『日本書紀』巻2神代下・第10段一書第1 ヒコホホデミ(=山幸彦)が海辺にたたずんでいると、塩土老翁(しほつちのをぢ)が現れ、袋から黒い櫛を取り出して地に投げた。するとそれらは多くの竹林になった〔*塩土老翁はその竹で籠を作り、ヒコホホデミを中に入れて、海神の宮に送った〕。
『播磨国風土記』揖保の郡林田の里 伊和大神が占有の標を立てると、それが楡の樹になった。
『肥前国風土記』神崎の郡琴木の岡 景行天皇が、岡で宴をした後で琴を立てると、琴は高さ五丈周り三丈の樟となった。
『変身物語』(オヴィディウス)巻15 ロムルスの投げた槍がパラティウムの丘に突きささると、たちまち槍から葉が生じた。槍はそこに根づき、木となった。
『ホスローとシーリーン』(ニザーミー)第60章 ファルハードの持つつるはしの柄は、柘榴の木でできていた。彼が死に臨んで山から落としたつるはしは地上にささり、そこから柘榴の若木が生え育って多くの実をつけた。
『陸奥国風土記』逸文・八槻の郷 ヤマトタケルが土蜘蛛を射た槻の矢は、ことごとく芽を出して槻の木となった。
『日本書紀』巻1神代上・第8段一書第5 スサノヲノミコトが鬚(あごひげ)髯(ほおひげ)を抜いて散らすと、それらは杉になった。胸の毛は檜になり、尻の毛はマキ(=イチイ科の常緑喬木)になり、眉の毛は樟になった。「杉と樟は浮宝(うくたから=船)とせよ。檜は宮殿、マキは棺の材料にせよ」と、スサノヲは教えた。
*杖が根づいて木になる→〔杖〕1aに記事。
『神仙伝』巻6「董奉」 董奉は、人々の病気治療に従事したが、薬代を取らなかった。代わりに、重病が治った者には杏(あんず)の木を五本植えさせ、軽い者には一本植えさせた。これを数年続けると、十万余本の杏林(きょうりん)になった〔*この故事から、医師を「杏林」という〕。
『積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)』 逢坂山の関守・関兵衛の正体は、大悪人・大伴黒主であった。冬の夜、彼は盃に映る星影を見て、「今宵、墨染桜を切って護摩木となし、班足太子の塚の神を祀れば、天下を取れる」と悟る。彼は大斧で墨染桜の木を切ろうとするが、墨染桜の精に妨げられ、切ることができない。木の中から現れた墨染桜の精は、桜の一枝を武器とし、大伴黒主は大斧をふりまわして、激しく戦う。
*→〔繰り返し〕1の『酉陽雑俎』巻1−33。
『捜神記』巻18−3(通巻415話) 大勢の人夫が何日かけても切れない木がある。妖怪と木の精が「被髪した三百人の人夫が赤い着物を着、赤糸を木に巻き灰を塗れば、切れる」と話し合うのを、ある人が耳にし、その通りにすると木は倒れた。
『捜神記』巻18−5(通巻417話) 張叔高が田の中の大木を小作人に切らせるが、斧を入れると赤い液が六〜七斗も流れ出たので、小作人は逃げ帰る。叔高自らが行って木を切ると血が流れ出るが、叔高はかまわず枝を払い、現れた妖怪数匹を殺して、ついに木を切り倒す。
*→〔立ち聞き〕1の『今昔物語集』巻11−22。
『三国志演義』第78回 曹操が宮殿の梁とするために、人夫たちに命じて梨の巨木を切らせるが、鋸も引けず斧も入らない。曹操自らが剣で切りつけると、血が彼の全身にそそぎかかる。曹操は木の神のたたりで激しい頭痛を病み、それがもとで死ぬ。
『煤煙』(森田草平)3 要吉の祖父は、岐阜の某村の庄屋だった。祖父は若い頃、血気にまかせて、斎藤道三のたたりがあるという「道三松」を伐り倒した。すると切り口から血が噴き出し、祖父はその場に卒倒した。四十日余り病んだ末に、祖父は三十一歳で死んだ。
『荘子』「人間世篇」第4 大工の棟梁の石が斉の国で、幹が百かかえもあるほどの巨木を見るが、そのまま通り過ぎる。弟子が「立派な材木だ」と言うと、石は「あれで舟を造れば沈むし、柱にすれば虫がわく。使い道のない木だからこそ、あんな大木になるまで長生きできたのだ」と教える。
『荘子』「山木篇」第20 荘子が山中で枝葉の繁った大木を見る。樵夫がその傍らで立ち止まるが、「使いようがない」と言って伐採しない。荘子は「この木は役立たずゆえ、天寿を全うできるのだ」と言う。
人喰い松の伝説 昭和五年、渋谷の神宮通りにある松の木を、区画整理のため近くへ移転させる計画が起こった。ところが、推進者の一人は移転地相談の夜に転んで肋骨を折り、移転の発起人もまた罹病した。その前後、木の枝を切った一家七名が死亡したり、木に悪戯した数人が病気や怪我をしたので、「人喰い松」と呼んで大騒ぎになった。町民が供養し、木は翌年無事移転した(東京都渋谷区)。
あこやの松の伝説 千歳山の麓に住むあこや姫のもとに、毎夜、「名取左衛門太郎」と名のる青年が訪れる。ある時青年は、「自分の正体は千歳山の老松である」と打ち明けて、別れを告げる。老松は名取川架橋のために切り倒され、多数の人馬が引いても動かない。しかし、あこや姫が松に手をかけると動き出す(山形県山形市)。
『三国伝記』巻7−27 千手観音像を彫るべき霊木を運ぶ途中、惣持寺のあたりで動かなくなる。山蔭中納言が霊木に「此処に跡を垂れんと欲するならば、願わくは軽く挙るべし」と語りかけると、木はもとどおり軽く挙った。
『三十三間堂棟由来』 柳の木の精であるお柳は平太郎の妻となって、一子みどり丸を得る。しかし、みどり丸が五歳の時、柳の木は三十三間堂の棟木とするために切り倒され、お柳は姿を消してしまう。人夫たちが柳の木に綱をかけて引くが一向に動かず、みどり丸が引くと木は動き出す。
『変身物語』(オヴィディウス)巻1 アポロンが、河神ペネイオスの娘ダフネ(ダプネ)を恋して追いかけた。ダフネはアポロンを拒み(*→〔矢〕4)、我が姿を別のものに変えてくれるように父神に祈って、月桂樹に変身した。
『変身物語』(オヴィディウス)巻10 父親と交わって懐妊したミュラは、荒野をさまよったあげく、没薬の木と化した→〔誕生〕1。
*→〔誕生〕1の『呂氏春秋』巻14「孝行覧・本味」。
『常陸国風土記』香島郡、童子女の松原 カガイ(歌垣)で出会った寒田郎子と海上孃子とは、その夜、恋を語り合うが、夜が明けてしまい人に見られるのを恥じて、ともに松の樹に化した。郎子を奈美松といい、孃子を古津松という。
*→〔同日・同月〕5の『変身物語』(オヴィディウス)巻8。
『神曲』(ダンテ)「地獄篇」第13歌 「私(ダンテ)」は地獄の第七圏谷第二円に降りる。森の大樹の一枝を折ると、血が流れ出て、「なぜ私を折るのか?」と幹が叫ぶ。それは、自殺者が木に変えられていたのだった。自殺者の魂は木の幹に閉じ込められ、最後の審判の日も、彼らは肉体を身につけることができない。自らの魂の茨の木に、肉体はぶら下がるしかないのだ。
『歯車』(芥川龍之介)2「復讐」 冬の日。「僕」は小説執筆のために滞在中のホテルを出て、姉の家まで歩いて行った。姉の夫は、何日か前に鉄道自殺したのだ。道沿いの公園の樹木を見て、「僕」は「ダンテの地獄の中にある、樹木になった魂」を思い出した。「僕」は道を変え、ビルディングの並ぶ電車線路の向こうを歩いた〔*芥川龍之介自身も、『歯車』執筆後に服毒自殺する〕。
『棒』(安部公房) 男がデパートの屋上から転落し、棒となって地面に落ちる。死者を裁く役目の先生と二人の学生が、棒の処罰について話し合い、「ここに置きざりにするのが一番の罰だ」と結論して、歩み去る。
『ギュルヴィたぶらかし(ギュルヴィの惑わし)』(スノリ)第9章 主神オーディンと彼の兄弟たちは、海岸で見つけた二本の木から人間の男女を造り、息・生命・智恵・運動・顔・言葉・耳・眼・衣服・名前を与えた。男はアスク、女はエムブラと言い、この二人から人類が生まれた。
『コタンカラカムイの人創り』(アイヌの昔話) 神様が土で人間を造った時(*→〔土〕1)、柳の枝を背骨として土に通した。人間が年をとると腰が曲がるのは、背骨の柳が年老いて曲がるからである。
『青柳のはなし』(小泉八雲『怪談』) 若侍が、山中の柳の木の近くの一軒家で美女青柳を見いだし、妻として連れ帰り幸福に暮らす。五年たったある日、青柳は突然苦しみ出し、「柳の生気が私の命であり、今誰かが私の木を切り倒している」と夫に告げて、息絶える。
『老松』(能) 都の梅津某が、北野天神の夢告にしたがって筑紫の安楽寺を訪れる。かつて菅原道真を慕ってこの地に来た老松(追い松)と飛梅の精が、老人と若者の姿で現れ、松や梅の故事を語り聞かせる。
参宮松の伝説 伊勢参宮の旅人五人が、道中、松右衛門という老人に世話になる。翌年五人は老人の故郷秋田の水沢を訪ねるが、松右衛門は実在しない。松右衛門と名乗ったのは松の老木の精で、昨年の一時期、松が枯れかかったのは松の精が伊勢参宮していたためだった、と村人たちは悟る(秋田県河辺郡雄和町)。
『三十三間堂棟由来』 昔、梛の木と柳の木が枝を交わし夫婦となっていたが、修行僧蓮華王坊が枝を切り、夫婦の仲を裂いた。後、梛は平太郎という人間に生まれ変わり、柳の精はお柳という娘に身を変じて、二人は結婚し、子供も生まれる。しかし、三十三間堂の棟木にすべく柳の木が伐り倒されることになり、お柳は夫と子に別れを告げて去る。
『高砂』(能) 阿蘇の宮の神主友成が播州高砂を訪れ、熊手と杉箒を持つ老人夫婦と出会う。彼らは高砂の松と住吉の松の精であり、住吉で待つと告げる。友成が船で住吉へ行くと、住吉明神が出現し、舞う。
*→〔糸〕2aの『袋草紙』(藤原清輔)「雑談」。
『サザエさん』(長谷川町子)朝日文庫版・第26巻76ページ 昔、婚約時代のサザエとマスオは高原でデートし、二人の名前を林の木に刻んだことがあった。後にその木は伐採され、電柱になった。ある日、サザエとマスオ夫婦は町を歩いていて、自分たちの名前が刻まれた電柱を見かけ、たいへん驚いた。
『花咲か爺』(昔話) 隣の爺が、正直爺の愛犬シロを殺し、榎樹(えのき)の下に埋める。正直爺がシロをしのんで、榎樹で臼を作って搗くと、たくさんの餅が出てくる。隣の爺が臼を借りて搗くが、犬の糞が出たので、怒って臼を焼く。正直爺が臼の灰を持ち帰り、枯れ木にまくと花が咲く。
*エデンの園の木がイエスの十字架に→〔十字架〕1の『黄金伝説』64「聖十字架の発見」。
『古事記』上巻 天孫ニニギの子ホヲリ(=山幸彦)が、海神の宮の門前に到り、井の傍らの桂の木に登る。海神の娘トヨタマビメの侍女が、水汲みに来てホヲリの姿を仰ぎ見る。侍女はトヨタマビメに「立派なおかたがおいでです」と知らせる〔*『日本書紀』巻2・第10段本文および一書第1では、ヒコホホデミ(=ホヲリ)は桂の木の下にいたと記す。一書第2では、木に跳び登った、と記す〕。
『今昔物語集』巻20−3 京の五条の、実のならぬ柿の木の上に、仏が出現して光を放ち花を降らす。右大臣源光がにらむと、仏は鳶の正体をあらわして地に落ちる〔*『宇治拾遺物語』巻2−14に類話〕。
『隣りの寝太郎』(昔話) 分限者の屋敷の隣りに、怠け者の寝太郎が住んでいた。寝太郎は夜中に分限者の庭の松の木に登り、「わしは奥山の天狗だ。お前の娘を、隣りの寝太郎の嫁にやれ」と命じて、提灯に火をともし、鳶の足にくくりつけて放す。光るものが空を飛ぶのを見て、分限者は本当の天狗のお告げと思い、娘を寝太郎に与える(広島県比婆郡。*寝太郎が飛ばす鳥は、鳩や雉のばあいもある)。
『沙石集』巻5末−7 和泉国の「薬師」という名前の下女が、心太(ところてん)のようなものを産んだ。これを鉢に入れて榎(えのき)の股に置いたところ、鉢の中から大佛頂陀羅尼の声がして、数日後に美しい童子が出て来た。この童子が、後の行基菩薩である。
『神道集』巻6−33「三島大明神の事」 伊予の国の長者・橘朝臣清政夫妻が、長谷寺の観音に祈って若君玉王を授かる。しかし夫妻の喜びもつかのま、幼い玉王は鷲にさらわれてしまう。鷲は阿波の国へ飛び、頼藤右衛門尉家の庭の枇杷の木の三つ股に幼児をはさんで、去る〔*『みしま』(御伽草子)も同話〕。
『日本書紀』巻21崇峻天皇即位前紀 蘇我馬子が物部守屋を討つべく軍勢を送る。守屋は、衣摺の朴(榎)の木の股に登って、上から雨のごとく矢を射かけた。しかし、迹見首赤檮が守屋を木の股から射落とした。
『常陸国風土記』久慈の郡賀毘礼の高峰 立速日男命が天から降り、松の樹の枝が多く分かれた股の上にいた。人が松に大小便をすると、災いを下し病気にならせた。
*女が、自分の産んだ赤ん坊を木の股に置く→〔妬婦〕2の『古事記』上巻。
*僧が、木の股で往生する→〔発心〕3の『今昔物語集』巻19−14。
*鷲などの鳥が、さらった子供を木の上に置く→〔兄妹〕3の『みつけ鳥』(グリム)KHM51。
『古事記』上巻 八十神たちがヤガミヒメに求婚するが、ヤガミヒメは「私はオホナムヂ(=大国主命)に嫁ぐ」と言う。怒った八十神たちは、大樹を切り倒してくさびを打ちこみ、その中にオホナムヂを入らせる。くさびを引き抜くと、オホナムヂは木にはさまれて死ぬ〔*そこへ母神が来てオホナムヂを蘇生させる〕。
『日本霊異記』上−1 雄略天皇の命令で雷を捕えた少子部の栖軽がやがて死に、墓に「雷をとりし栖軽」との碑文の柱が立てられる。雷がこれを見て怒り、碑文に落ちかかる。ところが雷は柱の裂け目にはさまれてしまい、再び捕らえられる。
『今昔物語集』巻26−11 白犬が一匹の蚕を食べ、鼻の穴から多量の糸を出した後に倒れて死ぬ。犬の死体を桑の木の下に埋めると、その木に蚕が隙間もないほど繭を作り、良質の糸が取れた。糸は朝廷に献上され、代々の帝の衣服に用いられた。
『南総里見八犬伝』第3輯巻之1第21回 犬塚信乃が、愛犬与四郎の死骸を梅の樹のほとりに埋めてから一年後の春三月、信乃と額蔵(犬川荘助)は、青梅が多くなっているのを見て「犬が肥やしになったのか」と話し合う。梅は各枝に八つずつなり、実ごとに仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字が現れていた。
*桜の樹の下には屍体がある、との空想→〔桜〕4の『桜の樹の下には』(梶井基次郎)。
『ギュルヴィたぶらかし(ギュルヴィの惑わし)』(スノリ)第15章 トネリコの大樹ユグドラシルの枝は全世界の上に広がり、天上に突き出てそびえている。三つの根が樹を支えて遠くへのび、一つはアース神たちのところ、一つは霜の巨人のところ、一つはニヴルヘイムの上にある。
『ギュルヴィたぶらかし(ギュルヴィの惑わし)』(スノリ)第49章 世界中のあらゆるものが、「オーディンの息子バルドルには危害をくわえない」と誓う。そのため、射られたり、斬られたり、石を投げられたりしても、バルドルは傷つかない。ところが宿り木だけが、「若すぎる」との理由で誓いをしていなかった。一人の女(ロキの変装)にそそのかされたヘズ(ホズ)が、たわむれに宿り木をとってバルドルを射る。バルドルは死ぬ。
*→〔生き肝〕2aの『今昔物語集』巻5−25・〔魂〕1a・1b・1cに記事。
『源氏物語』「帚木」 光源氏は空蝉に逢おうと、紀伊の守邸を訪れるが、彼女は姿を隠してしまい、捜し出すことができなかった。光源氏は、「帚木(ははきぎ)の心を知らでそのはらの道にあやなくまどひぬるかな」の歌を、空蝉に贈った。「帚木」は、信濃国の園原にある、帚(ほうき)を逆さに立てたような形状の木で、遠くからのみ見え、近づくと見えなくなるという。
箒木(高木敏雄『日本伝説集』第4) 丹後国何鹿郡の御千嶽の頂上に、「スーヲ木」という一本の大木がある。この木の影が海に映って漁の邪魔になるので、漁師たちが木を伐りに山へ登ると、木が見えない。不思議に思って海へ帰ると、いつものように木の影が映っている。御千嶽は低い山だが、頂上に「スーヲ木」が立っているおかげで、向こうの松尾山とあまり違わぬ高さに見える。だから御千嶽の神様がこの木を惜しんで、伐られないように隠すのだ。
『愛染かつら』(野村浩将) 愛染明王を本尊とするお堂の傍に、かつらの木がある。恋人どうしがこの木につかまって誓いを立てると、たとえ一時は思いどおりにならなくても、いつか必ず結ばれる、という言い伝えがある。医師津村浩三は、看護婦高石かつ枝を連れて木のそばに行き、「高石さん、嘘だと思ってこの木にさわってくれませんか」と言い、自分の思いを訴える。
*→〔木〕6の『サザエさん』で、サザエとマスオが名前を刻んだ木も、縁結びの木といってよいのではなかろうか。
『明(みん)史』巻322「外国」3「日本」 日本には昔から王がおり、その下に「関白」と称する者がいた。山城州の頭(かしら)である関白信長が狩りに出た時、樹の下に寝そべっている男と出会った。男は飛び起きて信長にぶつかり、「自分は平秀吉、薩摩州の人の奴隷だ」と言った。秀吉は身体が強く、すばしこく、弁が立ったので、信長はすっかり気に入った。樹の下で出会ったことから、「木下人」と名づけて召し使った。
*これは、日吉丸と蜂須賀小六が橋の上で出会った物語の変形であろう→〔橋〕3bの『絵本太閤記』。
『しまつの極意』(落語) ケチで有名な男に、ある人が倹約の極意伝授を請う。ケチな男はその人を庭の松の木に登らせ、まず「左手を離せ」と命ずる。ついで、右手の小指、薬指、中指を順々に離させる。懸命にぶらさがる人がたまりかねて、「これ以上は離せない」と言うと、ケチな男は親指と人差し指で丸を作り、「離すなよ。これを離さぬのが、しまつの極意だ」と教える。
『無門関』5「香厳上樹」 人が木に登り、口で枝をくわえ両手両脚を離す。その時木の下に人が来て「祖師西来意(禅の根本義)」を問う。答えねば禅者として失格であるし、答えれば木から落ちて死んでしまう。
*木からの誕生→〔誕生〕1のハイヌウェレの神話・『変身物語』(オヴィディウス)巻10・『呂氏春秋』巻14「孝行覧・本味」。
*関連項目→〔忘却〕
『失われた時をもとめて』(プルースト)第1篇「スワン家のほうへ」 寒い冬の日。帰宅した「私」に、母が、紅茶を飲んで暖まるよう勧める。「私」は、マドレーヌ菓子を溶かした紅茶を口に含むが、その瞬間、すばらしい幸福感がわきあがる。それは、幼年時に叔母の部屋で食べた菓子の味を思い出したからであり、味覚をきっかけに、叔母とともに幼年時を過ごした田舎町コンブレーでの記憶が、いきいきとよみがえった〔*小説の最終篇である第7篇「見出された時」でも、「私」はもう一度同様の経験をする。多年を経て初老に達した「私」は、ゲルマント大公夫人邸のパーティーに招かれ、中庭の敷石につまづく。「私」は、かつて母とヴェニスを旅行して寺院の敷石につまづいたことを想起し、記憶が時間を超越する実在であることを知って歓喜する〕。
『ドグラ・マグラ』(夢野久作) 玄宗皇帝に仕える絵師呉青秀が、妻を絞殺して死体の変相図を絵巻物に描いた。それから一千年以上を経て、呉青秀の遠い子孫である大学生呉一郎がその絵巻物を見ると、たちまち心理遺伝によって、呉青秀としての記憶がよみがえる。呉一郎は正気を失って婚約者モヨ子を絞殺し、その死体を絵に描こうとする〔*呉一郎は大学病院の精神科に収容される。モヨ子は死なず蘇生して、呉一郎の病室の隣りに収容される〕。
『ドラえもん』(藤子・F・不二雄)「わすれとんかち」 記憶喪失の男が町に来たので、ドラえもんが、記憶をたたき出すとんかちで男の頭をたたく。すると、東京タワーから落ちる・自動車にひかれる・城に住む・大金を数えるなど、男の波乱万丈の人生を示す記憶が次々に出てくる。警官隊と銃撃戦をする記憶まであらわれ、男は「自分はギャングだったような覚えもある」と言う。男は、映画の悪役スターなのだった。
『ABC殺人事件』(クリスティ) 行商人カストは戦争で頭を負傷し、時々記憶喪失を起こすようになる。彼は殺人犯にあやつられ、血のついたナイフをポケットに入れられて、自分は知らぬまに連続殺人を犯したのではないかと思い、自首する。
『かくも長き不在』(コルピ) テレーズの夫は第二次大戦中ナチに連行され、戦後十数年を経ても消息不明である。ある日、夫そっくりの浮浪者が通りかかるが、彼は記憶を失っており、テレーズが食事やダンスに誘っても、何も思い出せない。夜、去って行く浮浪者に、テレーズは夫の名で呼びかける。その時、戦争中の恐怖の記憶が蘇り、彼は夢中で走り出す。前方からトラックが来る。
『心の旅路』(ルロイ) 第一次大戦に従軍したチャールズは、戦場で一切の記憶を喪失し、病院に収容される。ある日、彼は病院を抜け出て街をさまよい、踊子ポーラと出会い結婚して、ゼロからの新生活を始める。ところが三年後、チャールズは交通事故で頭を打ち、自分が富豪の跡継ぎだったことを思い出すが、過去の記憶回復と引き換えに、今度はポーラとの三年間の記憶を喪失してしまう→〔同一人物〕3。
『銀座の恋の物語』(蔵原惟繕) 画家・次郎の恋人・久子が、交通事故の衝撃で記憶をすべて失う。次郎が描いた久子の肖像画を見て、彼女は激しく心を動かされるが、記憶を取り戻すにはいたらない。ある夜、久子は次郎の留守に、卓上ピアノを何気なく叩く。すると指が自然に動き出し、あるメロディーを弾き始める。それは、かつて次郎と久子が愛唱していた『銀座の恋の物語』のメロディーだった。そこへ次郎が帰って来て、久子は記憶を回復する。
『今昔物語集』巻7−4 震旦の僧は、『大般若経』六百巻のうち二百巻は記憶できたが、四百巻は覚えられなかった。前世で牛だった時、二百巻を背負ったが残りの巻々には縁がなかったのだった。
『今昔物語集』巻7−20 震旦の僧は、『法華経』「薬草喩品」の「靉靆」の二字が記憶できなかった。彼が前世で女だった時に読誦した『法華経』中の「靉靆」の二字が紙魚に食われており、読めなかったからであった。
『夢十夜』(夏目漱石)第3夜 男が、今から百年前すなわち前世に一人の盲人を殺したことを、その盲人の生まれ変わりである盲目の息子から教えられ、前世の記憶がよみがえる→〔背中〕1a。
*→〔前世〕に関連記事。
『黄金伝説』50「主のお告げ」 ある騎士が修道士になるべく勉強するが、「アヴェ・マリア」の二語しか覚えられず、彼はいつもその二語をつぶやいていた→〔口〕5b。
『沙石集』巻2−1 仏の御弟子須利盤特(しゅりはんどく)は記憶力が弱く、自分の名前すら忘れるほどだった。仏は彼を哀れみ、「守口摂意身莫犯、如是行者得度世」の偈(げ)を与える。須利盤特はこれを信じ修行して、「羅漢果」という悟りの境地を得た。
『鋸山奇談』(ポオ) 一八二七年、ベドロウ(Bedloe)はヴァージニア州の鋸山を散策中、「戦闘に巻きこまれ、毒矢が右こめかみに刺さって死ぬ」との白日夢を見る。医師テムプルトンは、「それは一七八〇年にインドで死んだ自分の親友オルデブ(Oldeb)の記憶だ」と説き、「ベドロウとオルデブの容貌はそっくりだ」と言う。一週間後、ベドロウは右こめかみへの瀉血治療の手違いで死ぬ。新聞の死亡記事は誤植でBedloとなり、それはOldebの綴りのちょうど逆だった。
『鏡の国のアリス』(キャロル) 鏡の国を訪れたアリスに、白の女王が「あともどりしながら生きているので、記憶力が前と後ろの二方向に働いて便利じゃ。よく思い出すのは再来週起こったことじゃ」などと教える。そのうちに女王は、「指から血が出た。今度ショールを留める時じゃ。ブローチが今すぐはずれる」と騒ぎ出す。まもなくブローチがはずれ、留め針が女王の指を刺す。
『幼年期の終わり』(クラーク) 宇宙からの知性体が地球を訪れたのは、新人類誕生の時が来たからだったが、それは同時に、旧人類=ホモ・サピエンスの死滅をも意味するのであった。そのため人類は、知性体の姿を、死をもたらす恐ろしいものとして記憶した。この強烈な記憶は何千年もの時間を逆行し、太古以来の人類の心に悪魔のイメージとして刻印された→〔悪魔〕8。
『豊饒の海』(三島由紀夫)・第4巻『天人五衰』 綾倉伯爵家の長女聡子は、松枝侯爵家の嫡子清顕の子を宿すが堕胎し、月修寺に入って剃髪した。清顕は病死し、彼の親友本多繁邦は、清顕の生まれ変わりの人物を探し求めて、数十年が経過する(*→〔ほくろ〕1b)。八十一歳になった本多は月修寺を訪れ、聡子と六十年ぶりに対面する。聡子は、「松枝清顕という人は知らない。そんな人はもともと存在しなかったのではないか」と言う。本多は「記憶もなければ何もない所へ、自分は来てしまった」と思う(30)。
『弓浦市』(川端康成) 小説家香住庄助の家を見知らぬ女が訪れ、三十年前、香住が九州の弓浦市に旅した時、お目にかかった者だ、と名乗る。その折、香住は女の部屋まで行って求婚したが、女にはすでに婚約者がいたのだったと言う。しかし香住には記憶がない。女が帰った後、香住は九州地図を開いたが、弓浦市は実在しなかった。
『記憶の人、フネス』(ボルヘス) イレネオ・フネスは落馬事故のため十九歳で寝たきりになったが、意識を回復した時、生まれてから見たり聞いたり考えたりしたことの、すべての記憶がよみがえった。以後もフネスは、日々経験することがらを細部まで記憶し、忘れることができなかった。しかし、彼の思考能力は乏しかった。思考とは、相違を忘れ、一般化し、抽象化することだからである。フネスは二十一歳で死んだ。
『ギリシア哲学者列伝』(ラエルティオス)第8巻第1章「ピュタゴラス」 ヘルメスが息子アイタリデスに、「不死以外のことなら何でもかなえてやる」と言う。アイタリデスは「生きている間も死んでからも、自分の身に起こった出来事の記憶を保持できるようにしてほしい」と頼む。アイタリデスは転生してエウポルボス、ヘルモティモス、ピュロス、そしてピュタゴラスとなった(*→〔前世〕4aの『変身物語』(オヴィディウス)巻15)。ピュタゴラスは以前の転生のすべての記憶を持ち、さらに冥府で味わった苦難や、多くの動物・植物に生まれ変わったことをも覚えていた→〔冥界行〕7c。
『時をかける少女』(大林宣彦) 西暦二六六〇年の世界は、植物が絶滅した世界だった。その時代の少年薬学博士が、植物の成分を求めて二十世紀日本の或る町へやって来る。彼は高校生として生活し、クラスメイトの芳山和子をはじめとする周囲の人々には、彼がその町で生まれ育ったかのごとき擬似記憶を与えた。彼は植物成分の採集を終え、彼に関わった人々の記憶を消し、彼自身の記憶も消して、未来世界へ帰って行く〔*→〔忘却〕8の『竹取物語』では、かぐや姫は翁への哀れみの心をなくすだけで、翁たち地上の人々の記憶は消さずに、月世界へ帰る〕。
*→〔人造人間〕1の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(ディック)。
★1.死に瀕した人間の苦悶の声音を、鼾声や風音と聞き違える。
『心中』(森鴎外) 雪の夜、料理店の女中二人が廊下伝いに小用に行く。「ひゅうひゅう」という、戸の隙間から風が吹きこむような音がするので、音の出所を捜して四畳半を開けると、男女が心中している。女はまだ息があって、刃物で切られた気管の疵口から呼吸をする音が、「ひゅうひゅう」と聞こえたのだった。
『沈黙』(遠藤周作) ポルトガル司祭ロドリゴは、キリシタン禁制の日本に潜入して牢に捕らわれる。夜、酔った牢番の鼾(いびき)らしい音が聞こえるのでロドリゴは嗤(わら)うが、実はそれは、穴の中に逆さ吊りされた日本人信徒たちの呻き声だった。ロドリゴが棄教すれば、信徒たちは拷問から解放されると聞いて、彼は踏絵の前に立った→〔禁制〕7。
『あばばばば』(芥川龍之介) 保吉は、行きつけの雑貨屋で燻製の鯡(にしん)を買った。店番の若妻に「鯡をくれ給え」と言うと、若妻は羞かしそうに顔を赤く染めた。それから数ヵ月後、保吉は若妻が赤ん坊を「あばばばば」と、あやす姿を見た。あの時若妻は、「鯡」を「妊娠」と聞き違えたらしかった。
『鐘の音』(狂言) 主が、息子に金の熨斗付けの刀を与えようと考え、太郎冠者に「付け金の値を鎌倉へ行って聞いて来い」と命ずる。太郎冠者は「撞き鐘の音」と聞き違え、寺々の鐘を撞いて廻る。
『北野天神縁起』 右大将保忠が病気になった。平癒を祈って祈祷僧が『薬師経』を読誦し、「所謂宮毘羅大将(いはゆるくびらだいしゃう)」と声をはりあげる。それを聞いた保忠は、「『我くびらん(=大将である私をくびり殺す)』と読んでいるのだ」と思い、恐怖心から、そのまま意識を失ってしまった〔*『大鏡』「時平伝」に類話〕。
『古今著聞集』巻16「興言利口」第25・通巻528話 兵庫助則定は、六十歳ほどの老女小松を寵愛したため、皆から「小松まぎ」と呼ばれていた。ある日、台盤所の女房が「こまつなぎ」(馬棘あるいは大根草)を求めた時、侍が間違えて「小松まぎ」則定を連れて来た。
『日本書紀』巻13允恭天皇42年11月 新羅の人が、耳成(みみなし)山・畝傍(うねび)山を愛でて、「うねめはや、みみはや」と言った。日本語に習熟していなかったので発音が訛ったのだった。ところがこれを聞いた人が、「新羅人が采女(うねめ)と密通したのだ」と誤解し、新羅人は捕えられた。
*「寒いから懐炉」を「寒いから帰ろう」→〔映画〕12の『朝の試写会』(志賀直哉)。
*「亀嵩(かめだけ)」を「カメダ」→〔最期の言葉〕2の『砂の器』(松本清張)。
*「たのきゅう」を「狸」→〔弱点〕1の『たのきゅう』(昔話)。
*「茶を飲む」を「蛇(じゃ)を呑む」→〔逃走〕3aの朝茶の由来の伝説。
*「月に一度」を「年に一度」→〔川〕4の『天稚彦草子』(御伽草子)。
*同音異義語の勘違い→〔誤解〕1a。
『むく鳥のゆめ』(浜田広介) 冬の夜、「かさこそかさこそ」と羽のすれあう音がするので、むく鳥の子は「遠いところへ行ってしまったかあさん鳥が帰って来たのだ」と思う。とうさん鳥に「風の音だよ」と言われて、むく鳥の子が見に行くと、冷たい風が黄色い枯れ葉に吹きつけていた→〔葉〕2。
*羽ばたきの音を敵襲と聞き違える→〔逃走〕3aの『平家物語』巻5「富士川」。
『藤野君のこと』(安部公房) 北海道を旅行した「ぼく(安部公房)」は、老人から、人間そっくりの動物アムダのことを聞く。多くのアムダが食糧用に飼育されたが、逃げて野生化したので、今アムダ狩りが行なわれているという。「ぼく」は驚くが、アムダはハムスターの聞き違いで、「人間そっくり」でなく「鼠そっくり」なのだった。しかしこの聞き違いから、戯曲『どれい狩り』(外見は人間で中身は異なる動物ウエーが登場する)の構想が生まれた。
*読経の声を泣き声と聞き違える→〔夜泣き〕1の『かるかや』(説経)「高野の巻」。
★1.身を守るため・極秘の活動をするために、死んだと見せかけて姿を隠す。
『球形の荒野』(松本清張) 太平洋戦争末期、ヨーロッパの中立国に駐在する外交官・野上顕一郎は連合国側と接触し、戦争を終結させるべく工作をする。そのために、彼は自らの死を偽装して活動する必要があった。日本にいる妻と幼い娘は、彼がスイスの病院で死んだと聞かされる。戦後十六年がたった時、野上顕一郎は変名で日本を訪れ、自らの素性を隠したまま、美しく成長した娘久美子と短い対面をする。
『第三の男』(グリーン) 小説家マーティンズはウィーンへ旧友ハリー・ライムに会いに来て、彼が自動車事故で死亡し今日埋葬された、と聞かされる。しかし埋葬されたのは別人だった。ハリー・ライムは粗悪なペニシリンを密売して多くの犠牲者を出し、警察に追われていたので、死をよそおって潜伏したのだった。マーティンズは警察に協力し、地下の大下水路にハリー・ライムを追い詰めて、射殺した。
『長いお別れ』(チャンドラー) レノックスは、前妻アイリーンの犯した殺人の罪を身に引き受け、カリフォルニアからメキシコへ逃げて、自殺したように見せかける。彼は整形手術で顔を変え、別人となってメキシコで暮らす。
『ハックルベリー・フィンの冒険』(トウェイン)1〜7 「僕(ハックルベリー・フィン)」は盗賊の隠した金を発見して大金持ちになり、ダグラス未亡人の養子にされる。自然児の「僕」にとって、それは窮屈な生活だった。そこへ金目当ての親父が現れ、「僕」を未亡人から引き離し、森の小屋に軟禁する。「僕」は親父の留守に、野豚の血を斧に塗り、そこに髪の毛を少しつけて逃げる。町の人たちは、泥棒が「僕」を殺して近くの川に死体を棄てたのだ、と思う→〔川〕5a。
*男装の女が「病死した」といつわり、以後は本来の女姿になる→〔一人二役〕1bの『有明けの別れ』。
『今昔物語集』巻29−19 盗賊袴垂が、死体のふりをして裸で路傍に臥す。通りかかりの武者が馬上から弓の先で袴垂の身体をつつくと、袴垂はとび起き、武者を殺して彼の衣服・武具・馬を奪う。
『ヘンリー四世』(シェイクスピア)第1部・第5幕第4場 フォルスタッフは戦闘中に死んだふりをして横たわり、敵が去ってから起き上がる。皇太子ヘンリーに倒された敵将ホッパーを見て、フォルスタッフはその死体に一太刀浴びせ、「自分が討ち取った」と言って、手柄を横取りしようとする。
『千一夜物語』「眼を覚ました永眠の男の物語」マルドリュス版第647〜653夜 一文なしになったアブール・ハサンが死んだふりをし、彼の妻は、教王ハルン・アル・ラシードの妃から葬儀費用一万ディナールを与えられる。続いて妻が死んだふりをして、アブール・ハサンも教王ハルン・アル・ラシードから一万ディナールを得る→〔返答〕3c。
『病は気から』(モリエール) アルガンは急死したふりをして、後妻ベリーヌと娘アンジェリックの反応を見る。心優しい妻だったはずのベリーヌは、横たわるアルガンを見て「これでほっとした」と言い、アルガンの財産を自分のものにすべく、手配を始める。アルガンが起き上がると、ベリーヌは驚いて逃げ去る。娘アンジェリックは、結婚問題で父に反抗したことを悔い、償いのために恋人クレアントと別れようと決意する。アルガンは、アンジェリックとクレアントの結婚を許す。
*夫が死んだふりをして、妻の心を試す→〔妻〕6cの『今古奇観』第20話「荘子休鼓盆成大道」・『英草紙』第4篇「黒川源太主山に入ツて道を得たる話」。
『そして誰もいなくなった』(クリスティ) 十人の男女が島に招かれ、『テン・リトル・インディアンズ』の歌詞に従って一人ずつ殺されていく。犯人は六人目の犠牲者をよそおい、銃で額を撃たれた死体のふりをして残りの四人を欺き、その後彼らを始末する〔*九人全員が死んだ後、犯人は今度は本当に自分の額を撃ち抜いて自殺する〕。
*死体のふりをして、人がそばに寄らないようにする→〔けがれ〕2の『今昔物語集』巻29−17。
*死体のふりをしても、無法者はかまわず寄って来る→〔葬儀〕4の『通夜』(つげ義春)。
*入水自殺したように見せかける→〔入水〕6。
*関連項目→〔さすらい〕
★1.高貴な生まれの人が、青年期に達してから肉親と別れ辺境をさすらう。
『伊勢物語』第9〜15段 昔ある男が、京を住み憂く思い、友人一〜二人とともに東国へ旅に出た。男は三河の八橋で咲き誇る杜若を見、駿河の宇津の山で旧知の修行者に出会い、真夏に雪をいただく富士山に驚き、とうとう武蔵・下総の境の隅田川に到った。その後、男はさらに陸奥にまで脚を伸ばした。
『義経記』 源義経は、平家追討後、兄頼朝と不和になり、都を出て西国落ちに失敗、吉野に身を隠した後、北国路をとって奥州平泉まで苦難の逃避行を続ける。
『源氏物語』「須磨」「明石」 光源氏は、朧月夜の尚侍との密会現場を、その父右大臣に見られたため、官位を剥奪され、さらに流罪の処分を受けそうになる。それを避けるため、彼は二十六歳の春三月から二十八歳の秋七月まで、自ら京を退去し、須磨・明石に身をひそめる。
『古事記』中巻 ヤマトタケルは西国のクマソを討伐した後、さらに父景行帝から東征を命ぜられる。東国へ向かったヤマトタケルは、相武(=相模)で火攻めに遭い、走水の海では后を失う。ようやく東征を終えての帰途、伊吹山で氷雨に打たれ、三重の能煩野まで来て、ついに倒れる〔*『日本書紀』巻7では、十六歳で西国へ行き、二十九歳の時東征の旅に出、三十歳で死去する〕。
『日光山縁起』 都の殿上人・有宇中将は、鷹狩に熱中して職務を怠り、勅勘をこうむる。中将は都を棄て、馬にまかせて下野国まで行く。その国の長者の娘・朝日の君と結婚するが、六年を経て、都の母のことが気がかりで、中将は単身都へ帰ろうとして、途中で病死する。朝日の君も中将の後を追って旅に出、死ぬ。しかし炎魔王が二人を蘇生させ、二人の間には男児・馬頭御前が生まれる。後に有宇中将は日光の男体権現、朝日の君は女体権現となった。
『マハーバーラタ』 パーンドゥ家の王子ユディシュティラは、クル家の王子ドゥルヨーダナとの賭博勝負に負ける。その結果、ユディシュティラは四人の弟(ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァ)及び彼ら五人の共通の妻ドラウパディーとともに、十二年間、森で放浪生活を送ることになる。十三年目には、誰にも気づかれぬよう正体を隠してどこかに身を潜め、もし気づかれたら、さらに十二年間森で過ごす、との取り決めであった。
『ラーマーヤナ』 王子ラーマは、継母カイケーイー妃の奸計によって、十四年間、森に追放される。彼は、妻シータ・弟ラクシュマナとともにさすらい、その間にシータをさらわれ、彼女を取り戻すべく魔王ラーヴァナの軍と戦う。
*古代中国の貴種流離譚→〔土地〕2aの『史記』「晋世家」第9。
『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』(山東京伝) 仇気屋の一人息子・艶二郎は、「色男だ」との評判を立てられたいと願い、まず愛人の名前の彫り物をする。両腕、指の股まで、二〜三十ほど架空の愛人の名前を彫り、艶二郎は痛さをこらえて、「ここが我慢のしどころだ」と喜ぶ。
『頭文字』(三島由紀夫) 宮家との縁組が決まった公爵令嬢渥子は、ある夜、恋人朝倉季信中尉と契りを結び、愛の記念として、乳房に二人の頭文字「SA」をナイフで刻む。渥子は宮家に嫁ぎ、宮の子を産むが、その直後、風呂上がりの彼女の乳房に、消えていた「SA」の傷あとが現れる。同時刻に、朝倉中尉は中国戦線で戦死していた。
『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』 芸者小万は、客である源五兵衛への実意の証として、腕に「五大力」の彫り物をする。しかし小万の愛人三五郎が、針を加えて「三五大切」と直してしまう。後に源五兵衛はこれを見て怒り、小万をなぶり殺しにする。
『戦争と平和』(トルストイ)第2部第1篇 ロストフ家の少女ナターシャは、従姉ソーニャへの愛を証明するために、定規を火で焼いて肩の下に押しつけ、赤い傷あとを作った。
『黄金伝説』143「聖フランキスクス(フランチェスコ)」 聖フランキスクスは、ある時、夢の中で、十字架にかけられた一人の熾天使(セラピム)を頭上に見た。熾天使は磔刑の傷あとを、フランキスクスの身体に押しつける。目覚めると、彼の手と足と脇腹に十字のしるしが現れていた。フランキスクス自身が十字架にかけられたような傷あとだった。聖痕は、生涯消えなかった。
『わがままな大男』(ワイルド) わがままな大男の庭を、ある日小さな男児が訪れる。以来、大男は優しい心になり、庭を開放して近所の子供たちを遊ばせる。歳月を経て、再び男児が訪れた時、その両掌と両足に釘あとがあるので大男は驚く。男児は「これは愛の傷」と教え、大男を天国の庭へ導く。その日遊びに来た子供たちは、大男が死んでいるのを見る。
『赤穂浪士』(大佛次郎) 吉良上野介は、松の廊下で浅野内匠頭に切りつけられ、額に軽い傷、背に長さ五寸ほどのやや重い傷を負った。一年半余の後、赤穂浪士らが吉良邸に討ち入って、上野介を捕らえる。夜明け前で、額の傷跡はよく見えず、背中の長い刀痕によって、上野介であることが確認できる。
『オデュッセイア』第19巻 オデュッセウスが老乞食に変身して、二十年ぶりに故郷の館に帰る。老乳母エウリュクレイアは彼の脚を洗おうとして、かつてオデュッセウスが野猪の牙で抉られた傷痕をそこに見いだし、目前の老乞食がオデュッセウスであると知る。
『今昔物語集』巻31−3 女に触れることなく修行を積んでいた湛慶阿闍梨は、ある時一人の女を見て愛欲の心を起こし、思いがけず関係を持ってしまう。彼女の頸には、大きな傷あとがあった。かつて湛慶は十歳ほどの女児を殺そうとして頸に切りつけたことがあったが(*→〔運命〕1b)、その女児が成長して、今、湛慶の妻となったのだった〔*類話である『続玄怪録』では、女児は眉間に受けた傷の上に造花を貼りつけて隠す〕。
『フィガロの結婚』(ボーマルシェ)第3幕 アルマヴィヴァ伯爵の下僕フィガロは、伯爵家の調度係の老女マルスリーヌから借金をし、返さなかったために結婚を迫られる。しかしフィガロの右腕には、メスでつけられた綾文字の傷あとがあり、それによって、彼が昔さらわれたマルスリーヌの息子だったことが、明らかになる。マルスリーヌは、知らずに自分の息子と結婚しようとしていたのだった。
*→〔影武者〕1の『影武者』(黒澤明)。
『古本説話集』下−53 丹後国の山寺に冬ごもりする僧が、飢えて観音に助けを求める。鹿が現れたので、僧は鹿の両腿の肉を切り、鍋で煮て食う。春になって村人たちが寺を訪れると、鍋に木切れがあり、観音像の両腿がえぐられていた。僧は「観音が鹿に化身されたのならば、もとどおりになり給え」と祈り、観音像の傷口は見る間にふさがる。以来、この寺を成合(なりあい)寺という〔*『今昔物語集』巻16−4の類話では、観音は猪に化して僧に食われる〕。
『今昔物語集』巻16−3 周防の判官代が敵の待ち伏せに会い、身体中を斬られるが、少しも傷を負わない。彼は三井寺の観音が身代わりになった由の夢を見、急ぎ参詣すると、観音像が満身傷だらけになっていた。
『三国伝記』巻9−11 観音を信仰していた孫敬徳が無実の罪で処刑されようとした時、刀が三段に折れる。人を替え刀を替えても刀が折れること三度に及んだため、彼は赦免される。僧坊に戻り観音像を見ると、頸に三つの傷があった。
『サテュリコン』(ペトロニウス)「トルマルキオンの饗宴」 奴隷ニケロスは、主人の家に同宿する兵士が狼に変身するのを見る。ニケロスは愛人宅で「狼が家畜を襲ったが、投げ槍を狼の首に突き刺した」と聞き、帰宅して、兵士が寝床に臥し彼の首を医者が手当てするのを見る。兵士が狼憑きだと知ったニケロスは、以後、兵士とともにパンを食べることもできなくなる。
『八つ墓村』(横溝正史)第7〜8章 田治見辰弥は生まれ故郷の八つ墓村に帰り、連続殺人事件にまきこまれる。辰弥の姉春代は鍾乳洞内で襲われ殺されるが、その時犯人の左小指を噛んで深い傷を負わせる。犯人は傷を秘密に治療しようとし、そのため傷口から黴菌が入り、全身紫色にはれ上がって死ぬ。
『大鏡』「道長伝」 五月下旬の雨の夜、清涼殿に伺候する道隆・道兼・道長が、肝試しに出かける。道隆・道兼は途中で逃げ帰るが、道長は大極殿まで行き、証拠に高御座南面の柱のもとを、刀で削り取って来る。柱の削りあとは今でも残っている。
『仮名手本忠臣蔵』6段目「与市兵衛内」 街道で殺されていた与市兵衛の死体を、猟師たちが運び込む。早野勘平は「自分が昨夜、猪と間違えて舅の与市兵衛を鉄砲で撃ち殺したのだ」と思い、面目なさに切腹する。ところが、千崎弥五郎らが死体の傷口を調べると、鉄砲傷ではなく刀傷だった。与市兵衛を殺したのは勘平ではなかった→〔仇討ち〕8。
『南総里見八犬伝』第7輯巻之4第69回〜巻之5第71回 甲斐国の山林管領職泡雪奈四郎が、村長四六城木工作(よろぎむくさく)を鉄砲で撃ち殺す。木工作の妻夏引(なびき)は奈四郎と不義の関係にあり、木工作殺しの罪を犬塚信乃に着せようと、信乃の短刀に鶏の血を塗りつけて訴え出る。しかし犬山道節が眼代(=代官)甘利尭元に扮して現れ、「死体の傷口は刀傷ではなく鉄砲傷である」と言って、信乃を救う。
『カター・サリット・サーガラ』「マダナ・マンチュカー姫の物語」2・挿話8 婆羅門が薪を切る時に傷を負い、悪鬼ピシャーチャに治してもらう。ところがピシャーチャは、「俺がもう一度治すことができるように、第二の傷を与えよ。さもないとお前を滅ぼす」と要求する。婆羅門の娘が性器を見せて「この傷を治せ」と言うので、ピシャーチャは膏薬を塗るが治せず、さらに娘の肛門を見て「また新たな傷が生じた」と思い、恐れて逃げる。
『パンタグリュエル物語』第四之書(ラブレー)第47章 農夫が悪魔から爪による引っ掻き合戦を挑まれ、負ければ畑の作物を取られてしまうので困惑する。農夫の老女房が悪魔をだまそうと、「夫が爪を試すために小指で私の股をちょっと引っ掻いて、傷をつけた」と言って性器を見せる。悪魔は大きな傷口に驚き、とてもかなわないと思って退散する。
『嫁の鉈傷』(昔話) 嫁と婿が川を歩いて渡る時、婿は嫁の股を見て「鉈傷がある」と驚く。婿は姑に追い出される。
★8a.殺された人のそばに、その殺害者が近寄ると、死体の傷口から血が流れ出る。
『ドイツ伝説集』(グリム)354「ユダヤ人に殺された少女」 七歳の少女を、ユダヤ人たちが殺し河に捨てる。血管を切り開かれ布でくるまれた彼女の死体が、漁師に発見される。殺人の疑いで呼び出されたユダヤ人たちが死体に近づくと、傷口からどっと血が流れ出る。
『トム・ソーヤの冒険』(トウェイン)11 夜の墓場でインディアン・ジョーがロビンソン医師を刺し殺し、その罪を仲間のポッターに着せる。翌日発見されたロビンソン医師の死体が荷車で搬送されるのを、インディアン・ジョーも手伝い、その時死体から血が流れる。しかしポッターが近くにいたため、ポッターゆえに流れた血だと見なされてしまう。
『ニーベルンゲンの歌』第17歌章 ジークフリートの死を悼んで集まった人々に対し、妃クリエムヒルトが、「身におぼえのない者は遺骸の側へ寄ってそれを証明せよ」と要求する。殺害者ハゲネが側へ寄ると、遺骸の傷口から血が噴き出る。
『リチャード三世』(シェイクスピア)第1幕 ヘンリー六世の柩に、その殺害者グロスター公リチャードが近づくと、乾いていた傷口から再び血が流れ出す。
★8b.優れた騎士が触れると、それまで治らなかった傷口がふさがる。
『アーサーの死』(マロリー)第19巻第10〜12章 アリー卿が決闘で某騎士を殺すが、アリー卿自身も十ヵ所以上の傷を負う。殺された騎士の母親が魔法を使い、「最も優れた騎士に診てもらうまでは、アリー卿の傷がいつまでも治らず、膿み、出血するように」と呪う。七年がたち、アーサー王をはじめ百人以上の騎士が診るが、アリー卿の傷は治らない。騎士ラーンスロットがアリー卿に触れて、ようやく傷口はふさがる。
『沙石集』巻2−5 殺生を業とする男が、死んで地獄へ行く。一人の獄卒が、矢を男の背中から前へ射通す。もう一人の獄卒が、鉾(ほこ)で男を貫き、地面に突き通す。男は生前、地蔵を拝んでいたおかげで蘇生した。しかし胸に疵(きず)が残り、それが瘡(かさ)となった。男は長い間病み苦しんだ後に、出家した。
*眉間に残る三日月形の刀傷→〔額〕4aの『旗本退屈男』(佐々木味津三)。
*関連項目→〔人柱〕
『グスコーブドリの伝記』(宮沢賢治) 木こりの子グスコーブドリは成人後、イーハトーブ火山局で元気に働いた。彼が二十七歳の年、寒冷な気候がイーハトーブを襲った。カルボナード火山を爆発させて気温を上げれば、飢饉を回避できる。しかしその作業をする最後の一人は、火山島から逃げられない。グスコーブドリが自ら犠牲となろうと志願し、イーハトーブの人々は無事に冬を過ごすことができた。
『ゴジラ』(香山滋) 暴れるゴジラから日本国民を救うため、化学者芹沢は自ら開発した酸素破壊剤オキシジェン・デストロイヤーを使用し、ゴジラを殺す(*→〔怪物退治〕3b)。しかし、この武器自体が人類にとって原水爆以上の脅威となるので、芹沢は、製造方法を知るただ一人の人間である自分自身を、ゴジラとともに抹殺する。
『今昔物語集』巻2−28 舎衛国の流離(るり)王が、迦毘羅衛国の釈種(=釈迦一族)に、戦争をしかける。釈種は殺生戒を守っているので、たちまち敗北する。釈種の長者釈摩男(しゃくまなん)が、「私は今から水底に沈む。私が沈んでいる間だけ、釈種の人々を逃がしてやってほしい」と流離王に請う。釈摩男は水中に入ると、頭髪を木の根に結びつけて死んだ〔*しかし釈種の人々は逃げ切れず、大勢が殺された〕。
『佐倉義民伝』 下総国佐倉藩の二百八十四ヵ村は、領主堀田上野介の悪政と重税に苦しむ。名主木内宗吾は一身を捨てて農民たちを救うべく、ひそかに江戸へ出て、東叡山寛永寺で将軍義政に直訴する。農民たちは救われるが、宗吾は捕らえられ処刑される〔*宗吾の妻子も刑死する〕。
『塩狩峠』(三浦綾子) 名寄から札幌へ向かう列車が塩狩峠を越える時、機関車の連結部がはずれて、客車だけが下り坂を走り始める。前方に急勾配のカーブがあり、脱線転覆は必至である。乗客の一人・敬虔な青年クリスチャン永野信夫は、線路上に飛び降り、自らの身体をもって車両を止め、他の乗客たちの命を救う。
*漂流するボートの中の男が、自分の肉を他の人に食べさせる→〔船〕7bの『自己犠牲』(安部公房)。
『失楽園』(ミルトン)第3巻 天上界の王座に坐す神が、アダムとイヴの犯すであろう罪を予見し、「その子孫である人間たちは堕落し、死なねばならぬ」と宣告する。神の右手に坐す御独子(おんひとりご)が、「私の命をもって、人間の死の罪を償いましょう」と、人間を救うために自ら犠牲になることを申し出る。神は喜び、御独子に「受肉し、処女の子として地上に誕生せよ」と命ずる〔*御独子はイエス・キリストとして生まれる〕。
『鉄腕アトム』(手塚治虫)テレビアニメ・第193話「地球最大の冒険」 太陽黒点に異常が起こり、地球の温度が急上昇する。アトムがロケットに乗り、太陽の活動を鎮静化させるためのカプセルを発射するが、隕石がカプセルに衝突し、軌道が狂ってしまう。アトムは自らカプセルにまたがり、進路を太陽に向け直して、カプセルもろとも太陽に突入する。
『ジャングル大帝』(手塚治虫) 不思議な力を持つ月光石を求めて、A・B両国の探検隊が海抜五五三〇メートルのムーン山に登攀し、白ライオンのレオが同行する。しかし激しい吹雪で隊員たちは次々に倒れ、ヒゲオヤジ以外は皆死ぬ。レオは「わしを殺して肉を食べ、毛皮を着て下山しなさい」と告げ、わざとヒゲオヤジのナイフに刺されて死ぬ〔*『ブッダ』の中に出てくる、兎が自分の肉を飢えた老人に食べさせる物語と類似の発想〕→〔兎〕2。
『三宝絵詞』上−11 国王の三人の王子たちが竹林に出かけ、七頭の子を産んで衰弱した一頭の虎を見た。長男の王子が「この虎は、食物を探すことができず、飢えて自分の子を喰うであろう」と言った。末子の薩タ王子が虎の命を救おうと考え、衣を脱いで竹にかけ、自分の身を虎に喰わせた。
『大智度論』巻26 仏は遠い過去において、大きな身体をした力のある鹿だった。ある時、野火が起こり、獣たちは逃げ場を失った。鹿は自分の大きな身体を橋とし、背中を獣たちに踏ませて、川の対岸へ避難させた。鹿の皮と肉はことごとく壊れたが、慈愍の力をもって耐え忍び、ついに死に至った。
『魔弾の射手』(ウェーバー) 狩人カスパールは自分の魂を悪魔ザミエルに渡す代わりに、「新たな犠牲をささげよう」と提案し、「明日、狩人仲間マックスの撃つ弾丸を、マックスの恋人アガーテに命中させよ」と請う。アガーテが死に、マックスも悲嘆して自殺すれば、二つの魂が悪魔の手に入るからである。しかしマックスの撃った弾丸はカスパールに当たり、マックスとアガーテはめでたく結婚する。
*嫁が自分の命を犠牲にして、家にまつわる呪いを消滅させる→〔呪い〕9の『経帷子の秘密』(岡本綺堂)。
*自分の命を犠牲にして、車にひかれそうな子供を助ける→〔面〕8の『タイガーマスク』(梶原一騎/辻なおき)。
『今昔物語集』巻27−29 源雅通中将の家に同じ姿形の乳母二人が現れ、中に幼児を置き、左右の手足を取って引き合う。一方は狐であろうと考えた中将が、刀をひらめかして走りかかると、一人の乳母はかき消すように失せた。
『遠野物語』(柳田国男)94 菊蔵という男が、姉の家で振る舞われた残りの餅を懐にして、帰る途中で友達の藤七に出会う。藤七が「相撲を取ろう」と誘い、二人はそこで相撲を取る。藤七はいつになく弱く、菊蔵は三度とも勝つが、気がつくと餅がなくなっている。狐が藤七に化けて餅を取ったのだった。
『義経千本桜』「道行初音旅」 源義経が、朝廷から下賜された重宝初音の鼓を静御前に預けて別れる。鼓の皮となった狐の子が、家臣佐藤忠信に化けて静御前につき従い、守護する。
*狐が妻に化ける→〔二人妻〕8aの『今昔物語集』巻27−39。
*狐が伯父に化ける→〔変身〕8bの『釣狐』(狂言)。
『玉水物語』(御伽草子) 雄狐が、高柳宰相の姫君を見そめて恋い焦がれる。しかし雄狐は、「狐の身で人間の姫君と交われば、姫君の御身は『いたづら』になる(姫君の命を奪うことになる、あるいは、姫君は人間世界から追放される)」と考え、結婚を断念する。雄狐は女に化けて姫君に仕え、「玉水の前」の名をたまわる。やがて姫君は、帝のもとへ入内する。雄狐は、自分の正体と姫君への思いを書き記して小箱に収め、姫君に渡して姿を消す。
『短夜』(内田百閨j 狐が泥を頭からかぶって女に変身し、葉を集め丸めて赤ん坊を作るのを、「私」は目撃する。狐が婆さんを騙そうとするので、「私」は、「それは狐だ。赤ん坊を青松葉で燻(くす)べれば、葉っぱになるはずだ」と教える。しかし燻べると赤ん坊は死んでしまい、「私」は途方に暮れる→〔坊主頭〕2。
*→〔穴〕7の『九郎蔵狐』(落語)・〔狐〕4の『王子の狐』(落語)。
『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)4編上「御油〜赤坂」 喜多八が良い宿を取るため先行し、弥次郎兵衛が御油から赤坂までの夜道を一人歩く。ところが喜多八も弥次郎兵衛も、それぞれ「松原に狐が出る」と聞かされる。喜多八は「やっぱり弥次さんと一緒に行こう」と、立ち止まって弥次郎兵衛を待つ。弥次郎兵衛は、松原に立つ喜多八を狐だと思い、縛って赤坂まで連れて行く。
『耳袋』巻之7「狐即坐に仇を報ずる事」 茶師孫兵衛が、寝ている狐を驚かしたことがあった。その後、狐が孫兵衛に化けて庭から表へ行くのを侍たちが見、玄関で待ち伏せると、そこへ本物の孫兵衛がやって来る。孫兵衛は狐と見なされ、棒や箒で打たれる。
*→〔眉毛・睫毛〕2の『狐塚』(狂言)。
『王子の狐』(落語) 狐が女に化けるところを見た男が、この狐を化かそうと考える。男は狐を料理屋に連れこんで飲み食いし、狐を酔わせて逃げる。狐は正体を現し、店の衆に追い出される。翌日、男はたたりを恐れ、牡丹餅を持って狐を見舞う。狐は牡丹餅を「馬糞ではないか」と疑う。
『閲微草堂筆記』「如是我聞」140「狐に化けた人」 男が或る家の美女を見そめ、三百金を出して妾にし、美女の家に住み込んで仲良く暮らす。まもなく科挙の試験があり、男が試験をすませて帰宅すると、家は荒れ、無人になっていた。或る人が「それは狐だ」と言った。別の人は「それは美女を餌にして男から金を盗み、狐のしわざに見せかけたのだ」と言った。
『本朝廿四孝』4段目「十種香」「奥庭」 武田勝頼が「花作り蓑吉」と称して、諏訪の長尾(上杉)家に潜入する。長尾謙信は蓑吉の正体を見抜き、塩尻へ使いにやって暗殺しようとする。勝頼の許婚八重垣姫が諏訪明神の法性の兜を手にすると、明神の使いである狐の霊力が乗り移り、姫は諏訪湖の氷上を駈けて勝頼に危急を知らせる。
*→〔昇天〕2の『南総里見八犬伝』第9輯巻之13之14第116〜117回。
尾曳稲荷の伝説 厩橋城築城を命ぜられた大工の棟梁が、利根川べりにたたずんで構想をねっていた。霧の中に狐があらわれ、長い尾を引いて、あちらに行き、こちらに行きして、姿を消した。尾のあとは赤い筋に変わり、厩橋城の図面となった。棟梁はその図面にしたがって立派な城を造り、殿様からほめられた。狐が姿を消したあたりが、今の尾曳稲荷である(群馬県前橋市西片貝町)。
『無門関』2「百丈野狐」 仏陀以前の昔、百丈山の修行者が、弟子から「大修行底の人も因果の法則から逃れられないのか」と問われて、「因果を超越することができる」と、誤った答えをした。以来五百生の間、その修行者は野狐の身を受けて、生まれ変わり死に変わりした。
*→〔転生〕8aの『日本霊異記』中−41。
『戦国策』第14「楚(1)」172 狐が「天帝は私を、すべての獣の長に任じた」と称し、「嘘だと思うなら私の後からついて来い」と虎に言う。虎が狐の後を歩いて行くと、獣たちはみな逃げ去る。獣たちは虎を見て逃げたのだったが、虎はそれに気づかず「なるほど、皆、狐を恐れている」と思った。
『懶惰の歌留多』(太宰治)「ぬ」 「私」が十八歳、高等学校一年生の夏のこと。邑はずれのお稲荷の沼に、毎夜、五つ六つ狐火が燃えるとの噂があり、「私」は自転車に提灯をつけて見に行く。狐火と見えたのは、沼の岸の柳にぶら下げた三個の燈籠で、五人の老爺が酒盛りをしていた。老爺たちも、「私」の自転車の提灯の火を見て、「狐火だと思った」と言って笑った。
*狐に化かされ、馬の尻をのぞく→〔穴〕7。
*狐に化かされ、道に迷う→〔迷路〕3の『仙境異聞』(平田篤胤)上−3・『猫町』(萩原朔太郎)。
*狐の尾に火をつける→〔尾〕3aの『イソップ寓話集』283「火を運ぶ狐」・〔尾〕3bの『士師記』第14〜15章。
*狐の鳴き声→〔動物音声〕4。
*狐の呼びかけ→〔呼びかけ〕1の狐の風(水木しげる『図説日本妖怪大鑑』)。
*狐つき→〔憑依〕7a・b・c・d。
*狐や狸が汽車に化ける→〔狸〕3cの偽汽車(松谷みよ子『現代民話考』)。
★1a.狐女房。『鶴女房』など一般の異類婚姻譚と異なり、夫の「のぞき見」による破局ではなく、犬のために女房が去ることが多い。
『芦屋道満大内鑑』2〜4段目 悪右衛門が部下を引き連れ、信太の森で狐狩りをし、追われた白狐が安倍保名に救いを求める。保名は白狐を祠に隠し、悪右衛門たちと闘って傷を負う。白狐は保名の恋人・葛の葉に身を変じて現れ、保名を介抱する。保名と葛の葉(=白狐)は夫婦となり、童子(後の晴明)をもうけ、六年間むつまじく暮らす→〔母さがし〕2。
『木幡狐』(御伽草子) 木幡の里に住む狐の姫君きしゆ御前は、十六歳の時、美貌の三位中将を見て恋い慕い、人間に化けて契りを結ぶ。しかし、二人の間に生まれた若君が三歳になった頃、屋敷に犬が献上される。きしゆ御前はこれをひどく恐れ、泣く泣く家を出る。そして嵯峨野に分け入り、出家して庵にこもった〔*動物が人間との結婚に破れ出家する、という点で、→〔鼠〕7の『鼠の草子』と同じ〕。
『今昔物語集』巻14−5 男が朱雀門で会った女と契る。女は「こうなった以上私は命を失うでしょう」と言い、男の扇を取って去る。翌日男は、狐が扇で顔をおおって死んでいるのを見出す〔*原拠は『大日本国法華験記』下−127。『古今著聞集』巻20「魚虫禽獣」第30・通巻681話に類話〕。
『任氏伝』(唐代伝奇) 鄭六は、絶世の美女任氏と親しくなる。任氏は狐であったが、鄭はそれを知っても心は変わらず、彼女を愛する。しかし、任氏は猟犬に追われ噛み殺される。
『捜神記』巻18−13(通巻425話) 孝という兵士が逃げて長い間姿を見せぬので、大勢で捜すと、郊外の墓穴の中にいた。狐が阿紫と名乗る美女に化けて孝を誘い、孝は彼女を妻として暮らしていたのだった。
『曽我物語』巻5「三原野の御狩の事」 在中将業平が、木幡山の辺で会った女を妻とするが、女はしばらくして姿を消す。業平は女を尋ねて木幡山の奥に到り、古塚に集まる多くの狐を見て、女が狐だったことを知る。
『日本霊異記』上−2 男が、広野で会った美女を妻とし、男児が生まれる。ある時、女は犬に追われて狐の正体をあらわすが、その後も、しばしば男のもとに来て共寝をした。それゆえ「来つ寝」という。
『洛陽伽藍記』巻4「洛陽大市北部」 孫巌は、めとって三年になる妻が異類だと知って離縁する。隣人に追いかけられた妻は、狐と化して逃げ去った。
『聊斎志異』巻2−48「嬰寧」 王子服は元宵節の日に美女を見そめて結婚するが、それは王の母方の秦伯父が狐妻との間にもうけた娘だった。彼女は何かというとよく笑い、翌年生まれた男児も、母親ゆずりで人見知りせずよく笑った。
『聊斎志異』巻4−153「辛十四娘」 馮の妻辛十四娘は狐だった。彼女は、無実の罪で処刑される馮を救い出した後、にわかに容色衰え、半年ほどで老婆のごとくなって死ぬ。後、馮の下男が遠方で辛十四娘に会うが、彼女は「今は仙人の籍に入っている」と言った。
『聊斎志異』巻5−174「鴉頭」 王文は妓女鴉頭と駆け落ちする。鴉頭は狐であり、その母親によって連れ戻され監禁される。鴉頭の産んだ子・王孜は捨てられるが、数年後に父・王文が孤児院で彼を見出す。王孜は十八歳の時、母親鴉頭を救い出し、鴉頭の母と姉を殺す。
『聊斎志異』巻7−286「阿繍」 劉子固は美女阿繍との結婚を望むが、別れ別れになってしまう。狐が阿繍そっくりに化けて劉を慰め、さらに、戦乱に遭遇した阿繍を助けて劉と結婚させる。その後も狐は阿繍に化け「どちらが本物か」と劉を試したりする。実は狐と阿繍は前世で姉妹で、阿繍は早死にして人間に生まれ変わっていたのだった。
『狐になった人妻』(ガーネット) テブリック氏の新妻シルヴィアが、ある日突然、狐に変身する。テブリック氏の妻への愛は変わらないが、狐妻はしだいに人間としての心を失って行く。狐妻はテブリック氏のもとから逃げ出し、雄狐との間に五匹の子狐をもうける。それを知ったテブリック氏は、雄狐に嫉妬する。やがて狐狩りの季節が来て、狐妻は猟犬たちに追われ、噛み殺される。
『今昔物語集』巻16−17 賀陽良藤は、狐の変じた美女に誘われ夫婦となり、正気をなくして、蔵の床下を大きな屋敷と思い、そこで暮らす。十三日後、良藤は痩せ衰えた姿で救出される。
『殺生石』(能) 天竺・唐土で悪事を働いた妖狐が、日本に渡って鳥羽院の寵妃玉藻前となった。玉藻前は院の命をねらい、朝廷の転覆を謀っていた。しかし安部泰成に調伏され、那須野へ逃げたが、三浦介・上総介に射殺された。
『封神演義』第4〜6回 冀州侯蘇護の娘・妲妃(だっき)が殷の紂王に召され、都・朝歌へ向かう。旅中、千年の女狐が妲妃を襲い、その魂魄を奪って妲妃に姿を変える。天文官が妖気を見、宰相が諫言するが、紂王は妖狐の化身の妲妃を愛し、政務を怠る。
*→〔性交〕5aの『西鶴諸国ばなし』巻3−4「紫女」。
『今昔物語集』巻28−28 尼たちが、仏に供える花を摘もうと山へ入って、道に迷う。空腹になったので、茸(たけ=きのこ)を見つけて焼いて食べたら美味だった。まもなく尼たちは、笑いがとまらなくなって踊り出す。木こりたちがやって来て、同様に茸を食べ、笑い踊る。しばらくすると、酔いが醒めたように正気に戻り、尼たちも木こりたちも山を降りて行った。
*→〔笑い〕1bの『笑い茸』(落語)。
『遠野物語』(柳田国男)18〜19 村の旧家・山口孫左衛門の家で、梨の木のまわりに、見馴れぬ茸(きのこ)がたくさん生えた。下男の一人が「どんな茸でも、水桶に入れて苧殻(おがら)でよくかき廻してから食べれば心配ない」と言うので、皆が茸を食べた。その結果、この家の主従二十幾人が、茸の毒にあたって一日のうちに死んだ。外で遊んでいた七歳の女児だけが助かった。
*きのこ鍋の毒味→〔毒〕6bの猫で毒味(日本の現代伝説『ピアスの白い糸』)。
『今昔物語集』巻28−17 左大臣道長に仕える祈祷僧が、平茸(ひらたけ)を食べて中毒死した。道長は憐れに思い、多くの葬儀料を与えた。これを知った貧僧が、自分も平茸を食べて死のうとする。普通に死んだのでは、死体を大路に棄てられるだろうが、平茸で中毒死すれば、葬儀料を得られると考えたのである。しかしこの僧は毒に強い体質で、平茸を食べても死ななかった。
『今昔物語集』巻28−18 金峯山の別当は八十歳を過ぎても壮健だった。次位の僧が「別当を殺して、自分が新別当になろう」とたくらみ、和太利(わたり)という毒茸を調理して、別当に食べさせる。ところが別当はいっこうに平気で、「これほど美味な和太利は食べたことがない」と言って笑う。別当は長年、和太利を食べ続けてきたが、まったく毒にあたらない体質なのだった。
『くさびら』(狂言) ある男の家の庭に、季節外れのくさびら(=きのこ)がたくさん生え出て気味が悪いので、山伏に加持を頼む。山伏は「これは狗賓(ぐびん=天狗)のしわざだ」と言い、「ボロンボロ ボロンボロ」と呪文を唱えて、くさびら退散の祈祷をする。しかし、くさびらはどんどん増え、「ホイホイホイホイ」と言葉を発して動き回る。山伏は、くさびらたちに追われて逃げて行く。
『マタンゴ』(本多猪四郎) 七人の男女がヨット航海に出て嵐に遭い、太平洋上の無人島に漂着する。仲間割れが起こり、死者や行方不明者が出る。生き残った者たちは飢えに堪えかねて、島に群生するきのこ・マタンゴを食べる。マタンゴは美味で、こころよい幻覚も見える。マタンゴを食べた者は、身体がきのこ状になり、きのこ人間となって動きまわる。一人の男だけがマタンゴを食べずに島を脱出し、救助されて日本へ戻る→〔病院〕1。
『宇治拾遺物語』巻1−2 丹波国篠村(しのむら)に毎年多くの平茸が生え、村人は採って食べていた。ある時、村人の夢に、二〜三十人の法師が現れ、「長年宮仕えをしてきましたが、この村との縁が尽きたので他所へ参ります。名残惜しいことです」と告げた。翌年の秋、平茸は生えなかった。「不浄の身で説法する法師は、平茸に生まれ変わる」と言われるから、毎年の平茸は、法師の転生した姿だったのだろう。
『日本書紀』巻24皇極天皇3年3月 大和国菟田(うだ)郡の人・押坂直(おしさかのあたひ)が、子供一人を連れて菟田山へ登り、紫色の菌(きのこ)が雪の中から生え出ているのを見た。高さ六寸余で、四町ほどの範囲に生えていた。家へ持ち帰り、煮て食べると、香ばしい味がした。翌日、山へ行くと、菌は一本もなかった。押坂直と子供は菌を食べたおかげで、病気にもかからず長生きした。ある人が、「それは菌ではなく、芝草(=仙薬)だったのだろう」と言った。
『紫の茸(きのこ)』(H・G・ウェルズ) 小さな店の主人クームズ氏は、妻から「チビの地虫」と呼ばれ、面白くない毎日を送っていた。ある日クームズ氏は、妻や客たちの無礼・無作法なふるまいを我慢できず、家を出る。松林まで来て紫色の茸を見つけ、「毒でもかまわない」と思って口に入れる。たちまちクームズ氏は気が大きくなり、家へ戻って客を追い出し、妻を怒鳴りつける。それ以来、妻はすっかり従順になり、商売も繁盛するようになった。
★1.古い器物や金銀などが、動き出したり物を言ったりする。人間の形をとることもある。
『狗張子』(釈了意)巻6−1「塩田平九郎、怪異を見ること」 摂州荒木家の侍塩田平九郎が出家し、諸方を旅する。ある時、草原のあばら家で夜を明かすと、三人の男が来て、世相を論じ詩を詠ずるが、平九郎の念仏の声とともに彼らは消えた。翌朝あばら家の内を捜すと、古いうちわ・笛・箒があった。
『捜神記』巻18−2(通巻414話) ある家に住む富豪が突然没落し、次にその家に住んだ人は家族が皆病気になった。阿文という男が家を買い、夜中に見張っていると、黄・白・青の着物を着た男たちが来て、「細腰」と呼ばれる者と話し合った。黄・白・青の男は屋敷内に埋まっている金・銀・銭で、「細腰」は竈の下の杵だった。阿文は金・銀・銭を掘り出し、杵を焼き捨てた。
『閲微草堂筆記』「槐西雑志」185「割れ甕の怪」 ある家に化け物が出る。身体つきは人間と変わらないが、目と眉の間が二寸ほどもあって、口と鼻の間がたった一分(ぶ)という、奇妙な顔をしている。劉という男が鉄砲でねらい撃ちすると、それは割れ甕だった。子供たちが甕に、人の顔をいたずら書きしたのである〔*顔を書いたために、甕に魂が宿ったのかもしれない→〔枕〕7の『太平広記』巻368所引『集異記』〕。
『西鶴諸国ばなし』(井原西鶴)巻1−4「傘(からかさ)の御託宣」 村人が傘を神様だと思って祀ると、その傘に魂が宿り、「美しい娘を巫女として差し出せ」と託宣した。村娘たちは、傘の形から巨大な男根を連想して恐れたので、好色な後家が身代わりを買って出た。しかし傘と一晩過ごしても何事も起こらず、後家は立腹して傘を破り捨てた。
*→〔笠(傘)〕4の『雨ふり小僧』(手塚治虫)。
『閲微草堂筆記』「如是我聞」97「箒の怪」 花売りの男が某家の門を叩き、「この家の娘に花を売ったので代金をいただきたい」と請求する。家族は誰も覚えがないが、厠のぼろ箒の柄に花が何本か差してあった。その箒をへし折って焼き捨てると、かすかに泣き声がして血が流れた。
『幽明録』38「箒の美少年」 欲情過多の婦人がいて、朝晩酒を飲んでまぎらしていた。ある朝、目をさますと、すばらしい美少年が二人、家の裏に立っている。しかし、婦人が抱きしめようとすると、美少年は箒になってしまった。婦人は箒を焼き捨てた。
『子不語』78「伊五」 某貴人の娘が化け物にとりつかれて困っていた。道術を修めた兵卒伊五が「これは器物の妖怪だ」と言って、真夜中に娘の部屋に入り、妖怪と戦って退治する。妖怪の正体は籐の腰掛であり、焼き捨てると地上一面に血が流れ出た。
『徳利(とっくり)の化け』(アイヌの昔話) 徳利が川へ落ち、石にぶつかって首がもげ、流されて海底に転がっていた。海の神が憐れみ、徳利を、首の短い男の姿にして陸へ上げてやる。その男(=徳利)は、自分が何ものであるかわからず、諸方をさすらう。男は、ある村の村長に突きとばされ、転がって、首のもげた徳利に戻った。男は村長の夢枕に立ち、「あなたのおかげで私は、自分が徳利であったことを知りました」と礼を述べた。
*→〔見間違い〕2の『武道伝来記』(井原西鶴)巻5−4の、庭を走る炬燵も、器物霊と思われたのであろう。
*袋に生命が宿って、人間の形をとることもある→〔袋〕7の『太平広記』巻386所引『玄怪録』。
*→〔狸〕3bの『文福茶釜』(昔話)は、狸が茶釜に化けたものとはいうが、茶釜に動物の魂が宿った器物霊のような印象もある。
『トリスタンとイゾルデ』(シュトラースブルク)第11・14章 トリスタンはモーロルトとの闘いで傷を負う。モーロルトの妹、王妃イゾルデだけがその傷を治すことができる。トリスタンは「楽人タントリス」と名乗り、王妃イゾルデとその同名の娘イゾルデ姫のもとに滞在し、傷をなおしてもらう。しかしイゾルデ姫は、タントリス=トリスタンで、伯父モーロルトの仇であることに気づく。
『日本書紀』巻28天武天皇元年6月 大伴吹負は大友皇子の臣だったが、戦況の不利を悟り、天武天皇方に寝返ろうと考えた。吹負は偽って「天武の子・高市皇子」と名のり、数十騎を率いて自軍を混乱させ、多くの兵を服従させた。天武帝は喜び、吹負を将軍に任命した。
*→〔金〕1aの『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』(鶴屋南北)・〔呼びかけ〕2の『西遊記』百回本第34回。
*正体を隠していたが、本名を呼ばれて返事をしてしまう→〔返答〕5。
『断崖の錯覚』(太宰治) 作家志望の青年である「私」は温泉地へ遊びに出かけ、宿帳に、某新進作家の名前を記入する。「私」は喫茶店で働く少女・雪を恋し、関係を結ぶ。旅館の裏山に二人で登った時、雪は、某新進作家の名前で「私」を呼んだ。雪が愛している男は「私」ではなく、某新進作家だったのだ。「私」は、雪を断崖から突き落として殺した。
『東海道中膝栗毛』(十返舎一九)5編下「津」 弥次郎兵衛・喜多八が下手な狂歌を詠みながら歩いていると、土地の男が感心して「お江戸の方ですか?」と声をかける。弥次郎兵衛は「私は十返舎一九で、『膝栗毛』著述の必要から出かけて来ました」、喜多八は「私は弟子の一片舎南鐐」と、それぞれでたらめを言う。二人は男の家で歓待されるが、「本物の十返舎一九が当地を来訪中で、まもなくこの家に来る」との知らせに、慌てて逃げ出す。
*「偽名」対「偽名」→〔二者同想〕3の『ドラえもん』(藤子・F・不二雄)「虹谷ユメ子さん」。
★1.男たちが集まり、魔物がいるかもしれぬ場所まで一人で行けるか、肝だめしをする。雨の夜に行なわれることが多い。
『大鏡』「道長伝」 五月雨の夜の清涼殿。殿上人たちが花山天皇と、昔の恐ろしかったことなどの話をする。花山天皇は「この闇夜に、遠く離れた所へ一人で行けるか?」と問い、藤原氏の三兄弟に「道隆は豊楽院へ、道兼は仁寿殿の塗籠へ、道長は大極殿へ行け」と命ずる。道隆と道兼は怖がって途中で戻って来るが、道長だけは大極殿まで行き、証拠に柱の下部を少し削り取って、帰って来た。
『古今著聞集』巻16「興言利口」第25・通巻516話 雨風の激しい夜、中納言実綱卿の家で侍たちが雑談をするうちに、一人が肝だめしに東三条の池まで行くことになる。傍輩二〜三人が池へ先回りし、円座(わらざ)や棒を投げて侍を脅す。侍はこけつまろびつ逃げ帰り、「唐傘のような物が落ちてきたので、命が大事と思って逃げて来た」と言った。
『今昔物語集』巻27−43 源頼光が美濃守だった時のこと。九月下旬の夜、頼光に仕える侍たちが集まって、恐ろしい産女の話をする。平季武が、「産女のいる川を、今から渡って見せよう。川の対岸に矢を突き立てて、確かにそこへ行った証拠としよう」と言い出す。仲間の侍たちは、「いかなる勇者でも、産女のいる川は渡れまい」と言って、鎧・甲・鞍・太刀などを賭ける→〔赤ん坊〕4b。
『今昔物語集』巻27−44 夏の鈴鹿山を越える三人の男が、夜、古堂に雨宿りして物語するうちに、「昼間に山中で見た死体を、取って来ることができるか」という話になる。一人が着物を脱ぎ、裸で雨の中を駆け出て行く。もう一人が先回りし、死体になりすまして横たわり、背負う男の肩に噛みつく。噛まれた男は恐れることもなく、そのまま死体を背負って古堂まで戻る。
『春雨物語』(上田秋成)「樊噌(はんかい)」上 大山の麓の里に住む無頼の若者たちが、ある雨の日、仕事から解放されて無駄話に興ずるうち、日頃腕自慢の大蔵を憎み、「恐ろしい神が住む大山に夜登って、証拠の品を置いて来れるか」と挑む。大蔵はすぐに蓑笠を着けて雨の中を出て行く→〔山〕1a。
*→〔門〕3の『羅生門』(能)。
『幽霊滝の伝説』(小泉八雲『骨董』) 冬の夜、麻取り場で働く女たちが、怪談に興ずる。皆だんだん薄気味悪くなって来た時、一人の娘が「今夜、幽霊滝へ一人で行けたら、私の取った麻を全部あげよう」と提案する。他の女たちも面白がり、「私もあげよう」と言う。お勝という女房が立ち上がり、二歳の息子を背負って出かける→〔声〕1c。
★3.肝だめしに出かけた男が、何でもないことにおびえて死んでしまう。
肝だめし(ブレードニヒ『ヨーロッパの現代伝説 悪魔のほくろ』) 夜中に一人で墓地に入り、仇敵の墓や殺人鬼の墓まで行く、という肝だめしがあった。仇敵の墓の縁に十二時の時計が打つまで腰かけていた男は、立ち上がる時、着ていたコートを鉄柵に引っかけた。男は「死人につかまれた」と思い、心臓発作を起こして死んだ。また、殺人鬼の墓まで行った証拠として、そこへ熊手を突き立てた少年は、着ていたジャケットも一緒に地面に釘付けにした。少年は「死者に引き止められた」と思い、恐怖で死んだ。
『戦争と平和』(トルストイ)第1部第1篇 白夜のペテルブルグ。クラーギン邸に青年たちが集まり、酒を飲んで騒ぐ。ドーロホフが三階の窓に、足を外側へたらして腰掛けたまま、ラム酒を一壜飲み干せるかどうか、賭けが始まる。彼はバランスをくずしかけるが、体勢をたてなおして見事に酒を飲みきる。ピエールが興奮して「僕もやるぞ」と叫び、窓へ飛び上がる。皆が「君は梯子段の上でも眩暈がするじゃないか」と言ってとめる。
『吸血鬼ドラキュラ』(ストーカー) 吸血鬼ドラキュラ伯爵は、昼間は棺のごとき木箱の中に寝て、夜だけ活動する。彼は人々を襲って血を吸い、嬰児をさらうこともある。吹雪の日、雇われたジプシーたちが、ドラキュラを入れた木箱を荷馬車で運ぶ。雪が止み、夕日が沈む直前に、ジョナサン・ハーカーたちが待ち伏せし、木箱を開けて、刀や匕首でドラキュラを刺す。ドラキュラの身体は、たちまち粉々の塵と化す。
『髑髏検校』(横溝正史) 文化年間、不知火検校と名乗る怪人(=髑髏検校)が、松虫・鈴虫という二人の美女を引き連れて、江戸の町に現れる。彼らは吸血鬼であり、夜ごと市中に出て人々の生き血を吸う。しかし昼間は活動できず、三つの柩の中に横たわっている。鳥居蘭渓や秋月数馬たちが、吸血鬼の眠る古寺へ踏み込み、三つの柩に花葫(はなにんにく)を詰めて火をつけ、彼らを焼き滅ぼす。不知火検校は、天草四郎の妄執の化身であり、徳川の天下をくつがえそうとたくらんでいたのだった。
『吸血鬼カーミラ』(レ・ファニュ) カルンスタイン伯爵夫人「マーカラ」は百五十年前に葬られたが、彼女は吸血鬼であり、棺の中の死体は腐敗せず、七インチも溜まった血の中に浸っている。「マーカラ」は、「ミラーカ」という名の美女や、「カーミラ」という名の美女となって地上に現れ、人の血を吸う。官命を受けた調査会が「マーカラ」の墓を開き、胸に杭を打ち込む。首と胴体を切り離して焼き払い、灰は川へ流し捨てた。
*「女吸血鬼だ」と誤解された人→〔見間違い〕4aの『サセックスの吸血鬼』(ドイル)。
『アイ・アム・レジェンド』(マシスン) 謎の細菌に感染して、大勢の人々が吸血鬼になった。吸血鬼に血を吸われた人もまた吸血鬼と化し、今や地球上の人類すべてが吸血鬼である。ただ一人、ロバート・ネヴィルだけは免疫があったため、人間であり続けた。ネヴィルは吸血鬼たちと戦い、多くの吸血鬼を殺した後に、力尽きて死ぬ。吸血鬼の側から見れば、ネヴィルこそ特殊な・異様な存在であり、脅威であった。彼の恐ろしさ・忌まわしさは、伝説として吸血鬼社会に語り継がれるだろう。
★3b.吸血鬼たちが、ただ一人残った人間をそのまま生かしておく。
『抑制心』(星新一) 世界中の全員が、すべて吸血鬼になってしまった。人間は、「あなた」一人だけだ。「あなた」の逃げ場はどこにもない。しかし「あなた」の安全は保証されている。皆、「あなた」の血を吸いたいが、それは、一つだけ残ったお菓子を食べてしまうようなもの。だから皆遠慮して、誰も「あなた」に手をつけないのだ。
★3c.人類が一人残らず吸血鬼になってしまえば、問題はない。
『流血鬼』(藤子・F・不二雄) 世界中の人間が吸血鬼にされてしまい、日本の少年一人だけが、人間として残っていた。吸血鬼特有の赤い目・青白い肌になったガールフレンドが、少年に説く。「私たちに血を吸われた人間は、新人類として生まれ変わるのよ。新人類は、あらゆる点で旧人類よりすぐれているわ」。少年はガールフレンドに血を吸われて新人類の一員となり、新しい世界の素晴らしさを喜ぶ。
★3d.逆に、人類が吸血鬼を殺しつくし、男女二人の吸血鬼だけが生き残る。
『血』(ブラウン) 人類による徹底的な吸血鬼狩りが行なわれ、かろうじて生き残った男女二人の吸血鬼が、自分たちの安全と生き血を求めて、タイムマシンで遠い未来へ行く。未来社会には見知らぬ生き物がいて、このように自己紹介した。「現在では、生きとし生けるものすべてが植物だ。ぼくは、蕪が進化したものである」〔*星新一は『短篇をどう書くか』で、『血』(ブラウン)は、「タイムマシン」「吸血鬼」「植物人間」という三つの知識を組み合わせて創った作品だ、と解説する〕。
『酒呑童子』(御伽草子) 大江山の酒呑童子は都の美女たちをさらい、身体の内から血をしぼり取って、これを「酒」と称して飲んだ。また、肉を削ぎ、肴(さかな)と称して食った。源頼光たち六人の武将が山伏に変装して訪れた時にも、しぼりたての血を盃に満たし、切りたての腕と股(もも)を板に載せて勧めた。頼光たちは酒呑童子を油断させるために、血を飲み肉を食べた。
蚊(高木敏雄『日本伝説集』第22) 大江山の酒顛(=酒呑)童子の頭が、竹薮へ投げ棄てられた。酒顛童子の亡念により、頭の肉は腐って蚊となった。蚊が人を刺すのは、酒顛童子が祟るのである(出雲国松江)。
『絵本百物語』第38「恙虫」 斉明天皇の御代(655〜661)、石見の国・八上の山奥に「つつが」という虫がいた。夜、「つつが」は人家に侵入し、眠る人の生き血を吸って殺した。天皇の命令で博士某が「つつが」を封じ込め、人々は「つつが」に殺される心配から解放された。以来、無事であることを、「つつがなし」というようになった。
『奥義抄』下 昔、女のもとへ百夜続けて通い、車の榻の上にふして、女の愛を得ようとする男があった。しかし九十九夜が過ぎたところで親が急死し、男は百日目の夜に女のもとへ行けなくなった。
『通小町』(能) 深草の四位の少将が小野小町に心を懸け、車の榻のもとへ百夜通おうとする。しかし九十九夜目に、少将はにわかに胸の苦しさをおぼえ、あと一夜を待たずして息絶える〔*『卒塔婆小町』に同話〕。
『ニュー・シネマ・パラダイス』(トルナトーレ) 兵士が王女に恋をする。王女は「百日間、昼も夜も、私のバルコニーの下で待っていてくれたなら、あなたのものになりましょう」と言う。雨の日も風の日も、兵士はバルコニーの下の椅子にすわり続ける。しかし九十九日目の夜、兵士は椅子から立ち上がり、去って行った〔*映写技師アルフレードが、恋に悩む青年トトに語る物語。「なぜ兵士が去ったか、わしにもわからん」とアルフレードは言う〕。
『鹿の子餅』「通小町」 公家の姫君に恋した男が、「百夜通えば逢おう」との返事を得て、雨の夜も風の夜も通う。九十九夜目に腰元が、「姫様が一夜ぐらいまけてあげますとの仰せ。御寝間へ」と誘うと、男はうろたえ「私は日雇いです」と言う。
海を通う女の伝説 伊豆山の大工が三里沖の初島の娘から思いを寄せられ、「伊豆山まで百晩通ったら妻にしよう」と約束する。娘は毎夜、湯野権現の燈明を目当てに泳いでやって来て、九十九夜が過ぎる。大工は気味悪く思い、百夜目に燈明を消す。翌朝、娘の死体が浜に上がるが、それは鱗の生えた蛇体であった(静岡県熱海市初島)。
*たらい舟に乗って、女が男のもとへ通う→〔船〕6のお弁の滝の伝説。
*百日参りの九十九夜目→〔百〕4の枡伏せ長者の伝説。
『平家物語』巻3「御産」 中宮徳子に皇子(安徳帝)が誕生した時、平重盛が金銭九十九文を皇子の枕元に置き、祝福の言葉を述べた。
『千一夜物語』「九十九の晒首の下での問答」マルドリュス版第845〜847夜 美しい姫君が塔の露台に立ち、求婚する若者にいくつもの謎を出し、答えられなければ首を刎ねる。多くの若者が死に、露台の周囲に吊るされた首が九十九になった時、旅の王子が姫君の問いにすべて正しく答え、姫君の夫になる〔*→〔難題〕1bの『トゥーランドット』(プッチーニ)に類似する〕。
九十九谷の伝説 龍は谷が百ないと住めない。弥勒池には谷が百あって龍が住んでいたが、腹が減ると村人を襲った。困った村人は、相談して谷を一つつぶした。九十九谷しかなくなったので、龍は住めなくなり、他所へ逃げて行った(香川県大川郡大川町富田中)。
九十九谷の伝説 田原山の九十九谷は、実は百谷ある。これは、百谷あると大蛇が住むから、九十九谷というのである。一説には、田原山には百谷あるが、その百谷めに大蛇が住んでいるので、九十九谷しか見えないのだ、という(大分県西国東郡大田村)。
『ルカによる福音書』第15章 イエスは次のたとえを語った。「百匹の羊を持つ人が、その一匹を見失ったら、九十九匹を野原に残して、一匹を捜し回るだろう。見つけたら友人・隣人を集めて、『いなくなった羊を見つけたので、一緒に喜んで下さい』と言うだろう。同様に、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない正しい人九十九人についてよりも、大きな喜びが天にある」〔*『マタイ』第18章に類話〕。
★1.千人を目指す企ての、九百九十九人までが済み、千人目に特別な人物と出会う。
『義経記』巻3 弁慶は千振の太刀を得ようと欲し、洛中で人々の太刀を取り歩き、九百九十九取ったところで牛若丸と出会う〔*『橋弁慶』(御伽草子)では、逆に牛若丸の方が五条の橋で千人斬りをくわだて、九百九十九人斬ったところで弁慶と出会う〕。
『賢愚経』「指鬘の宿業の話」 鴦仇魔羅(指鬘外道)は七日のうちに千人の指を切り落とそうとして人々を殺しまわり、九百九十九本の指を集める。人々が皆逃げ隠れてしまったので、母親の指を切って千本目にしようと考える。仏がこれを見て鴦仇魔羅を教化し、仏弟子とする。後に仏は、鴦仇魔羅の前世を語る。「鴦仇魔羅の前世は駁足王で、九百九十九人の王を捕え、千人目に須陀素弥王(仏の前世)をつかまえた。須陀素弥王は波羅門に布施をするため七日の猶予をもらい、その後に約束どおり駁足王の所に戻って死のうとする。その姿を見た駁足王は悪心を止め、諸王を解放したのだった」〔*→〔千〕1の『今昔物語集』巻1−16では、一番最初に仏に出会う〕。
『元亨釈書』巻18 光明皇后が浴室を建て、「貴賤を問わず千人の垢を自らの手で落とそう」と誓う。九百九十九人まで終わり、千人目に癩病の男(*実は阿シュク如来)があらわれる。皇后は癩病者の身体を洗い、膿を吸って、「私がお前の膿を吸ったことは他言するな」と言う。すると癩病者は全身から光を放ち、「后も、阿シュク如来の垢を落としたことを人に語るなかれ」と告げ、忽然と姿を消す。
『曽我物語』巻7「千草の花見し事」 しやうめつ波羅門が千日に千の生類を殺そうとの願を立て、九百九十九日に九百九十九の生物の命を断つ。千日目に亀を殺そうとすると、波羅門の母が「亀を放して代わりに我を殺せ」と言う→〔土〕5。
『曽我物語』巻7「斑足王が事」 斑足王が「千人の王の首を取ろう」と志し、九百九十九人まで取る。千人目に捕えた普明王は一日の暇を請い、後世のために僧を招いて供養する。その功徳で斑足王は諸法皆空を悟り、悪心を止める。
『まつら長者』(説経) 大蛇が大池に住むこと九百九十九年、九百九十九人の人身御供を取った。千人目の人身御供になった松浦長者の娘さよ姫が『法華経』「提婆品」を読み上げ、経巻を大蛇の頭に投げると、十二の角が落ちて大蛇は成仏得脱する〔*『さよひめ』(御伽草子)に類話〕。
*→〔昇天〕2の『南総里見八犬伝』第9輯巻之13之14第116〜117回。
『天人女房』(昔話) 天人女房が、ぞうりを千足作って天へ昇って来い、と夫に言い残して飛び去る。夫は九百九十九足まで作り、最後の一足は作らずに、迎えの雲に乗って天に昇り始める。しかしあと少しの所で届かないので、天人女房が機織り棒を差し出して、夫を引き上げる(香川県三豊郡)→〔異郷訪問〕4・〔水浴〕1a。
『今昔物語集』巻5−23 舎衛国の山の木に千の猿がおり、九百九十九の猿には鼻がなく、一の猿だけに鼻があった。九百九十九の鼻欠け猿は、鼻ある猿を片輪者とあざけった。
『神道集』巻2−6「熊野権現の事」 九百九十九人の后が、五衰殿の女御の懐妊を嫉妬し、九百九十九人の老女を鬼の姿に作り暴れさせるなどのことをして、女御を死に追いこむ。後、九百九十九人の后は赤虫と化す〔*『熊野の本地』(御伽草子)では、諸本によって、九百九十九人の后が毒蛇になる・鳴神になる・蛭になる、など異同がある〕。
*九百九十年→〔笛〕3の『笛塚』(岡本綺堂)。
『宇治拾遺物語』巻6−5 谷に落ちた男が、大蛇の背に刀を突き立て、それにすがって岸の上へ登る。帰宅して、常に読誦する観音経を見ると、「弘誓深如海」の所に刀が突き立っていた〔*『古本説話集』下−64話に同話。『今昔物語集』巻16−6・『大日本国法華験記』下−113話の類話では、経軸に刀が立つなどの小異〕。
『今古奇観』第14話「宋金郎団円破氈笠」 宋金は両親の死後、旧知の劉家の婿となるが、肺病になったため荒地に捨てられる。老僧が現れ『金剛般若経』の巻物を宋金に授けて姿を消し、宋金が教えに従って経文を唱えると、たちまち病気は治る。
『今昔物語集』巻14−42 左大将常行は百鬼夜行に出会い、鬼に捕らえられそうになるが、襟首に尊勝陀羅尼が縫いこんであったため、鬼は近づけず退散する。
『太平記』巻3「赤坂の城軍の事」 赤坂城を脱出する楠木正成が臂を射られるが、矢がはね返り身に傷は負わなかった。後で見ると、膚守りの観音経の一心称名の偈に矢先が留まっていた。
*経のおかげで、雷が落ちても無事だった→〔落雷〕2。
『今昔物語集』巻6−38 震旦の男が『維摩経』を書写して病気を治し、二十年の寿命を得、また冥土の父母の苦を救った。
『今昔物語集』巻6−47 二十七歳の時、占者から「短命である。三十一歳を過ぎることはない」と言われた張李通は、『薬師経』一巻を書写して三十年寿命が延びた。
『今昔物語集』巻6−48 十三歳の童児が命の終わるはずの日に、僧が『寿命経』を転読するのを聞いて、七十余歳の命を得た。
『今昔物語集』巻7−8 震旦の男は、『大品般若経』をそれと知らずにわずか三行書写しただけで、八十三歳の長寿を得た。
『法華経』「常不軽菩薩品」第20 すべての人々を敬い拝んだ常不軽菩薩が死期を迎えた時、虚空から法華経の二十千万億の偈が聞こえた。それを聞き会得した常不軽菩薩は六根清浄の身となり、寿命が二百万億那由佗歳まで延びた。
『今昔物語集』巻7−2 唐の高宗の時代、一人の書記生が病死して冥府へ赴いたが、一日二夜を経て蘇生した。彼は生前に高宗の勅命で『大般若経』十巻を書写したことがあり、それを知った閻魔大王が彼を放免したのだった。自分の意志からでなく、国王の命令で経の一部を書写しただけでも、このような功徳がある。
★2.前世で経典の文字を喰ったり焼いたりした報いを、現世で受ける。
『天狗の内裏』(御伽草子) 浄土にいる父源義朝が、十三歳の義経(=牛若丸)に前世と将来を教える。義経は前世で鼠だった。源頼朝・北条時政・梶原景時は、前世で頼朝(らいてう)・時政(じしゃう)・景時坊(けいじばう)という聖だった。鼠が、聖の持つ経典の文字を喰ったので、景時坊はこれを憎んだ。それゆえ現世で義経は、梶原景時から讒言され兄頼朝に討たれて、三十二歳で死ぬ運命なのである。
『今昔物語集』巻14−13 入道覚念は『法華経』を読誦していたが、経の中の三行の文章だけはどうしても覚えられず、読むことができなかった。ある夜の夢に老僧が現れ、「汝は前世で衣魚(しみ)であり、『法華経』の巻物の中に巻き込められて、三行の文章を喰ってしまった。だから覚えられないのだ」と教えた。
『日本霊異記』上−18 生来聡明な修行者が、八歳以前に『法華経』をすべて読誦することができたが、一文字だけどうしても覚えられなかった。二十歳を過ぎてもなお、覚えられなかった。ある夜の夢で彼は、「前生に燈火で経文の一文字を焼いてしまったため、その文字を覚えられないのだ」と、教えられた。
『神道集』巻8−49「那波八郎大明神の事」 大蛇の餌食にされる姫の身代わりに、宮内判官宗光が贄棚に上り『法華経』を唱える。大蛇は涙を流し「経聴聞の功徳で悪心が消えた」と礼を述べて去る。
『まつら長者』(説経)5段目 松浦長者の娘さよ姫が、大池の大蛇の千人目の生贄になる。彼女の読誦する『法華経』を聴聞した大蛇は、十二の角と一万四千の鱗が落ち、女体となって「大蛇の苦を逃れ成仏得脱を得た」と礼を述べる。
『仮名手本忠臣蔵』4段目「判官切腹」 塩冶判官は切腹し絶命した後も、九寸五分の刀を右手に固く握りしめて放さない。大星由良之助が「南無阿弥陀仏」を唱えながら判官の右手を撫でさすると、ようやく掌が開いて刀を放す。
*→〔掌〕1cの『桜姫東文章』「新清水」。
『是楽(ぜらく)物語』(仮名草子) 山本友名の愛人「きさ」は、瀬田の橋から身を投げた。瀬田の橋の下は深い淵で、龍宮界の城門がある、と聞いたからである。「南無妙法・・・・」と唱えつつ飛び込み、「・・・・蓮華経」は水の底から聞こえた。
『南総里見八犬伝』第2輯巻之1第12回 伏姫を背に乗せて富山に入った八房は、情欲をもって伏姫を見つめ喘いでいた。しかし伏姫が法華経を読誦するのを百日余り聞くと、八房の情欲は消えた。
『今昔物語集』巻12−7 天平勝宝四年(752)、東大寺の大仏開眼供養の日、聖武天皇は夢告にしたがって、その朝最初に通りかかった鯖売りの翁を、法会の読師に任命した。法会が終わると翁は忽然と姿を消し、彼が持っていた笊の中の鯖は、『華厳経』八十巻に変わった。天皇は、翁が仏の化身だったことを悟り、礼拝した。
『日本霊異記』下−6 衰弱した師僧に食べさせるために、弟子が魚八尾を買う。魚を入れた櫃から魚の汁が垂れるので、信徒たちが咎めるが、櫃を開けると中は『法華経』八軸に変わっていた。
*蛸がお経に変わる→〔蛸〕5の蛸薬師の伝説。
『西遊記』百回本第98回 三蔵法師一行は大乗経典を求め、十四年かけて天竺雷音寺の釈迦如来のもとにたどり着く。しかし手土産を用意して来なかったため、阿難と迦葉が文字の書いてない白紙の経巻を授ける。燃燈古仏がそのことを教えたので、三蔵は、托鉢用の紫金の鉢を阿難に献上し、有字の真経五千四十八巻を得る。
*牛の鳴き声が、読経に聞こえる→〔動物音声〕1bの『古今著聞集』巻20「魚虫禽獣」第30・通巻701話。
*読経の声が、夜泣きに聞こえる→〔夜泣き〕1の『かるかや』(説経)「高野の巻」。
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