ月後、日本軍による焼き払い、殺戮、強奪の嵐が去った後、父はやっと祖母と叔母を迎えに田舎に行ってきた。途中で日本兵に若い娘がばれないように祖母と叔母は鍋炭で自分の顔を黒く塗って隠し、家に着いても、数年間は玄関を出ることも恐れ、一家の生計は父が竹かごを提げて品物を売り歩いて稼いだ小銭で賄っていた。当時、お米は一升(750グラム)でただの16枚の銅貨(大体5銭ちょっと)で、あと少し野菜、豆腐を買えば生活ができるので、一日は十銭でも稼げばその日の暮らしが何とかなる。勿論、それはもう最低の生活だ。

父が16歳になった時、大成一廠の梱包室で働くようになった。小紗包の梱包が仕事だが、一日は十二時間も働き、出るのも帰るのも暗いうちだった。週に一日だけ家に帰れるが、工場を出る時は退出券を書かなければならない。後に、日本人による綿糸供給の独占で大成一廠は続けることができなくなった。父は知人の斡旋で協盛紡績工場のエンジン室の下働きとなったのだ。

その時代の織機の動力はまだ木炭を燃料としていて、毎日の明け方頃父は必ず労働者が出勤する前に工場のエンジンを起動しなければならない。このようなエンジンの起動は、恰も昔の人たちが毎日ご飯を焚くために練炭ストーブを熾すのと同じように、まず大きなストーブの中に、紙を火種にして薪を燃やし、そして窯口を閉じて、火が外に逃れないようにして、その煙(ガス)をエンジンに導入し、それから手で大きな整速輪を廻し、機械が起動するまで廻し続けるのだ。

エンジン室には杜(ドォ)という技師と父の2人だけだった。全工場の80余りの織機の動力供給を任されていた。力仕事はもちろん父で、杜技師は技術面の仕事のみだった。こうして父は一日働いたら、体中まっ黒な煤に汚され、ただ二つの目だけが白いものだった。こんなに働いても1ヶ月の給料は僅かな8斗の米だった。毎月は家賃の5斗の米を払ったら、残った3斗だけの米で、とても生活ができない。仕方がなく、こっちの仕事が終わると、リヤカーで布の運搬をしにいかなければならない。その時の運搬車は木制の一輪車で、腰の力でバランスをとりながら、「ギーカ、ギーカ」をいわせて押して進む。毎日、協盛布会社から40(1匹は約40ヤール)を積め、高い御史橋を渡り、南大街の商社に届き、帰りは40包の綿糸を自分の工場へ運ぶ。一往復すると10銭、20銭稼げる。多少なりとも、家の支出の足しになる。あと、祖母と叔母が針仕事や花の刺繍のような内職をすることで、なんとか一家は飢えなくてすむ。三人は助け合いながらなんとか生き延びた。父は叔母と小さいときから一度も口喧嘩していない。その後から今でも、二人とも70を過ぎ、電話のときはまだ「君萍」(ジュンピン)、「兄ちゃん」と、親しく呼び合っている。

19458月、八年の抗日戦争の末、中国人民はついに勝利の日を迎えた。

民衆は喜び勇んで、総出で街頭に勝利を祝いに出た。これで民衆は天下太平と思い、良い日を過ごせると思っていた。

その日、祖母はわざわざ二、三十個の銅貨を取り出して、父に街へ行かせて少し肉と野菜を買ってもらって、家族でやっとご馳走を食べた。一家は楽しく過ごし、晩もよく眠れるのだった。

しかし、外来の侵略を鎮めたばかりなのに、また内戦が起きて、人民は依然として苦難の海に。城門では日本兵がいなくなったと思ったら、今度は国民党兵になった。国民党兵は日本兵に勝るとも劣らないぐらい、金品強奪し、庶民を抑圧した。最も憎いのは保長(百戸長)、甲長(十戸長)らだ。彼らはもっぱら勢力を笠に着て人をいじめ、郷里の人々を食い物にして、酷く民衆を圧迫し、搾取した。当時の住民は十戸を一甲とし、一甲ずつ一人の長を置き、そして十甲を一保とし、一保ずつ一人の長を置いた。人民解放戦争が着々と勝利するにつれ、こいつらが国民党統治の日時が残りわずかと知りながら、ますます庶民達に対する搾取に拍車を掛けた。

当時、蒋乾大(ジャン ガンダ)という保長がいた。ある日彼はやってきて祖母に言った。「最近ちょっと手元が少しきついので五圓ばかり貸せや」と。祖母は「ねー、蒋保長さま、ご覧になってほしい。この家は、息子一人に工場で働いて一家を支えてもらっているから、お貸しできるお金はどこにもありませんよ」と言いかえしたが、この蒋乾大は「そうか、貸さんのか。覚えとけよ」と祖母を睨んだ。祖母は慌て作り笑いをして言った。「蒋保長、貸さないのではなくて、本当に無一文なので申し訳ありません」蒋乾大「ヘン」と鼻であしらって、くるりと背を向けて去っていった。

祖母が、今日は災いを招いてしまったと悟り、あいつがどんな報復をしかけてくるか心配でならなかった。叔母も怖くて泣きそうだが、さすが父は男で、テーブルをたたいて立ち上がって言った。

「お母さん、漣漪、心配しないで。あいつは私達には手出しできないはずだ!私も弱虫ではない。共産党の軍隊はもう直に来るらしいから、私達庶民たちの軍隊だそうよ。世の中は変るぞ。」

数日後、蒋乾大はまたやってきて祖母に言った。「お宅の息子は、徴兵されたぞ。早く仕度しろ。2日後に兵隊が連れに来る。」祖母は慌てて言った。「蒋保長、助けてくださいよ、息子を連れて行ったら、私達女二人はどうやって暮らしていけますか。規定があったでしょう。一人っ子は徴兵されないと言っているではありませんか。」蒋乾大は冷笑して言った。「今は非常時で、もうそれどころじゃないぞ。いかないといかん、上の命令だ。」祖母はきっとその五圓の「借金」の事のためだと分かっても、母子家庭ではとても抵抗できない。本当にどうしようもないのだ。

晩になって、一家は一緒に座って、ため息をついたり、涙が流れたりして対策を相談していた。祖母と叔母は女性で、なんの考えも出なかった。父は長く考えこんで、こう言った。

「しようがないから、私がともかく数日隠れるよ。あいつら連れに来ても、しらないと言って。恐らくあいつらも女に手を出さないだろう。この嵐が過ぎたら、すぐ帰ってくるから。」

ほかにも手はないので、祖母は風呂敷に着替えを入れて明け頃ともなると父を見送るつもりだった。

この夜、家族はだれも眠れず、祖母は心配でずっとあれこれと注意事を言い続け、叔母はただ泣いて泣いて、まるで死別の夜だった。皆は朝方になってやっと、うとうとして少し眠った。

夜が明けると、父はくるりと起きて、2本の魔法瓶を提げてお湯入れに出て行った(訳注:昔中国の町では、朝にお湯を売り歩くお湯屋さんがいた)。父はお湯を入れてから水甕にも水をいっぱい汲んで入れて、それから練炭ストーブの火を起こしてご飯を炊いて、食べたら出発しようと考えていた。ところで横丁を出ると目の前の様子にびっくり仰天。なんと城門は開かれ、今までの国民党哨兵は一人もいなかったではないか。街の中は静まり返っていたけど、軒下には解放軍の兵士はずらりと座っている。父はもうお湯よりも、早足で家に走って帰って、興奮気味に叫んだ。
 「おか、妹、解放だよ。助かったよ。もうどこも逃げなくてもいいよ。」

父の声で祖母はいきなり起き上がった。目にいっぱい涙を浮かんだ。「阿弥陀仏、菩薩の加護があったよ。菩薩様がお目を開いてくれた。善人は報われるものね。」

叔母もすぐさま服を着て、父の手を引っ張って言った。

「兄ちゃん、早く見物に行こうよ。」

兄弟二人は街にやってきた。見ると、人々は家から卵やパンを持ち出して解放軍の兵士に差し入れた。しかし、兵士たちはだれも受け取らなかった。彼らは笑ってこう言った。

「おじさん、おばさん、私達は人民の子弟兵だ。規則があって、大衆の物品を取ってはならないのだ。」

これは民衆が本当に解放された日だった。父はこの日の情景について今なお生き生きと覚えていて、一生忘れられない日だった。
 その日は1949年4月23日、土曜日、常州解放の日だ。もし、共産党や解放軍が常州城を解放しなかったら、父は台湾に連れて行かれたかもしれない。そうなると、中国の改革開放後に、台湾の老兵たちが大陸に帰って起きた肉親捜しの悲喜劇の中に、ちちがいたかもしれないのだ。