『物語要素事典』の方法(3)

                                    神山重彦

 

分類ではなく関連づけ

 『物語要素事典』は「物語を分類している」と受け取られることが多い。たしかに分類という面もあるのだが、しかし、一般的な分類作業とは、少なからず異なるところがある。

 分類というと、多くのものが一所にまとめられており、それらを何らかの基準で分けて行くことになるのだろう。たとえば、多くの郵便物を都道府県市町村別に分けて行くような作業が思い合わされる。しかし『物語要素事典』であつかっている物語群は、最初から誰かの手で一ヵ所に集められている、というわけではない。時代も地域もジャンルも異なる種々の物語群が、あちらこちらに散在しているのである。

 したがって物語群を分けるのではなく、むしろその逆で、これまでバラバラであった物語どうしを、新たに結びつけてゆくのである。

 同じジャンルに属していたり、内容がよく似ていたりする物語、あるいは、生み出された地域や時代などが近接する物語どうしなら、ごく自然に関連性が認められる。しかしそれらよりもはるかに数多くの物語群が、相互に無関係と見なされて放置されている。それらを、関連づけてゆくのである。

 関連づけの具体的な例をいくつかあげてみたい。昭和時代の初め頃、数々のすぐれた童話を書いた新美南吉に、『狐』という作品がある。

『狐』(新美南吉)  初等科3年生の文六ちゃんが、月夜に下駄を買う。通りかかりのお婆さんが「晩に新しい下駄をおろすと狐がつく」と言うので、文六ちゃんと一緒に夜道を歩く子供たちは、不安になる。その時、文六ちゃんが「コン」と小さな咳をする。子供たちは「文六ちゃんは狐になった」と思う。お母さんは、「もし文六ちゃんが狐になったら、父ちゃんも母ちゃんも一緒に狐になるよ」と言う。

 一方、昭和の後半期に、ショートショートという新たなジャンルを確立した星新一に、『こん』という作品がある。

『こん』(星新一『悪魔のいる天国』)  夫が帰宅すると、妻が目をつり上げて「こん」と一声叫び、それっきり口をきかなくなる。夫は、「狐がとりついたのだ」と思い、医者に連れて行く。医者は、「何らかのショックによる思考中断症状だ」と診察し、注射を打つ。妻の思考は復活し、狐の鳴き声の続きを叫ぶ。「・・・・ど浮気したら承知しないわよ」。

 「童話」と「ショートショート」というジャンルの違いゆえに、この2つの作品を並べて比較することは、これまでなされていなかっただろうと思う。しかし、この2作品はともに、狐の鳴き声が日本では「こん」と聞こえることを用いた物語である。隣り合わせることによって、2作品が、ジャンルは異なりながらも、共通する発想によって生み出された作品であることが、わかるであろう。その一方で、ジャンルの違い、作家の個性や作風の違いによって、作品の印象が明らかに異なることもわかる。それぞれの作品の特質を理解するためには、この2作品を対比することは有効であろうと思われる。

 『物語要素事典』では、この2作品は【動物音声】という項目のもとに、鳥の鳴き声、犬の泣き声、猫の鳴き声などの物語とともに、おさめている。

 あるいは、次のような対比もある。

 室町時代の世阿弥の作といわれる能の『井筒』は、女が、恋しい男の形見の衣を着るという物語である。

『井筒』(能)  遠い昔、紀有常の娘は、隣家に住む在原業平と幼なじみで、ともに井のもとで遊び、やがて2人は結婚した。それから長い年月がたったが、娘は死んで霊となった後も、なお業平を慕い続け、業平の形見の直衣を着、冠をつけて舞った。彼女は井の水に自分の姿を映し、「我が姿ながら業平のごとく見えて、なつかしい」と言い、涙をおさえた。

 一方、世阿弥の時代からは500年以上も隔たった、昭和時代の終わりごろに書かれた吉本ばななの小説『ムーンライト・シャドウ』は、男が、恋しい女の形見の服を着る物語である。

『ムーンライト・シャドウ』(吉本ばなな)  高校生の柊は、恋人ゆみこを交通事故で亡くしてから、彼女の形見のセーラー服を着て、登校するようになった。柊の親も、ゆみこの親も、泣いてとめたが、柊はとりあわなかった。2ヵ月ほど過ぎたある朝、柊の夢にゆみこが現れ、彼の部屋のクロゼットからセーラー服を持ち去った。目覚めると、セーラー服はなくなっていた。以後、柊は男姿に戻った。

 明らかに共通する発想で成り立つ物語である。『物語要素事典』では、この2作品を隣どうしに並べて記述したいところである。しかし一方は男装の物語、他方は女装の物語であり、男装・女装の両方を一言であらわす適当な語がない。そこで『物語要素事典』ではこの2作品を、【男装】と【女装】、別々の項目に分けている。

 『井筒』は【男装】の★7に、「恋しい男の形見の衣を着る」として、『ムーンライト・シャドウ』は【女装】の★4に、「恋しい女の形見の服を着る」として、収めている。そして相互にリンクを貼って、両者をつないでいる。『井筒』の記事の下に「*逆に、恋しい女の形見の服を着る→〔女装〕4の『ムーンライト・シャドウ』(吉本ばなな)」、『ムーンライト・シャドウ』の記事の下に、「*逆に、恋しい男の形見の服を着る→〔男装〕7の『井筒』(能)」のようにしているのである。

 『物語要素事典』は、物語要素ごとにその具体例をあげていくのだが、異なる物語要素の項目に配置した物語どうしに、関連性のあることに気づくことがしばしばあった。さいわい、ネット上の事典であるから、リンクという便利なものが使える。そこで遠く離れたページへリンクを貼るのである。

 先に郵便物の例をあげたが、郵便物の分類の場合は、まず都道府県別に分け、1つの県の中のいくつかある市の内の1つ、町、そして何丁目何番地というように枝分かれして行く。ツリー型の構造である。これに対して『物語要素事典』はネットワーク構造であるから、遠くに分かれた枝どうしが、末端近くで結びつくことが起こるのである。

 郵便物の場合には、A県A市A町にあるX家へ郵便物を届けるならば、A県A市A町という筋道をたどって行くことが必要である。遠く離れたZ県Z市Z町から、すぐさまA県A市A町のX家へ行こうとするなら、超空間を通り抜けて行かねばならないであろう。SF小説にワープというものが出てくるが、現実世界では今のところそれは不可能である。ところがインターネットの世界では、それをごく普通に行なうことができるのである。

 紙の事典でも「→」で遠くのページの記事との関連を示すことはできるが、実際にページをめくって目指す記事を捜すのは、なかなか手間がかかり時間もかかる。したがって紙の書物の場合には、あまりたくさんの「→」を設定することはしにくいのである。

 それに対して電子メディアの場合には、クリックするだけで遠く離れたページへ行くことができる。『物語要素事典』をネット上に開設した10年前は通信速度が遅く、クリックしても目指すページが表示されるまでに数秒以上もかかることがあったが、21世紀になってからはブロードバンドの普及で、本当に一瞬で、遠く離れたページへ飛べるのである。先に述べたワープという語をもう一度ここで用いるならば、紙の書物では困難なワープが、ネット上では、いともたやすくできるのである。

 

発見・創造

 ものごとを関連づけることに、人間は面白さや喜びを感じる。本格推理小説の解決編で、バラバラの事象が名探偵によって関連づけられる所を読んで、ワクワクする快感を味わった経験を持つ人は多いであろう。

「向こうの家に囲いができたんだってねえ」「へえ」という、おそらく誰でも聞いたことがある駄洒落でも、「へえ」という感動詞と「囲い」を意味する「塀」との発音の類似から、文法上は別々の品詞に属する語の「へえ」と「塀」を関連づけたところに、ちょっとした面白さがあって、聞いた人は笑うのである。

 さらに、アルキメデスやニュートンの科学上の発見もまた、関連づけである。アルキメデスは、混ぜ物のある王冠と、浴槽に入っている自分自身とを関連づけた。ニュートンは、落下するりんごと、落下しない月とを関連づけたのである。

 駄洒落を聞いた時には、われわれは「ワハハ」と笑う程度であるが、アルキメデスは、喜びのあまり「ユーレカ」と叫んで、裸のまま浴槽から飛び出したと伝えられている。

『物語要素事典』を「たいへん面白い」と評する人がいる。これは一つには、個々の物語の要約そのものが面白い、ということがあるのであろう。もとになっているのはすぐれた文学作品や映画などであり、それらを要約しても、もとの作品の面白さが失われず、伝わっていれば、結構なことである。

 ただし、それに加えて、複数の物語の配列・取り合わせの面白さを感じる人もいるだろうと思う。インターネット上のホームページやブログには、『物語要素事典』についての感想を述べたものがいくつもあり、「見ていると知らぬ間に時間がたってしまう」「読み出すととまらない」「脳髄を刺激される」などの記述がある。『物語要素事典』の利用者は、ある記事を読み、その前後を読み、いくつも設定されている「→」をたどって、あちらこちらのページを見て行くのだろう。

 『物語要素事典』は、書物の事典とは段違いに多くの参照記号「→」をつけ、かけ離れた物語要素の中の作品にむけて、すぐジャンプ(あるいはワープ)できるように作ってある。それゆえ利用者は、最初、ある物語要素のある項目を読み始めても、ほとんどの場合、途中の参照記号をクリックし、別のページを読み、そこでまた参照記号をクリックして別のページへ飛ぶ、ということをするのであろう。

 出てくる記事を読んで何らかの連想が起こる、それにしたがって他のページを見る、という繰り返しで、そもそも最初何を調べようとしていたか、つい忘れてしまってあちらこちらのページを読み、知らぬ間にずいぶん時間がたっていた、という経験をする人が多いだろうと思われる。

 利用者が独自の連想を働かせて、事典の他のページの記事を見たり、あるいは、事典には載っていない作品を思い合わせたりすることもあるのだろう。『物語要素事典』は利用者の連想を誘発し、自然に新たな発想が得られやすいように作ってある。「インスピレーションをわかすのに良い」と書いたホームページもある。小説家やシナリオライターなどをこころざす人々にも、『物語要素事典』はいくらか参考になっているようである。

 大塚英志氏は、評論家であり小説家でありマンガの原作者でもある多才な人であるが、「週刊アスキー」(2007年9月18日号)の「とっておきの情報サイト」というアンケートに答えて『物語要素事典』をあげ、「本業のマンガ原作で追いつめられた時、使います。・・・適当に項目を開いていくと何となくアイデアが浮かびます」と述べている。「適当に」「何となく」という表現からすると、「自然にアイデアが浮かぶ」、あるいは「アイデアが浮かびやすい」、ということなのであろう。

 国会図書館のデジタル・アーカイブでは、NDC番号901「文学理論・作法」の部に『物語要素事典』が登録されている。創作に何らかの形で役立つと、見なされているのであろう。

 

物語の新しい解釈

 これまで述べてきた例は、2つの物語の対比ということであったが、そこから一歩進んで、作品の解釈そのものに大きく関わってくる場合もある。

 日本の中世・近世には、僧が心の中に何物かを念じて瞑想に入ると、僧の姿が他人からは見えなくなり、それに代わって、僧が心の中で念じていたものが現れてくる、という物語が、いくつか見られる。『物語要素事典』の【観法】の項目には、以下のような例をあげている。

【観法】

★1.僧が心の中に水を観じ、自身とその周囲をすべて水にしてしまう。

『弘法大師御本地』(御伽草子)  空海は、たびたび水想観を修し、家の内が池となることがよくあった。

『撰集抄』巻7−6  恵心僧都は常に水想観を修し、我が身と一室を、ことごとく水になしていた。ある日、保胤入道が訪れると、室内は水ばかりで恵心の姿がなかったので、保胤は枕を水中に投げ入れた。翌日、恵心は「胸苦しいので枕を取ってくれ」と言って再び水想観をし、保胤は水に入って枕を取り出した。保胤の身体は少しもぬれなかった。

★2.柏の木を観想すれば、柏の木が現れる。 

アゴの杢之助の話  江戸時代。アゴが長いので「アゴの杢之助」と呼ばれた泥棒が、夜、愚堂国師の部屋へ盗みに入る。ところが部屋には誰もおらず、柏の木が一本そびえていた。愚堂は坐禅をして「庭前の柏樹子」の公案に取り組んでおり、我を忘れて公案になりきっていたため、愚堂の姿は消え、室内に柏の木が生じたのである。坐禅を終えると、愚堂の姿が現れた。杢之助は驚き、愚堂に弟子入りした。

★3.次の例は、禅師が「無」を観じていたために、その姿が見えなかったのであろう。

『雨月物語』巻之5「青頭巾」  旅の快庵禅師が、山寺に宿を請う。山寺の僧は鬼畜の境涯に陥っており、快庵禅師を喰おうとして、月明の夜、寺中を捜し回る。しかし、どこにも快庵禅師の姿は見えない。快庵禅師は終夜眠らず一所に坐しており、朝になって僧はようやく快庵禅師の姿を見出す。僧は「鬼畜の目で活仏を見ることができないのは当然だ」と言って、恥じ入る。

 ある時私は、これらの物語について考えていて、カフカの小説『変身』を連想した。『変身』も、これと同じことではないか、と思ったのである。

 『変身』は、『物語要素事典』では、【変身】の項目に収めてある。変身譚にはいろいろなものがあるが、古くは「魔法による」など、変身の理由が明らかに示されるのが普通であった。ところが20世紀のカフカの小説では、変身の理由がまったく不明である。

【変身】

★3a.明確な理由なく、一人の人間が動物に変身する。

『変身』(カフカ)  セールスマンのグレゴール・ザムザは、父・母・17歳の妹とともに、暮らしている。ある朝、グレゴールは巨大な毒虫に変身する。彼は自室に閉じこもり、妹が食事を運ぶ。働き手を失った一家は困窮し、下宿人を置くが、彼らは毒虫の存在を知って、下宿代の不払いを宣言する。グレゴールは、変身して数ヵ月を経た3月下旬に死ぬ。一家は安堵して、郊外へピクニックに出かける。

 『変身』の主人公グレゴール・ザムザは、自分自身を「毒虫のようなもの」と思っていたのではなかろうか。彼が自らを「毒虫」と観じたゆえに、家族たちの目からも、彼が毒虫と見えたのであろう。日本の古代・中世の物語に出てくる僧たちが、自らを「水」「木」「無」と観じていたために、他人からも、僧が「水」「木」「無」と見えたのと同様のことである。

 【観法】と【変身】という、異なった項目にある作品の間に、つながりを見出したわけである。こういう解釈については、賛成する人も反対する人もいるだろう。しかし一つの解釈として、検討するだけの意味はあるのではないかと思う。

 

無意識の組み合わせ

 ポアンカレの『科学と方法』は、数学における発見について、彼自身の体験をふまえて考察したものであり、発想法などを論じた書物の中では必ずといって良いほど言及される、古典的な基本文献ともいえるものである。

 その第1篇第3章「数学上の発見」が、とりわけよく知られた部分である。ポアンカレは、2週間ほど、ある数学上の難問を考え続けていた。その後、彼は旅行に出かけ、多忙にまぎれて数学のことは忘れていた。ところが、乗合馬車に乗ろうと踏み段に足を触れた瞬間、突然、難問解決にいたる一つの着想が浮かんだのだった。

 着想が突如浮かんだということは、彼自身が数学のことを忘れている間にも、彼の中にある何者かが、ずっと、彼も気づかないところで、考え続けていたのであろう。こういう経験を通して彼は、われわれは無意識の中で常にさまざまなものごとの組み合わせを行なっているのだという。「意識的自我の範囲は狭く、潜在的自我にいたっては、吾々はその限界を知らないほどである。吾々が、潜在的自我は意識的生物が一生かかっても包容し切れぬほどのさまざまの組み合わせを小時間のうちにつくってしまう、と想像することをあまり躊躇しないのもこの故である」と彼は述べている。

 ポアンカレは、「潜在的自我」を別の所では「無意識的自我」とも記しているので、本稿ではこれらを「無意識」、「意識的自我」を「意識」、と呼ぶこととしたい。またポアンカレの言う「組み合わせ」は、本稿で述べている「関連づけ」と、おおむね同じ意味であるといってよかろう。

 このような無数の組み合わせ、関連づけが行なわれている中で、無意味な組み合わせを排除せねばならない、とポアンカレは言う。いわば篩にかけるわけであるが、その篩にあたるのが、彼の言葉を用いれば「審美的感受性」である。

 一般に数学では、簡潔な形の公式を好むということがある。ある事象を説明するのに、長くて複雑な公式と短くて簡潔な公式があるとすれば、必ず、簡潔な公式の方が良しとされるだろう。その方が「審美的感受性」にかなうのである。しかし『物語要素事典』を作る立場からいうと、必ずしも簡潔なものが良い、とは限らないと思う。現在の私の立場としては、『物語要素事典』の作成について「審美的感受性」という語を用いるのは、躊躇するところがある。私としては、無意識の中で行なわれている無数の関連づけのうち、「意味のあるものが選択されて」意識の上に浮かび上がってくる、という言い方にとどめておきたい。

 では、意味のある組み合わせを選び出して意識に届ける、その主体は何であろうか。いいかえれば、何者が、膨大な組み合わせの中から意味のあるものを選び出して、意識の表面へ送り届けるのであろうか。ポアンカレは、それも無意識であると考えているらしい。しかし無意識は、無数の組み合わせをし続けているのだから、その中に埋没せずに、そこからやや独立した機能があるのであろう。無意識と意識の中間にある何者かが、選別・ふるいわけをしているのだろうと思う。

 ところで『物語要素事典』における物語相互の関連づけは、けっして意図的に、何か変わった組み合わせを作ってやろうと考えて、やっているわけではない。かつて、それは現在のような研究をし始めた頃で今からもう25年くらい前のことだったが、一度だけ、2つのかけ離れた物語を無作為に取り上げて、その2つを強引に関係づけようと試みたことがあった。いくらかの時間考え続けて何とか関係づけたが、その時は、実にいやな気持ちがした。こういうことはすべきではないと思い、それ以来一度もしていない(なぜ不快な気持ちになったのであろうか。この問題は続稿で取り上げてみたい)。

 さて、無意識の中の多くの組み合わせの中から、有意義なものとして選択されたものを、意識が受け取るのである。ところが、意識に浮かび上がってきた組み合わせが、はたして妥当なものかどうか、意識の側でとまどうことがある。

 

蝶と魂

 いくつかの物語について授業で話しているうちに、自分でも思いもよらない関連づけが思い浮かんで来たことがある。精神分析の分野で自由連想という技法があるというが、そのごとく、いろいろしゃべっているうちに無意識と意識との境目で働く検閲機能がゆるみ、普通は浮かび上がって来ないような考えが、出て来てしまったのかもしれない。

 大学院の授業で、ラフカディオ・ハーンの短編を読んでおり、『蝶』という短編を取り上げた時のことである。『蝶』の内容は、以下のようなものである。

『蝶』(小泉八雲『怪談』)  青年高浜の婚約者アキコは、婚礼直前に肺病で死ぬ。高浜はアキコの墓の隣地に家を建てて住み、一生独身をとおす。数十年後、年老い臨終の床についた高浜の部屋へ、大きな白い蝶が舞いこむ。看病していた甥が追い払うと、蝶はアキコの墓石の前まで飛んで姿を消す。蝶はアキコの魂であった。

 授業では、この物語を読んだ後に、『物語要素事典』の中の【蝶】の項目をコピーして配布しつつ、蝶にまつわるいろいろな物語について述べた。

 ハーンは、他にも蝶の出てくる物語を書いている。

『安芸之助の夢』(小泉八雲『怪談』)  夏の午後、安芸之助は庭の杉の木の下で、「常世の国王の婿となって23年を過ごす」との夢を見る。2人の友が、うたた寝をする安芸之助の顔の上を1匹の蝶が飛び、それが蟻によって木の下の穴へひきずりこまれる有様を見る。木の下には蟻の国があった。

 この物語の原拠である唐代伝奇の『南柯大守伝』には、蝶は出てこない。眠る安芸之助の顔の上を飛ぶ蝶は、彼の身体からさまよい出た魂、と解釈して間違いはないであろう。また、有名な荘子の胡蝶も、これと同様のものであろう。

『荘子』「斉物論篇」第2  荘周(荘子)は夢で胡蝶となった。翅にまかせて飛び、自らが荘周であることを忘れたが、目覚めて見るとやはり自分は現身の荘周であった。

 死者の魂が蝶の姿をしている、もしくは、死者が蝶に化身する、という物語には、次のようなものがある。

『朝顔の露の宮』(御伽草子)  朝顔の上と露の宮を葬った塚の内から若君1人が出生するが、父母なくしては育つこともかなわず、露と消える。その魂は胡蝶と化して花々に戯れ、「父よ母よ」と明け暮れ嘆いた。

『発心集』巻1−8  大江佐国は生前花を愛し、「他生にもまた花を愛する人たらん」の詩を作った。死後ある人の夢に、佐国は蝶になったと見えたので、佐国の子は前栽の花を手入れし、集まる蝶の世話をした。

 人間の亡魂が、蝶の前段階の毛虫になるばあいもある。

『狗張子』(釈了意)巻5−5「宥快法師、柳岡孫四郎に愛着して毛虫となること」  宥快法師は美少年孫四郎との仲を、孫四郎の父甚五郎に裂かれたため、怒って絶食死し、孫四郎をも取り殺した。宥快の亡魂は、無数の毛虫となって甚五郎の家に湧き出、日を経て蝶になり、群がり飛んだ。

 授業では、このように述べてきて、「しかし物語にでてくる蝶が、すべて人間の魂というわけではない。これらとは明らかに異なる、普通の動物としての蝶もある」と言って、往年のアメリカ映画『西部戦線異状なし』の有名なラストシーンに出てくる蝶のことを述べようとした。『西部戦線異状なし』はレマルクの小説を映画化したものであるが、蝶のエピソードは原作にはなく、これは映画であらたに加えられた場面である。

『西部戦線異状なし』(マイルストン)  第一次大戦も終わりに近いある日。ドイツ兵ポールは前線の塹壕にいたが、銃声が止み、つかの間の静寂が訪れる。ポールは1匹の蝶を見つけ、つかまえようと、手をのばして塹壕から身を乗り出す。その時フランス兵がポールを狙撃し、彼の手は蝶に届くことなく地面に落ちる。

 ここに現れる蝶について、「これは魂とは関係がない」と言おうと思っているうちに、「ひょっとしたら、魂かもしれない」との思いが、浮かんできた。死を前にした人の魂が身体からさまよい出て、その当人がそれを見る、という物語を、その時思い出したからである。『物語要素事典』には、【人魂】の項目に以下の2例をあげている。

『温泉だより』(芥川龍之介)  秋彼岸前のある暮れ方、女が、屋根の上を飛ぶ火の玉を見る。縁台に腰かける大工の半之丞にそのことを話すと、半之丞は「あれは今おらが口から出ていっただ」と言う。それから幾日も立たぬ彼岸の中日に、半之丞は自殺する。

『曾根崎心中』  お初・徳兵衛は、曾根崎の森へ死出の道行きをする。2つ連れ飛ぶ人魂を見て、2人は「あれこそ、まもなく死ぬ自分たちの魂である」と悟る。

 これをもとに考え直すと、次のようなことになる。ドイツ兵ポールは、まもなく死ぬ運命であった。死に先立って、ポールの魂が、蝶の形をして彼の身体から飛び出た。ポールはそれが自分の魂とは知らず、普通の蝶だと思って、つかまえようと塹壕から乗り出した。そこを狙撃されて死んだ。

 こう解釈するのには、問題が2つある。1つは、『西部戦線異状なし』という作品全体をふまえれば、蝶をこのように解釈するのは、やはり無理があるのではないか、と思われることである。しかしながら、このような関連づけ・このような解釈が、無意識から意識へ送り込まれてしまったのである。

 現在の時点では、『西部戦線異状なし』の蝶と魂との関連については、『物語要素事典』には書き入れていない。ただ意識の片隅にとどめておくだけである。今後、新たな物語に接したり、これまでに知っている物語に対する見方が変化したりすることによって、『西部戦線異状なし』の蝶について、「これは魂ではない」と結論づけるかもしれない。逆に「蝶は、やはりポールの魂だ」と思うようになるかもしれない。また、まったく異なるもっと良い解釈が生まれるかもしれない。

 しかし実はもう1つ、もっと大きな問題がある。私自身が、ある固定した思考のパターンにとらわれていて、そこから抜け出せないでいるのではないか、との反省がある。

 かつて、昔話などに見られる異類女房譚について、これを魂が抜け出る物語と解釈して論文を書いたことがある。異類女房譚とは、夫が女房の姿をのぞき見ると鳥や蛇であった、という内容の物語である。この鳥や蛇は、一般には女房の正体、つまり鳥や蛇が人間の女房に変身していた、と解されている。これに対して、女房は人間であり、その女房の身体から抜け出た魂が、夫の目には、鳥や蛇という動物の形に見えたのであろう、という解釈を私は試みた。『西部戦線異状なし』の蝶の場合も、小動物を人間の身体から抜け出した魂、と見る点で、それと同類の考え方である。これは私自身の考え方の癖、一種の固定観念ではないのだろうか。

 

かたよらない見方

 『物語要素事典』を作り続けて行くうちに私は、薬師寺の故・高田好胤管主(法相宗管長でもあられた)の言葉を、しばしば思い出すようになった。それは「般若心経の心」というものである。昭和40年代に高田好胤管長はよくテレビに出ておられ、「かたよらない心 こだわらない心 とらわれない心 ひろく ひろく もっとひろく これが般若心経 空の心でございます」と言っておられた。私は大学生の時にこの言葉を知った。

 「かたよらない心」というのは、『物語要素事典』作成に即していえば、「取り上げた作品にかたよりがないように」「物語要素そのものにかたよりがないように」ということである。私自身の関心が特定の方向に偏っていれば、ある一定の物語要素については、多くの作品例を列記できるであろう。しかし自分の関心の薄い方面の物語要素については、そもそもそういう物語要素自体に思い至ることがないであろう。物語要素としての立項すらされておらず、しかも作成者である私自身がそれにまったく気づいていないということが起こり得る。『物語要素事典』には、重要な物語要素がいくつも抜け落ちているかもしれない。ある方面には詳しく、他の方面にはまったく記述がない、ということがあるかもしれない。そうならないように、気をつけたいと願っているのである。

 「こだわらない心」「とらわれない心」も、『物語要素事典』作成に即していえば、いったん作った枠組みや、いったん得た解釈に、いつまでもこだわったり、とらわれたりしないように心がけるということである。

 これらの問題については、1年か2年の間をおいて続稿でまた考えたいと思う。1年か2年の間をおくというのは、その間にも私は『物語要素事典』を作り続けて行くわけであり、その過程でまた、思いがけない物語相互の関連に気づかされることがしばしば起こるだろうからである。

 本稿で述べてきた言い方をするなら、無意識から意識に向けて、いろいろな関連づけが送り込まれるわけである。それらがどのようなものであるか。つまり、あいかわらず、「小動物=魂」とか、それに類する固定した発想から抜け出せないままなのか、それともまた異なった、新しい見方・新しい解釈が何か出てくるかどうか、自分自身の思考パターンを点検したいと思うのである。